其十五

​万代恒太郎が環世の務める旅館にしばらく滞在することを聞いたのは、彼女が拝観しに行った次の日だった。会期は3カ月ほどやっているそうだが、その最初のひと月ほどをこの旅館で過ごすのだということだった。

​著名な人間ということもあり、担当は古株の仲居の河野という50代前半の女と女将が2人で共同で務めることになった。この河野というのは、最初に環世に着付けを教えた仲居で、在籍年数のせいか仲居の中では幅をきかせていた。悪い人間ではなかったが、どこか要領が得ないところがあり、一度喋りだすと心の所作や心構えなどの話が止まらなかった。そのせいで仕事が進まなくなることが多くあったし、仕事の面では、もはや環世の方が数段上手だった。

​そして、やはり、万代というのは彼女が知らないだけで、アートの世界ではとりわけ有名なようで、他の仲居や丸山たちも万代を迎えることで少し緊張しているようだった。羽岡の方を見やると、彼女だけは、先日名前を知らなかったように、それを聞いても、特に緊張しているという感じではなかった。まあ、彼女の場合は相手が一国の総理でも態度を変えるようには思えなかったが。

​環世も、昨日拝観しに行ったその人が来ることには驚いたが、昨日今日、知った人物であるので、特に既知感もなく、担当するわけではないし、自分の仕事が普段とそんなに変わらないのなら、問題ないだろうと思っていた。

​ミーティングが終わり、いそいそと周りがしている中、環世は自分の担当を迎える準備をしていた。事前に聞いていた担当客の食品のアレルギーや好みの整理をし、板前に伝えに行こうとした時、丸山に声をかけられた。どうやら、万代がチェックインするので、旅館のもの総出で迎えるとのことだった。普通の客は担当の者が迎えるだけだったので、偉い大ごとなのだなと思った。

​入り口の両側に仲居が並び、一番前には女将と丸山、河野が荷物をすぐに持てるように待機していた。まもなくロータリーになっている玄関前に万代を乗せた自動車がやってきた。黒塗りのリンカーンという外国の自動車だと後で丸山に聞いたが、環世はそれを見て、最初はどこぞの大臣が来たのかと思った。反対側の付き人が先に降り、大きい自動車の後部をくるりとまわると、万代の座る側のドアを重たそうに静かに開けた。付き人は白い手袋をしていたので、それが一層自動車の高級感を演出していた。万代はドアが開くと白い足袋と下駄を器用に降ろし、開いた所に手をかけて、羽織が座席に引っかかったのを鬱陶しそうに直し、どこか不機嫌な顔で出てきた。

​環世は、先進の芸術家と言われている男が和装なのにまず驚いた。彼女のイメージでは海外から絵を学んで帰ってきたと言うからには、スーツか何かしら奇抜な格好でもしているのかと思っていたからだった。口元に馬の尻尾のようなカールをしたヒゲと顎にも立派な黒いヒゲを蓄えていた。背丈は高くも低くもなかったが、丸山よりは下駄の分高く感じられた。頬はこけ、痩せ形、眉は薄く、丸山と違い、どこか陰気な印象だった。この時、彼女は万代を見て、どこか父親と雰囲気が重なるような気もしたが、思考の中でそれをあえて言語化せず、すぐに忘れるように努めた。

​「万代様、当旅館へようこそ、心よりお待ちしておりました。ご有意義な滞在にできますよう、一同誠心誠意務めさせてもらいます」

​女将がそう言うと、丸山をはじめ、一同で頭を下げた。万代は、「どうも」とだけ言うと玄関の方にスタスタと歩き出した。環世は頭を下げていたので、コツコツという下駄の音だけが聞こえた。

​その後は、受付やひと月分の着替えや滞在期間に使うのであろう画材道具を何人かで運び出し、滞在予定の離れの部屋に持っていった。

​万代は、玄関に入るなりロビーのソファにドカッと座りタバコを吸っている。受付では、担当の女将と河野2人が万代の付き人となにやら滞在中の打ち合わせをしているようだった。環世も、ボストンバッグを一つ持たされ、丸山や羽岡、他の仲居と離れまで、その不機嫌な万代の横を軽く会釈をして通って行くのだった。

​奥にある渡り廊下へ出ると、その周りには人工的に作られた松林や鹿威し、石灯籠があり、部屋に入ればその大きな窓から西の海が一望出来る造りになっていた。環世はあまり離れには来ないので、このVIP用の部屋は、やはり、この旅館で一番景観に優れているように感じた。

​そして、丸山に指定された場所へボストンバッグを置くと、その後は、通常の業務に戻るようにとのことだったので、言われたとおりに部屋を出た。

​ふと、石灯籠の穴の暗がりに目をやると、そこには、太い格子状のクモの巣が、灯籠の口を塞ぐように張り巡らされていた。

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