そぞろごと〜月を食べる海〜

にとらかぼちゃ

春の海に浮かぶのは、

円いクラゲのような青い月。

プカプカと静かに漂う光は万華鏡のように煌めいて、

打ち付ける潮の音はどこか不気味で不穏な気がする。

そっと海水が足袋を濡らし、

春の海はまだ冷たいことを知った。


​序、

幼い頃、環世(たまよ)は父親と二人暮らしだった。

優しくはあったが、弱い母親は彼女が物心つく頃には病で呆気なく逝ってしまった。

父親はどうしようもない男で、幼い子供を一人で育てなければならないはずだったが、

ろくに働きもせず、酒に酔っては彼女をよくぶった。

それが元々だったのか、母親を亡くしたからなのかはよくわからなかったけれど、多分、父親は元からそんな男だったのだろうと思えた。

中学にあがる頃まで、父親の暴力は続いた。

ひどい時には、真夏の暑い日に飲み物を溢した罰として、何時間も押し入れに閉じ込められたこともあった。

泣いてわめけば更なる暴力が予想できたので、喉の乾きを我慢しながら、暗闇の中をいつまでも耐えた。

​その頃には、彼女は泣くことを忘れ、感情をあまり表に出さないことが得策だと思うようになった。

​そんなせいか、彼女は学校でもよくいじめられた。

境遇の悪い子供には、不遇は連鎖するものだった。

表情もなく、お風呂にもあまり入れない生活で、アカにまみれて匂いもしていたのだろう。

その時の学校での扱いは、察してあげるのがいい。

あなただってもし、普通の家に生まれて育っていたら、そんな子をいじめないまでも、近づくことはしなかっただろうから。

唯一、彼女は頭の出来がよかった。頭の出来といっても、勉学の方ではなく、知性の高さだった。

感情を無視する生活だったために、行動や言葉には出さなかったが、頭の中ではそんな自分の状況を冷静に理解していた。物語をよく読んだ彼女は、そこで束の間の安らぎの中、現実と理想の区別をはっきりと学んでいった。

おかげで、多くを望まず、いろんなことを上手に諦めることができるようにもなった。

中学にあがる少し前、その頃から父親は彼女を毎日風呂に入れ、食事をきっちり取らせるようになった。そして、同時に暴力は次第に少なくなっていった。

その理由を、というとき、記憶が真っ黒く塗りつぶされ、推し測ろうにも彼女にはもう思い出せなかった。

どうでもよいことだったからだ。

何より、痩せぎすで骨と皮ばかりの体は、前よりも程よく豊かになり、母親に似た小さな目と薄い唇が彼女の魅力の蕾となった。身綺麗にして登校できることが嬉しかったし、身体の痣も少なくなっていたのだから。

​ある日の登校時、蜘蛛の巣にかかった片羽根の蝶の姿を見た。もがき苦しむ様子が、なんだか愛しくも思えた。

助けてといっているようにも思い、彼女は蜘蛛の巣から蝶を取り出した。

飛べない蝶を地面に置いたとき、そこには先に落ちた片羽根があった。

彼女はそれを手に取ると、読みかけの本の中にそっと挟んだ。

そのあとで、環世はゆっくりと蝶を踏み潰した。

​ーーー蜘蛛の方もいたらよかったのに。

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