第21話 初めての共闘
一歩、洞穴に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
外の喧騒が嘘のように遠ざかり、代わりに支配するのは、湿り気を帯びた冷気と、岩肌を伝う水の滴る音。そして、どこか遠くから響いてくる、正体不明の低い唸り声。人間の生存領域と、魔物が支配する領域を分かつ、明確な境界線がここにはあった。
俺の隣で、ルチアがごくりと息を呑む音が聞こえる。新しいローブのフードを目深に被り、白樺の杖を胸の前で固く握りしめている。その小さな背中からは、決意と、それと同じくらいの恐怖が滲み出ていた。
「ルチア、よく聞け」
俺は足を止め、彼女に向き直った。声は、洞窟の壁に反響して、必要以上に重く響く。
「これから俺たちは二人で戦う。これは、お前が一人で魔法の練習をしていた時とは全く違う。パーティー戦闘の基本は、役割分担だ」
俺は、自分の胸を無骨な剣の柄で叩いた。
「俺は前衛。敵の前に立ち、攻撃を受け止め、注意を引きつける。いわば、お前のための『壁』であり『時間』だ」
次に、俺は彼女が握る杖を指し示した。
「お前は後衛。俺の背後、常に安全な距離を保ち、そこから魔法で敵を攻撃する。いいか、決して前に出るな。俺を追い越すな。お前の仕事は、俺が稼いだ時間を最大限に活用し、最大の火力を敵に叩き込むことだ」
論理は明快。単純な分業体制だ。だが、この単純な原則を、生死の瀬戸際で維持することがどれほど難しいか、俺は身をもって知っている。
「俺が壁として機能している限り、お前は安全だ。だから、俺を信じろ。そして、お前の力を信じろ。できるか?」
問いかけに、ルチアはフードの奥で小さく、しかし力強く頷いた。その瞳には、まだ恐怖の色が残っている。だが、それ以上に、俺の言葉を理解しようとする真剣な光が宿っていた。それで十分だった。
俺たちは、壁際に沿って慎重に歩を進める。一階層は、比較的単純な構造の洞窟だ。だが、岩陰や通路の曲がり角など、奇襲に適した場所はいくらでもある。油断は死に直結する。
しばらく進んだ先、通路が少し開けた場所で、そいつは現れた。
「グルゥ……」
ゴブリンが威嚇の声を上げ、こちらに気づいた。
「ルチア、準備しろ! 俺が合図するまで動くな!」
俺は剣を抜き放ち、ルチアの前に立ちはだかる。盾を構え、意識的にゴブリンのヘイトを自分に集める。
ゴブリンは、単純な知能しか持たない。より近く、より敵対的な存在から攻撃を仕掛ける。セオリー通り、奴は俺だけを標的として一直線に突進してきた。
「今だ! やれ!」
俺は叫ぶ。背後で、ルチアが息を呑む気配がした。彼女が杖を構え、魔力を練り上げるわずかな時間。俺は、振り下ろされる棍棒を盾で受け流す。衝撃が腕を痺れさせるが、問題はない。計算通りの攻防だ。
だが、いつまで経っても、魔法が放たれる気配がない。
ちらりと背後を窺うと、ルチアは杖を構えたまま、恐怖に凍り付いていた。血の気の引いた顔で、目の前の生々しい戦闘に完全に意識を奪われている。
「ルチア!」
俺の叱咤も、彼女の耳には届いていないようだった。
まずい。このままでは、ただ俺が一方的に消耗するだけだ。
俺は舌打ちし、ゴブリンの棍棒を弾き返すと同時に、距離を取った。一度、状況をリセットする必要がある。
「落ち着け! 俺の動きをよく見ろ!」
俺は、再びゴブリンと対峙しながら、意識の半分を背後の彼女へと向ける。教師としての経験が、こういう時に活きてくる。パニックに陥った生徒に必要なのは、抽象的な激励ではない。具体的で、実行可能な指示だ。
「ルチア! 深呼吸しろ! 俺から目を離すな!」
俺は、ゴブリンの攻撃を捌きながら、意図的に大袈裟な動きを見せる。剣で受け、盾で弾き、足を使って距離を調整する。一つ一つの動きに、意味があることを彼女に理解させるためだ。
「敵の動きじゃない、俺の動きに集中しろ! 俺がお前の基準だ!」
ゴブリンが、再び棍棒を振りかぶる。俺はそれを剣の腹で受け流し、わざと体勢を崩して見せた。
「こういう隙が生まれる! この瞬間を狙え!」
だが、ルチアはまだ動けない。恐怖が、彼女の身体を縫い付けている。
このままでは埒が明かない。俺は一旦ゴブリンを剣で牽制して距離を取り、素早くルチアの元へ後退した。
「聞け、ルチア。今のままでは二人とも死ぬぞ」
俺の厳しい言葉に、彼女の肩がびくりと震えた。
「ご、ごめんなさい……こわくて……」
「怖いのは当たり前だ。だが、それを乗り越えなければ、お前は両親の
俺の言葉が、彼女の心の奥にある最も強い動機を刺激したようだった。彼女は唇をきつく結び、涙が浮かんだ瞳で、それでも真っ直ぐに俺を見返した。
「……はい」
「よし。もう一度だ。だが、やり方を変える。もっと具体的に指示を出す。お前は、俺の言うことだけを実行しろ」
俺は、彼女に二つの、極めて単純なルールを課した。
「一つ。俺が『右』と言ったら、お前は三歩、右に動け。『左』と言ったら、左だ。絶対に俺と同じ場所に留まるな」
これにより、俺を盾にしつつ、常に射角を確保させることができる。
「二つ。俺が剣と盾を打ち合わせ、カキン、と音を立てる。それが、お前が魔法を放つ合図だ。それ以外の時は、何があっても撃つな。防御に専念しろ」
視覚情報に頼るのが難しいなら、聴覚を使わせる。混乱した頭でも、単純な音なら反応できるはずだ。
「いいな? 返事をしろ!」
「は、はい!」
俺たちは、再びゴブリンと対峙した。幸い、奴はまだこちらを遠巻きに威嚇しているだけだ。
「行くぞ!」
俺は突進し、ゴブリンの攻撃範囲に飛び込む。
「右!」
叫ぶと同時に、背後でルチアが慌てて移動する気配がした。よし、指示は通っている。
ゴブリンの棍棒が、横薙ぎに襲いかかってくる。俺はそれを盾で受け止めた。重い衝撃。
「左!」
指示を飛ばす。俺はゴブリンを押し込み、ルチアの射線を確保する。
何度か、そのやり取りを繰り返す。まだ、攻撃の合図は出さない。まずは、この連携した動きに彼女を慣れさせることが先決だ。
ルチアの動きから、少しずつ硬さが取れていく。恐怖よりも、俺の指示に集中することで、余計な思考が排除されているようだった。
今だ。
ゴブリンが、大振りな一撃を繰り出してきた。俺は、その動きを待っていた。
懐に潜り込み、奴の棍棒を内側から剣で弾き上げる。ゴブリンの体勢が、大きく泳いだ。完璧な好機。
カキン!
俺は、合図の音を鳴らした。
その瞬間、背後で凝縮された魔力が、か細い光の矢となって放たれる。昨日、彼女が初めて生み出した、あの『ライト』の魔法だ。
光の矢は、ゴブリンの顔面……ではなく、その足元に命中した。
だが、それで十分だった。
予期せぬ光に、ゴブリンの目が眩み、その動きが一瞬、完全に停止する。
そのコンマ数秒の隙を、俺が見逃すはずがない。
踏み込み、がら空きになった胴体へ、一直線に剣を突き込む。
スキル『スラッシュ』。俺の意志に応え、剣先が青白い光を帯びてゴブリンの身体を貫いた。
断末魔の叫びを上げる間もなく、ゴブリンは崩れ落ち、やがて黒い霧となって霧散していく。
静寂が戻った洞窟で、俺とルチアは、ただ互いを見つめ合っていた。彼女の肩は、まだ小刻みに震えている。だが、その瞳に宿っているのは、もはや恐怖だけではなかった。
驚き。安堵。そして、初めて自分の力が、戦闘において意味を成したことへの、確かな手応え。
言葉はなかった。だが、視線だけで、俺たちはお互いの意志を確認する。
いける。
この連携を磨き上げれば、俺たちは、もっと強くなれる。
確かな予感が、俺の胸を満たしていた。教師としての指導が、この異世界で、俺たちの最強の武器になる。その事実を、この小さな成功が証明してくれたのだ。
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