其九

​環世が旅館で仕事を始めて、2年が経っていた。最初は慣れない仕事で苦労したり、仲居同士の人間関係で嫌な思いもしたが、2年経つ頃には何とか毎日を終わらせられるようになっていた。着物の着付けも最初は分からなかったので教えてもらいながらだったが、教えてくれた年配の仲居が要領を得ず、覚えるのに時間がかかった。延々と指が何本分だとか、心の所作だとかを教えてくるので、なかなか基本的な着付けにまで辿り着けなかった。教わりながら、もっと大切なことがあるようにも感じていたが、あえてそれを表には出さなかった。

​あるとき、手の空いていた女将に教わると、初心者が押さえるべきところをササッと短く教えるだけで、環世は申し分ない着付けができるようになった。先輩の仲居よりは随分と若い女将だったが、その時はさすがだと感心せざるを得なかった。

​主な仕事は、担当の部屋の配膳や布団の準備、清掃、アメニティの補充など、覚えることはたくさんあった。しかし、公子と一緒にいた時に働いていた喫茶店での経験のおかげで、宿泊客とのコミュニケーションには問題がなかった。もちろん、彼女とは違う、作られた自分としての対応だったが。

​ある時、環世より5つほど年上の仲居、佐伯に声をかけられた。他の仲居とは普通に上辺のコミュニケーションを取れていたので問題なかったが、この佐伯という仲居は環世をどこか疎んじているところがあり、事あるごとに重箱の隅をつつくようなくだらない注意をしてきた。この旅館に来て、通用口を聞いた時に環世に冷たく対応した仲居だった。身長は高く痩せ型で、どこか冷たい感じの女だった。

​今回も、環世のロッカーの扉が開いていたので足を打ったからちゃんと閉めろ、「そういうところが客に見られるんだ」と指摘してきた。それは、環世が中抜けの間に生理用品をロッカーから出し、用を足しに行った5分ほどの間のことだった。確かに鍵をかけるのを忘れていたのは事実だが、故意に開けでもしない限り開くようなものではなく、きちんと閉めてから行っていたと記憶していた。

​細々としたミスは誰にでもあるもので、他の仲居たちは気に留めなかったし、彼女自身も他の仲居の細々としたことはできる限りカバーしあいながら仕事をしていた。しかし、佐伯はそういったことでよく小うるさく言ってくるので、環世からはあえて近づくことはしなかった。環世は面倒なことにならないように、「そうですか、ごめんなさい」とだけ言っていつも終わらせることにしていた。下手に出ても、どうやっても佐伯が気に入らないようだったので、環世も避けられない生ゴミのようなものだと感じていた。

​佐伯は自分より下が環世しかおらず、その時、自分より上に出られるのは環世だけだったので、自分の存在を証明するためにそうしていたのだと、随分後になってから分かった。佐伯はマネージャーや女将、有力な先輩仲居には滅法弱く、仕事ができなかったり、年下や立場の低い者には露骨に態度を変えるのだった。環世はある意味彼女は凡人なのだと思っていたので、実際は眼中になど入れていなかった。

​その点を覗けば、この仕事は自分に合っているし、嫌ではないなと感じ始めていた。体力的に大変ではあったし、公子と暮らした時のほうが充実感はあったが、父親との生活を考えたり、公子にあのまま嫌われることを思ったら、一人で生活し糧を得ている今が分相応なのだろうと思った。寮生活だったので、寮費も普通にどこかに住むよりは安く、貯蓄もできていた。

​何よりも休日や思い詰めた時に、歩いて海岸に出られるのが彼女にとってとても大切なことだった。覚えていない母の温もりを公子との生活に重ねながら、母の好きな西の海を長い時間見つめられたのだから。満月の光が海に浮かぶのを見て、彼女は束の間の安らぎを覚えていた。


冬の海に映る優しい月の光に温もりはあるのだろうか、出来るならそこへ行って直接ふれて、その温度を確かめてみたいと思うのだった。

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