其八

旅館の前につくと、チェックインやチェックアウトの宿泊客数組とすれ違った。環世は「通用口から入るように」と言われていたので、関係者が出入りするための通用口を探したが、表には見当たらなかった。どうやら裏手にあるようなので、宿泊者用の駐車場の方まで歩くことにした。

​途中、紺色の和服を着たこの店の従業員と思われる者を見かけたので、通用口の場所を尋ねることにした。

​「こんにちは。恐れ入ります。本日からこちらで住み込みで働かせてもらうことになりました者です。通用口はどちらにありますでしょうか?」

​環世は軽く笑みを作り話しかけた。年の頃は環世より一回りほど上だろうか、背は高くひょろっとしていて、顔はどこか冷たい印象だった。髪を後ろで一つにまとめ、サイドは黒いピンで二箇所ほど留めていた。仲居は挨拶を返さず、環世を一瞥し、すぐに視線を外すと、無愛想に無言のまま扉の方向を指差しただけで、玄関の方へつかつかと歩いて行ってしまった。

​「どうも」

​環世は軽く頭を下げ、仲居の後ろ姿を見やった。仲居は玄関まで行くと、さっきとは変わって、すれ違う客に丁寧にお辞儀をする姿が見て取れた。

​指差された方へ向かうと、旅館の玄関とは比べられないほど無骨な、ところどころペンキのはがれた白い鉄扉があった。「関係者通用口」と書いてあったので、環世はそこから入ることにした。

​中には従業員用の傘立てがあり、廊下には出退勤を管理するための名札を下げるフックが並んでいた。焼けて劣化したいくつかの標語のようなものが手書きで貼り出されている。照明は薄暗く、両サイドにはいくつかの部屋があるようだった。

​「失礼します。ごめんください」

​何度か声をかけると、奥の左側の扉から一人の男が出てきた。スーツにネクタイ、左の胸の名札には「丸山」と書いてあった。

​「今日から住み込みで働かせてもらうことになりました、東條と申します。こちらからでよろしかったでしょうか?」

​挨拶をすると、男は「ああ、あんたが」と言い、今忙しいから少し待っているようにと、商談か面接をするような手前の小部屋に環世を案内した。部屋にはテーブルとソファ、棚にはガラスの花瓶に差した花と、タテが置いてあり、中には何らかの資料と思われる黒い本がびっしりと並んでいた。座っているように指示されると、環世は言われたとおりにソファに腰掛けた。

​「今日は仕事はないから、落ち着いたらそのあと寮へ案内して、明日から働いてもらうことにするよ。布団は寮に共有のがいくつかあったから、嫌じゃなければそれを使うといい」

​そう言って男は出て行ってしまった。窓の外は駐車場が見えるだけで、あとは特段気になるようなものは見えなかった。

​小一時間ほど本を読みながら待っていると、さっきの丸山という男が戻ってきた。小柄ではあったが体格はしっかりしていた。薄い眉毛を隠すように黒い縁の眼鏡をかけ、短い髪をポマードでオールバック気味の七三分けにしており、年の頃は40代のようにも30代のようにも見えた。

​「待たせたね。今日は何かと出入りが重なっててね。なかなか手が離せなかったよ」

​「少し距離があるから旅館の車で行こう」と言い、環世はそれに従った。荷物を後ろの座席に置き、助手席に座った。男と二人きりになる状況は久しぶりだったため、内心かなり緊張していた。酔っぱらいのあしらいが上手くなっていたとはいえ、他の店の者がいたり、客がいたりしたので男であっても平気だったが、密室のような状況は父親と以外はほぼなかったため、幾分気が滅入るようだった。

​心配とは裏腹に、五分ほど車を走らせると、寮に着いた。車内で丸山は、ほとんど明日からの段取りについて話すだけで、環世の事情などにはあまり関心がないようだった。

​寮は海沿いにあり、塩害で階段やテラスには錆の腐食が激しかったが、中はわりときれいな畳のワンルームの部屋だった。どこかのアパートを丸々寮に作り替えたようで、ガス台や水道、トイレに簡単な浴槽もついていた。公子のところではお風呂がなかったので、一週間に二、三回近所の銭湯で済ませていたので、これには助かった。何よりも、窓からは海が一面に見えるのが新鮮だった。部屋は粗末だったが、海が見えるのは嬉しかった。

​部屋の説明を一通り受け、部屋の鍵を渡された。布団のある倉庫やその管理の仕方、共用のランドリー室があり、ぼろであることを除けば不便はなさそうで、寮といっても常駐する寮母がいるわけではなく、なんとなく社宅に近い暮らしぶりになるようだった。

​そして、丸山は「一人では大変だろう」と布団を運び入れるのを手伝ってくれ、その後、近くの商店をそれぞれ教えてくれ、明日の出勤時間を環世に伝えると、「それでは明日からよろしく」とだけ言って部屋から出ていったのだった。

​環世は、しばらく海を眺めていたが、自分の少ない荷物を整理し始めた。ほとんど本と洋服であったが、たんすや机などを買い入れるまでは、部屋の端に置いておくしかなさそうだった。

​そして、最後に公子にもらった風呂敷を広げると、そこには淡い朱色の着物と、青い紫陽花の刺繍が施された帯が一式入っていた。

​布団の上で環世は、その帯のざらついた肌触りを確かめていた。

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