第27話 『????』①

 俺の思考は、深く、冷たい水底へと沈んでいくようだった。

 隣では、ルチアがまだ興奮冷めやらぬ様子で、自分のギルドカードを何度も見返しては、嬉しそうなため息を漏らしている。


「先生、見てください! 知力が、すごく上がってます! これなら、もっと難しい魔法も覚えられるでしょうか?」


 その無邪気な問いかけに、俺の心臓は、まるで氷の手に掴まれたかのように軋んだ。

 お前のその成長は、お前だけの力によるものなのか?


 その言葉が、喉まで出かかった。だが、俺はそれを辛うじて飲み込み、無理やり笑みのようなものを作って見せる。


「……ああ、そうだな。お前の才能と努力の賜物だ」

 嘘だった。


 少なくとも、その全てが真実ではないと、俺の本能が警鐘を鳴らしていた。

 俺は、ルチアの肩を軽く叩いた。


「疲れただろう。今日はもう戻るぞ。勝利の祝杯は、街に帰ってからだ」

「はい!」


 彼女の元気な返事に、俺はただ曖昧に頷くことしかできなかった。


 帰路は、奇妙な沈黙に包まれていた。いや、正確には、ルチアは道中、ずっと楽しそうに喋り続けていた。レイスとの戦闘がいかに恐ろしかったか、先生の指示がどれほど的確だったか、そして手に入れた魔石を売れば、どんな新しい杖が買えるだろうか、と。


 その一つ一つに、俺は上の空で相槌を打つ。俺の意識は、彼女との会話にはなく、ただひたすらに、思考の海へと沈潜していた。


 なぜ、彼女にも「異常」が起きたのか。

 なぜ、俺と全く同じ成長値を叩き出したのか。


 偶然か?


 いや、断じて違う。この世界には、レベルやスキルという明確な法則が存在する。その法則から逸脱した現象が、何の因果関係もなく、俺たち二人にだけ、同時に発生するなど、統計学的にありえない。


 そこには、必ず、何らかの未知なる法則――あるいは、俺自身に起因する、何らかの要因が存在するはずだ。


 宿に戻ると、ルチアは興奮と疲労が入り混じった表情で、すぐにベッドに潜り込んだ。無理もない。彼女は今日、生まれて初めて強敵と渡り合い、そして人生で最初のレベルアップを経験したのだ。その消耗は、肉体よりも精神に深く刻まれていることだろう。


 やがて聞こえてきた穏やかな寝息を確認し、俺は静かに椅子へと向かった。

 これから始まるのは、もう一つの戦いだ。敵は、魔物ではない。俺自身の中に潜む、未知なる何かだ。


 俺はテーブルの上に、これまで書き溜めてきた羊皮紙のメモを広げた。ゴブリンの生態、迷宮の構造、ギルドで得た情報。そして、俺自身のステータスの推移。それらの断片的な情報を、俺は教師が難解な古文を解読するように、一つ一つ、論理的に整理していく。


 感情を排し、客観的な事実だけを並べる。それが、真実に至るための唯一の道筋だ。


 事実A:俺、秋山 慧のレベルアップ時、HP・MPは+10、その他主要ステータスは全て+5される。これは、この世界の基準値(+1~2)と比較して、明確に「異常」である。


 事実B:ルチアのレベルアップ時、HP・MPは+10、その他主要ステータスは全て+5された。これもまた、同様に「異常」である。


 事実C:全く同一の「異常」が、俺とルチアという二つの個体に観測された。


 ここから導き出される、最初の推論はこうだ。

 推論①:この「異常」には、共通の原因が存在する可能性が極めて高い。

 では、その原因とは何か。


 事実D:ルチアの「異常」が発現したのは、俺と行動を共にするようになった後である。


 事実E:俺の「異常」は、この世界に転移してからの、全てのレベルアップで継続して観測されている。


 つまり、こう結論付けられる。

 推論②:共通原因は、俺の側に存在する。


 俺という存在が、何らかの形でルチアに影響を及ぼし、彼女の成長法則を捻じ曲げた。それが、現時点で最も論理的な結論だった。


 だが、新たな疑問が生まれる。もし俺が原因なら、なぜ、もっと早く彼女に影響が現れなかったのか?


 彼女と出会い、保護してから、それなりの時間が経過している。その間、彼女の身体に、目に見えた変化はなかった。


「異常」が観測されたのは、あくまで「レベルアップ」という、特定のタイミングだけだ。


 では、トリガーは何か?

 俺と彼女の間に起きた、決定的な「変化点」とは何だ?


 ただ、傍にいただけではない。食事を与え、宿を提供しただけではない。もっと根源的な、俺たちの関係性を変質させるような出来事が、確かにあったはずだ。


 俺は、思考の糸を、出会った日まで遡らせる。

 路地裏で倒れていた彼女を保護した日。


 彼女の壮絶な過去を聞き、復讐への覚悟を知った日。

 そして……。


 ――そうだ。あの時だ。

 俺が、彼女の魔法へのトラウマを解きほぐし、初めて『ライト』の魔法を発動させた、あの夜。


 俺は、彼女にこう告げた。「強くなれ」と。「俺が、お前を育てる」と。

 あの瞬間、俺たちの関係は、単なる保護者と被保護者から、明確な「師」と「弟子」の関係へと変化したのだ。


 その結論に思い至った瞬間、まるで雷に打たれたかのような衝撃が、俺の脳を貫いた。

 忘れていた。


 いや、無意識のうちに、思考の外へと追いやっていた、もう一つの事実。

 俺がこの世界に来て、初めて自分のステータスを確認した時、スキル欄には、二つのユニークスキルが記されていたはずだ。


 一つは、この世界の言語を理解し、読み書きを可能にしてくれた『言語理解』。これは、俺が教師であったことと、何らかの関係があるのだろうと、漠然と考えていた。


 そして、もう一つ。

 その下に記されていた、『????』という意味不明な文字列。


 俺は、まるで呪われた聖典に手を伸ばすかのように、おそるおそる、自分のギルドカードを取り出した。


 心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。

 震える指先から魔力を流し込むと、カードの表面に、俺自身の魂の情報が、冷たい事実として浮かび上がった。


 HP、MP、EXP……。見慣れた数値の羅列を、俺は逸る気持ちを抑えながら目で追っていく。

 そして、最下段のスキル欄に、たどり着いた。


【スキル】

 ・剣術 Lv.2

 ・スラッシュ Lv.1

 ・パリィ Lv.1

【ユニークスキル】

 ・言語理解

 ・????


 そこには、はっきりと、俺が目を背けていた事実が刻まれていた。

『????』


 この、意味不明な文字列こそが、俺の、そしてルチアの運命を捻じ曲げた元凶だと、俺は確信した。


 スキル名も、その効果の詳細も、何もわからない。

 ただ、一つだけ、確かなことがある。


 このスキルは、俺が誰かを「教え、育てる」と決意した時、その対象者に対して、俺と同じ「異常な成長」を強制的に付与する能力だ。


 俺の力が、ただ俺自身を強くするだけのものではなかった。

 それは、他者の可能性に介入し、その成長法則すらも捻じ曲げてしまう、あまりにも強大で、そして、あまりにも身勝手な力。


 勝利の興奮など、とうの昔に消え失せていた。

 俺は、自分の掌を見つめた。この手は、剣を握り、盾を構えるだけの手ではなかった。他者の運命を、その根底から作り変えてしまう、神にも等しい、あるいは悪魔にも等しい力を秘めていたのだ。


 その途方もない可能性と、背負うべき責任の重さに、俺はただ、宿屋の軋む椅子の上で、静かに戦慄するしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る