第15話 はしゃぐ

 トリウィアの魔力乳の制作を、屋敷内で和気あいあいと進めていたその時だった。

 ふいに扉が開き、勇者ノクスとキュンティアが並んで姿を現す。そして、勇者の第一声が場の空気を凍らせた。


「俺、キュンティアさんと結婚することになったから。」


 その言葉は、この場の時間を止めた──

 和やかな雰囲気は吹き飛び、場にいた三人の思考は硬直する。何の前触れもなく、ノクスの口から発表されたその内容を、三人は誰も理解できなかった。


 時間が再び動き出すと、三人はそれぞれに反応をみせた。

「──……。そ……、それは……、いったい、一体どういう事ですの?」

 最初に口を開いたセレーネの声は震え、瞳は揺れている。

「えっ、えっ? ちょ、ちょっと待ってください、ノクス。もう一度……何て言いました?」

 ロナの声は裏返り、思考が追いつかない様子で首を振る。

「……。いきなり何言ってんのよ。アンタ、何か変な物でも食べた?」

 トリウィアの口調は、理解を拒否するかのように冷え切っていた。だがその目には、冗談では済まさない鋭い意志が潜んでいる。


 三人は我先にとノクスに詰め寄り、当然のように真意を問いただす。

「だから俺、このキュンティアさんと、正式に婚姻を結ぶことになったから。」

 その追及に全く動じず、勇者は淡々と一点を見据えたまま、同じ言葉を繰り返した。

 そしてその横から、キュンティアが柔らかく微笑みながら口を挟む。

『先ほど、ノクスさんから熱烈なアプローチをいただきまして……お受けすることにいたしましたわ。』

 だが、その補足説明は、火に油を注ぐ行為でしかなかった。


「──あんたは黙ってなさいよ……。」

 その声音はトリウィアの声とは分からないほど低く、怒気を孕んでいた。これまでの友好的な関係を壊しかねない、苛立ちと嫉妬が溢れ出している。

「……何かの間違いですわよね、ノクス。そうでしょう? そうに決まってますわ……。」

 セレーネは信じたくない現実を否定するように、言葉に強い殺気を込めてノクスを睨みつけた。

 いつもなら、その視線だけで身を竦ませるほどの恐怖を前に、今のノクスは微動だにせず、彼女の視線を受け止めていた。


「勇者の使命はどうするんですかっ! こんなこと、絶対に許されませんよっ!!」

 ロナは叫ぶように怒声を浴びせる。その声には、使命という建前を借りながらも、言い知れぬ裏切られた痛みが滲んでいた。

 だが、その真っすぐな感情も、ノクスの表情には何一つ影響を与えなかった。

「でも俺、このキュンティアさんと結婚することになったから。」

 まるで判で押したように、勇者は機械的に繰り返すままだった。


 その後も、三人はひどく取り乱したまま、怒号混じりの詰問を重ねたが、それでもノクスの答えは、決して変わることはなかった。

 まるで、他のすべてを切り捨てる覚悟をすでに済ませているかのように……。


 その様子を、アタエギナは終始黙って見ていた。だが、激しく感情をぶつけ続ける三人を見かねて、やがて口を開いた。

『─…しょうがねーんじゃねぇか? 花火みてーに咲いて散る──男女の色恋ってそういうもんだろ?』

 その言葉は、三人にとって到底受け入れられるものではなかった。だが、アタエギナは構わず続ける。

『それに、勇者だって使命を捨てるつもりはねぇだろ。なら、その上で添い遂げようってんなら、誰にも止める筋合いはねぇんじゃねーのか?』

 三人は返す言葉が無く、俯いた。

 自分の中でどれほどの感情が渦巻いていたとしても、それはもう、自分のものでしかない。彼女の言葉を否定できるほどの理屈は、彼女たちにも見つけられなかった。


 ──アタエギナは、キュンティアが勇者に何をしたか、を知っている。

 キュンティアの魅了によって、今の勇者はまともな判断ができる状態ではない。当然それを、彼女はあの三人に言うわけにはいかない。そこをうまく隠しつつ、納得いくように誘導するには、まず三人の不満をあらかた吐き出させた上で、冷静な正論を差し出す必要があった。


 もしこれを、中心にいるキュンティアが言ったのでは、さらに火に油を注ぐだけになる。

 その点、当事者から少し距離を置いたアタエギナからの客観的な意見ならば、彼女たちの耳にも届く。なおかつ、そのぶっきらぼうな言い方は、三人の中にわずかな理性を取り戻させるのに、丁度よかった。


『──ええ。私も、ノクスさんに勇者の務めを放棄してもらおうなんて、思っていません。』

 場の空気が、かろうじて落ち着いたのを見計らい、キュンティアがしおらしく口を開く。

『もし許されるなら、あなた方ともこれまで通り、仲良くさせていただけたら嬉しいですわ。』

 彼女はこうなってしまったことを、少し悲し気に語る。だがその表情には、どこか「勝者の余裕」とも呼べるものがちらついていた。

『でも一つだけお願いが……、三日、いや二日だけで結構です。ノクスと婚前旅行に行くことを許してください。』

 キュンティアは両手を重ね、上品に一礼する。その物腰はあくまでも控えめで、健気ですらあった。


 だが、そのお願いの内容は、それはもう完全にラインを超えていた。

 矛を収めかけた三人に、遥か上から嘲笑するかのように響く、ノクスはすでに自分のものだと宣言するマウンティング。

 それはもう、宣戦布告に等しかった。


「ダメに決まってるじゃない……。」

 トリウィアが低く、唸るように呟き、彼女のお願いを拒否した。

 キュンティアの手をがっしりと掴み、まるでそのまま、地獄へと引きずり込もうとでもするかのように、その指先からは冷たい怒気が伝わる。

 セレーネの瞳は、すでに理性の光を失っていた。

 その奥に湛えられた深淵は、どうやって殺してやろうか、と物言わず算段しているかのように、見る者にぞっとするほどの闇を映していた。

 そして、ロナは肩を大きく上下させ、呼吸を荒げる。今にも飛びかかりそうな勢いで、全身が怒りに震えていた。


 ──その瞬間だった、ノクスが三人の前に出る。

 彼女たちからキュンティアを庇うように、その前に立ちはだかると、彼女の手を掴むトリウィアの手を握る。

「もう、決まったことだから。」

 静かに、だがはっきりと告げるその声は、三人の胸に深く、深く、深く突き刺さる。

 

 それを前にして、トリウィアは力なく、その手をキュンティアから離した。

 その瞬間、はっきりと悟った──ノクスはもう、自分たちの知っているノクスではない。

 勇者は、あのキュンティアを守る騎士となったのだ、と。


『──安心してください。皆さんが心配されるようなことではありません。

ただ、夫婦になるのですから──その前に、両親に会っていただきたいだけです。』

 キュンティアは、勝ち組の余裕の笑みを浮かべ、慈悲を施すかのように言葉を紡ぐ。

『そうだ。その証といっては何ですけど……、イシュチェルちゃんも一緒に連れて行きましょう。』

『ねぇ、イシュチェルちゃん。きっと楽しい旅になりますわ。』


 彼女たちは、もうキュンティアの顔を直視することすらできなかった。そんな施しはいらない、と振りほどく気力すらなく、ただ漫然と立ち尽くしていた。

 キュンティアの言葉は、絶望の底に沈む三人には全く届いてすらいない。もはや何を語っていても、何の意味もなく、ただすべては空しく響いた。

「うん、面白そう。行こう、行こう、婚前旅行!」

 イシュチェルのはしゃぐ声が響く。それを止める者は、誰もいなかった。

 誰も、何も言えなかった。何を言われても、何を返せばいいのかすら、もう何もわからない。


 トリウィアは拳を固く握りしめ、目を伏せて唇を噛んでいた。いつもなら、その拳はためらいなくノクスに振り上げられただろう。だが、そうできる前提の信頼も、絆も、すべてはもう跡形もなく崩れ去っていた。

 目の前の光景に、自分の居場所はもうない。完全に現実の外側に追いやられた自覚が、握った拳から力を奪っていく。

 そして──。

「……おめでと。」

 聞こえたかどうかもわからないほどの囁きだけを残し、もう、ここにはいられなかったトリウィアは立ち去った。

 その背を追うように、ロナとセレーネも、黙ったまま外へ出て行った。


 キュンティアたちが、これまでその為に手を尽くし、多くの辛苦を舐めたイシュチェル奪還計画は、ここに完成を果たす。

 あとはもう、勇者とイシュチェルを魔王様の元へ送りさえすればいい。その安堵と愉悦に、キュンティアのみならず、他の二人も口元を大きく歪ませた。


 その視線の先には、誰もいない三つの椅子だけが、何も語らずに残る。

 そして、偽りの婚姻を祝福するように、ただ独りイシュチェルのはしゃぐ声だけが、部屋の中に空虚に響いていた。


●○●○●


 トリウィアは無言のまま、足早に宿へと向かった。

 その目には涙が浮かぶ。二人はそんな彼女に何と声を掛けていいのか分からなかった。

 今日をとても楽しみにしていたのに、今はそんな高揚感などどこにもなく、三人の胸には、ただ大事なものを奪われた怒りとも悔しさともつかない感情が沸々と渦巻いていた。


 トリウィアは、宿の部屋に入るなり崩れるようにベッドへ身を投げ出した。枕に顔を埋め、唇を噛みしめていたが、それもすぐに限界を迎えた。

 こらえていた嗚咽が破裂するように漏れ、体を震わせながら、子どものように泣き出す。

 終わってしまったことへの空虚と、どうしようもない喪失感──、どうしてこうなってしまったのか理解が追い付かないまま、ただ結果だけを押し付けられた苦しみが、言葉にならない涙を流させていた。


 セレーネは、帰るなり部屋の隅に蹲っていた。ただ壁にもたれ、膝を抱きしめるようにしてうずくまる。

 目は大きく見開かれていたが、虚ろで焦点がない。乾いた喉からは、時折かすれた嗚咽が漏れるだけだった。

 その瞳から涙が流れていることすら、自分ではもうわからなかった。

 なぜこんな結末になったのか──、楽しかった日々が、もう戻らないと悟った瞬間から、彼女の世界は音もなく崩れ落ちていた。


 ロナは二人を部屋に残し、トボトボと通りを一人歩いていた。

 今の姿は誰にも見られたくない──、そう思うのは、二人もきっと同じだろう。

 帽子のつばをいつもより深く下げる。頬を伝う涙を誰にも見られないように、俯いて歩いた。

(これはそのうち収まる……。だから、止まったら帰ろう)

 そう自分に言い聞かせながら足を動かす。それでも、どれだけ歩いても、涙は止まらなかった。


 三人の絶望が、それぞれの心に沈殿していく。

 誰も誰かを慰めることができず、誰も言葉にできなかった。

 それぞれの場所で、それぞれの方法で──まるで、まだ何かを取り戻せると信じていたいかのように……。


●○●○●


 一方、全てが思い通りとなったキュンティアは、勇者の前で堂々と変化を解き、元の姿を晒していた。

 ノクスはその姿を見ても、一切狼狽えることもなく、彼女を愛おし気に見つめている。

『まったく……滑稽なほどに、うまく運んだものね。』

 イシュチェルを無事魔界へ連れ帰る、という本来の目的がようやく果たせるだけでなく、おまけに勇者までも手土産として魔王様に献上できる。

 これほどの功績を目の前にして、キュンティアはこれまでにない愉悦に浸っていた。


『ようやく魔界に帰れんのか……。ここでの生活もこれで最後か。まっ、悪かなかったけどな。』

 ため息混じりにアタエギナは、これまでを振り返る。

 これまで人間の社会に深くかかわったことの無かった彼女たちには、ここでの出来事はどれも新鮮であった。しかし、所詮は薄汚い人間の世界。そこに情などあるはずもなかった。

 思い返せば、勇者に切られ生死の境を彷徨ったこともあった。だが、情けない姿を晒す今の勇者に、その仕返しをする気にもならなかった。


「ねぇっ! いつ行くの? 婚前旅行!」

 そんな二人に、イシュチェルは無邪気に強請る。

 彼女がノクスの変化に気づかないのは、彼が仲間の誰かとしていることを、今回はキュンティアがその相手なだけで、いつものいちゃらぶだと思っているからだった。雰囲気の違いは、そういう趣向プレイなのだ、と勝手に納得しているに過ぎない。

 そして、勇者が仲間の誰かといちゃらぶしだすと、決まって他の二人は不機嫌になるところもよく見て来た。

 だから、トリウィアたちがどこかへ行ってしまったのも、ちょっとスネて出ていっただけで、そのうち戻ってくるに違いないと思っている。

 イシュチェルは、勇者たちとの日々で成長し、すこしだけ大人の気遣いのできる女になっていた。

「ねぇ、ねぇ。婚前ってなに?」


『イシュチェル様が望まれるとあらば、今すぐにでも立ちましょう。婚前の意味は、旅先で教えて差し上げます。』

 イシュチェルの疑問をはぐらかしながら、キュンティアは旅行の支度を促す。

 自分たちと魅了した勇者だけならば、すぐにでも出発し、一刻も早い魔界へ帰還を果たしたいところだが、イシュチェルも一緒となると話は少し違ってくる。

 何か問題が発生する前にと、急かしてことを進めても、それでイシュチェルを不機嫌にさせてしまったら、それは元も子もない。

 彼女を楽しませつつ、迅速に──キュンティアに求められている問題解決能力ソリューションスキルは極めて高い。

 

 そんなやり取りを黙って見守っていたイラルギは、心の中で別の考えを巡らせていた。

 彼女は、まだ安心できなかった。

 これまでの戦いやトライアノスでの試合、そしてその間の交流を通じて、トリウィアたち三人の能力はもちろん、内面に至るまで詳細に観察してきたイラルギにとって、これで終わったなどとは、到底思えなかった。


『……アイツらは本当に、素直に諦めると思うかニャ?』

 ぽつりと漏らしたその問いは、二人に向けたものであると同時に、イラルギ自身の中にある確信でもあった。

 こんなことで諦めるはずがない──。

 皮肉なことに、ここに至るまでのトリウィアたちとの関係が、イラルギの中で、そう思わずにいられないほどに、三人への歪んだ期待となって高まっていた。


●○●○●


 ロナは、郊外にある町を一望できる丘の上まで歩いてきていた。

 歩き疲れ、涙もとうに枯れ、誰もいない岩肌にそっと腰を下ろす。頬をかすめる僅かな風の音が、どこか優しく、心に染み入る。

 その微かな心地よさが、町で過ごした日々をふと思い出させた──。


 魔人たちを追いかけてこの町に来て、廃坑の奥に入ったら、それを破壊した罪で勇者は投獄されて……。

 でもそれで、水浴の魔境アクア・デビルズが作られて、それはとても新鮮な体験ばかりで、それから…。

 久しぶりのトライアノスで、あんなに素晴らしい勝負ができた……。


 ──どれもこれも、すべてが、かけがえのない記憶だった。

 今ここで振り返ってみると、あのときの笑顔はどれも心から楽しんでいて、胸の奥をあたためてくれる。

 遠ざかっていく陽の光に照らされながら、ロナは空を見上げた。


 そして、ふと視線を戻したロナの視界には、グレティが杖先に付けたほんのりと光る聖刻が映り込んだ。

 風に揺られながら、フワフワと浮かぶその微かな輝きは、彼女の胸の奥をとても鮮やかに照らし出す。その輝きが指す先には、戦いの日々に安らぎと、笑いと、騒動と、奇跡のような日々をくれた子がいる。


 ロナは、はっと息を呑んだ。 「─…どうして忘れちゃったんだろう。」


 そして立ち上がると、岩の上から駆け降り、来た道をまっすぐに駆け出した。

 丘に吹く風に、帽子を手で押さえると、その隙間から彼女の髪が後ろへと流れる。その瞳には、もう涙はなかった。

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