第28話 『????』②

 静寂が、思考を蝕む。

 安宿の、ランプが落とす頼りない光の中で、俺はテーブルに置いたギルドカードを、ただじっと睨みつけていた。


『????』

 意味をなさない、四つの記号の羅列。


 それは、まるで悪趣味な冗談のようでもあり、あるいは、俺という人間の本質を的確に言い表した、不気味な笑みのようにも見えた。お前は、自分自身のことを、何一つ理解してはいないのだ、と。そう嘲笑われているかのようだった。


 隣のベッドからは、ルチアの穏やかな寝息が聞こえてくる。

 強敵を打ち破り、初めてのレベルアップを経験し、そして今は、安らかな眠りの中にいる。彼女の世界は、希望に満ちていることだろう。師である俺が、すぐ隣で、自分自身の未知なる力に戦慄していることなど、夢にも思わずに。


 俺のこの力は、彼女に何をもたらすのか。

 思考を、さらに深く、暗い水底へと沈めていく。


 俺が彼女を「育て」続ければ、彼女は確かに強くなるだろう。それも、常軌を逸した速度で。ゴブリンに怯えていた少女は、やがては竜をも屠る英雄になるのかもしれない。


 だが、その果てに、何がある?

 急激すぎる成長は、時として劇薬となる。いや、毒にすらなりうる。


 人間の精神は、肉体の成長や経験の蓄積に合わせ、ゆっくりと、段階を経て成熟していくものだ。子供の精神のまま、神にも等しい力を手に入れてしまった人間が、どうなるか。物語の中の暴君や、歴史上の独裁者が、その末路を雄弁に物語っている。


 力が、彼女の心を傲慢にしないか?

 常人とかけ離れた強さが、彼女を孤独にしないか?

 そして、その強さを、誰かが利用しようとしないか?


 俺は、教師だ。生徒の未来を、その可能性を、誰よりも真剣に考える責務がある。


 俺がやっていることは、果たして「教育」と呼べるのだろうか。これは、ただの「強化」ではないのか。彼女の意志や人格を無視し、俺の都合のいいように、ただ戦闘能力だけを高める行為。それは、教育とは似て非なる、冒涜的な所業ではないのか。


 俺の脳裏に、二つの、あまりにも重い選択肢が浮かび上がってきた。

 選択肢A:これ以上、彼女に深く関わるのをやめ、スキルが発動しないようにする。


 このスキルの発動条件が、俺の「教育」行為にあるのなら、それを放棄すればいい。師弟関係を解消し、単なる旅の道連れとして、彼女とは一定の距離を保つ。そうすれば、彼女はこの忌まわしい力の軛から解放され、一人の冒険者として、穏やかに成長していけるのかもしれない。


 それは、彼女の人生を歪めないための、安全で、倫理的な選択だ。

 だが、その代償は何か?


 俺は、唯一にして最大の切り札を失う。下の階層へ進むことも、この世界で成り上がることも、そして、故郷の地球へ帰還するという、唯一の目的を達成することも、絶望的になるだろう。


 それは、俺自身の、心の死を意味していた。


 選択肢B:リスクを承知の上で、この力を最大限に活用し、彼女を育て続ける。


 この力は、希望だ。俺たちが、この過酷な世界で生き抜き、目的を達成するための、唯一の光。この力を使いこなせば、どんな困難な壁も乗り越えられるだろう。

 だが、それは、神をも恐れぬ、あまりにも傲慢な行いだ。


 一人の少女の人生を、俺の目的達成のための駒として利用する。彼女の未来を、俺のスキルという名の祭壇に捧げる。それは、俺が教師として、そして人間として、最も唾棄すべき、許されざる罪ではないのか。


 安全な絶望か、危険な希望か。

 俺自身の魂を救うために、他者の魂を歪めることを、俺は許容できるのか。


 答えは、出なかった。

 思考は、堂々巡りの泥沼にはまり込み、身動きが取れなくなる。俺は、軋む椅子の上で、ただ頭を抱えることしかできなかった。


 どれほどの時間が、経っただろうか。

 ふと、顔を上げると、視線の先に、眠るルチアの横顔があった。


 月明かりが、窓から差し込み、彼女の金色の髪を淡く照らしている。あどけない寝顔。時折、幸せそうな夢でも見ているのか、その唇が、微かに綻ぶ。


 俺は、吸い寄せられるように、ベッドの傍らへと歩み寄った。

 そして、その寝顔を、じっと見つめた。


 この少女は、俺を「先生」と呼び、その全てを俺に委ねてくれた。俺が壁になると言えば、その背中を信じ、俺が道を指し示せば、その言葉を疑わなかった。


 彼女のその、絶対的な信頼に、俺は一体、何で応えるべきなのか。

 選択肢Aのように、彼女の前から姿を消すことか?「お前のために」という、自己満足な言い訳を盾に、全ての責任を放棄して、逃げ出すことか?


 違う。

 断じて、違う。


 俺は、ゆっくりと、悟った。

 ――もう、後戻りはできないのだ、と。


 この力を発動させ、彼女の運命の歯車を狂わせ始めたのは、他の誰でもない、俺自身だ。彼女が望んだわけではない。俺が、俺の意志で、彼女を「育てる」と決めたのだ。


 その時点で、俺はもう、逃げるという選択肢を失っていたのだ。

 ならば、俺が為すべきことは、一つしかない。


 この、神が与えたのか、悪魔が与えたのかも分からぬ、途方もない力。その全てと、正面から向き合う。


 ただ強さを与えるだけでは、駄目だ。それは、猛獣に鋭い牙を与えるだけの、愚かな行為に等しい。


 牙を与えるのならば、その牙で、決して他者を傷つけぬよう、その使い方を、その制御の仕方を、そして、その力の意味と責任を、徹底的に教え込まなければならない。


 力の暴走を抑え、その強大なエネルギーを、彼女が幸福になるための、正しい道へと導く。


 それこそが、この力を発現させてしまった俺の、本当の「師」としての務めであり、唯一の贖罪なのだ。


 俺は、眠るルチアの、額にかかった前髪を、そっと指で払った。

 その温もりが、俺の揺れていた心に、一本の鋼の芯を通した。


「……俺が」

 静寂な部屋に、俺の、覚悟を決めた声が、低く響いた。


「俺がお前を、正しく導かなければならない」

 それは、誰に聞かせるでもない、俺自身の魂に向けた、静かで、しかし、決して覆ることのない、鋼の誓いだった。

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