第17話 ベレス侯爵ザファル・サイード
装いに似合わぬ皮肉げな目付きをしており、華やかさの中に潜む暗い翳りが、男を印象的な存在にしていた。
ミカはさりげない動きで男から距離を取り、若い貴族が目上の者に接する時の礼をした。
男は意外そうに目を見張ったが、すぐに笑いで表情を崩した。
「珍しいな。今日は女性の付き添いか」
「はい、閣下」
ミカの唇からは、トビィと接する時とは別人のような丁重を通り越して冷厳とも言えそうな声が漏れる。
言葉使いや所作が完成された隙のないものだからこそ、その様子は恭しさとはまったく逆の傲慢ささえ感じさせた。
トビィは思わず息を飲んだが、男は特に機嫌を損ねた風はなかった。むしろそんなミカの態度を喜んでいるようだった。
「相変わらずつれないな。俺には滅多に付き合わぬくせに」
「
「何を言う」
男は笑った。
いつの間にか、大勢の人間が立ち止まり、二人の様子を遠巻きにしている。
「お前が珍しく月の宮から降りてきたから、この通り大騒ぎだ。そのような男の
男は笑いながら、ミカのほうへ近づく。
「狂うのは女だけではないがな。お前はどんな姿をしても人の心を惑わす。男の姿のほうが、より美しく悩ましくなる」
男はミカの顔に顔を近づけて囁いた。
「縛り上げて腕の中に閉じ込めたくなるな」
ミカは顔を背ける。
「
「戯れなどではない。このまま俺の城に来るか」
「ザファル」と呼ばれた男が、ミカの体を抱えようとした瞬間、不意に二人の間に人影が割り込んだ。
ザファルはその気配に意表をつかれたように、ミカから離れる。
「どなたか存じませんが、衆目のある場でそのような振る舞いは無礼ではありませんか」
トビィは言いながら、鋭い視線を辺りに向ける。
足を止めて事の成り行きを見守っていた上流階級の人間たちは、慌てて顔を背けたり扇で顔を隠した。
周りの人間たちは、目の前の男がミカを
トビィは焦茶色の瞳を怒りで燃え立たせた。
「ほほう」
ザファルは今初めてトビィの存在に気付いたように笑みを浮かべる。
「珍しく可愛いお嬢さんのお守りをしていると思ったが、逆だったか」
自分の顔を強い視線で刺し貫くトビィの姿を見ているうちに、ザファルの顔から徐々に笑みが消えていく。
「いい戦士だ。見かけによらない」
「トビィ、よせ」
自分を庇い男を睨みつけるトビィに、ミカは背後から声をかける。
「で、でも……ミカ」
戸惑うトビィを後ろに下がらせると、ミカは非の打ち所の無い完璧な所作でザファルの前で頭を下げる。
「閣下、無作法をお許し下さい」
周りの人間が固唾をのんで見守る中、ミカは静かに言葉を続ける。
「私は、今日は私的な楽しみのためにこちらに来ております。このご挨拶より後は、どうかお捨ておき下さいますよう」
ザファルはフッと笑いを浮かべ、軽く頭を下げているミカの姿を眺める。
あからさまに無遠慮な眼差しであることに気付き、トビィは拳を握りしめる。
「では、日を改めて月の宮に迎えを出すことにしよう。戸を開けておいてくれるだろうな? 開いてなければこじあけてでも、お前を手に入れるがな」
怒りに声を震わせるでもなく媚を忍ばせるでもなく、天気の話でもされたかのような、ごく当たり前の態度でミカは答える。
「我が住まいの戸から漏れ出る月灯りを見落とされませぬよう。その導きが私との縁となりましょう」
周りを取り囲む人々の間から、ほうっと吐息が漏れる。
ザファルは、ミカの手を不意に捕らえた。
ミカは引き寄せられまいと腕に力をこめ、ザファルの顔を射るような眼差しで睨みつける。
「お前は、怒りに燃えて抗う姿が一番いい」
ザファルはミカの耳にだけ忍ばせるよう、唇の動きと微かな息だけで言葉を紡ぐ。
「この場で屈服させたくなる」
「放せ、クソ野郎」
ギリッと鳴った歯の隙間から、ミカは押し殺した声を漏らす。
ザファルは微かに笑い、手を放した。
踵を返しながら、はっきりとした声で言う。
「では、また今度」
ミカは作法通り礼をして、去っていく背中を見送る。
「ミカ、大丈夫?」
男の姿が奥へと消えると、トビィは構えを解いてミカに言った。
「手が赤くなっている」
ミカは赤くなった手首に視線を走らせて舌打ちする。
「あの馬鹿力野郎」
「あの人、誰?」
少し躊躇った後、トビィは思いきって尋ねる。
周囲を取り囲む人々には、あの男の一挙手一投足に注目し、その言動におもねるような雰囲気があった。
かなり高い身分の人間だろうと察しがつく。
ミカは「ああ」と呟く。
「この街の総督だよ」
「そっ、総督?」
トビィは目を丸くする。
「そ、それって……エリュアで一番偉い人、じゃないの?」
トビィの言葉に、ミカは「そうだよ」と大して興味がなさそうに答える。
「ベレス侯ザファル・サイード。貴族は実務は他の奴に任せることが多いんだけどな、あいつは自分でこの
「……よく知っているの? 見たことないけど」
ザファルの態度はミカに対してひどく馴染んでいるように見えた。
だがトビィが記憶している限り、あの男が月晶宮に客として来たことはない。
話の内容などそっちのけでトビィの手を取るタイミングを見計らっていたミカは、気もそぞろに答える。
「あいつは身分が身分だからな。こっちが出向くことが多いんだよ」
トビィの脳裏に、美しい衣装をまとい侍女たちにかしづかれて馬車へと向かう、ミカの後ろ姿が浮かんだ。
いつのころからか、多額の金銭と引き換えに一夜の相手を務めるために出掛けるミカを見送る時、強い胸の痛みを感じるようになった。
ザファルの
そう考えると、公衆の面前でミカを好きに扱う姿を見せられた怒りとはまた別の、暗くねじれた感情が胸の奥底で蠢く。
ミカはトビィの内心にはまったく気づかず、思い切ったようにその手を取った。
手を掴んだ瞬間、顔を赤らめたが、トビィの気を引くように咳払いをして話し出す。
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