第20話 最初の一歩


 翌朝、安宿の部屋に差し込む光は、昨日までとはまるで違う色をしていた。

 澱んだ空気に溶け込んでいたはずの緊張が霧散し、代わりに、どこか澄んだ静けさが満ちている。目的を共有する者同士の、無言の共感がそこにはあった。


 向かいのベッドでは、ルチアが小さな寝息を立てている。昨日、俺の指導の下でか細い光を生み出した後、彼女は糸が切れたように眠りに落ちた。魔法への恐怖、そしてそれを乗り越えた安堵。心身ともに、限界まで消耗していたのだろう。


 その寝顔は、年相応の幼さを残している。だが、そこには昨日までまとわりついていた、世界に拒絶された者特有の硬質なこわばりが、僅かに解けているように見えた。それだけで、俺の胸の内に、微かな熱が灯るのを感じた。


 俺は静かにベッドから起き上がり、窓の外に広がる迷宮都市の雑踏に目をやった。行き交う人々、響き渡る喧騒。この世界で生きるための、容赦のない現実だ。


 しばらくして、ルチアが身じろぎと共にゆっくりと目を開けた。視線が合うと、彼女は一瞬怯えたように肩を震わせたが、すぐに俺だと認識すると、はにかむように小さく微笑んだ。


「おはようございます……ケイ、先生」

「ああ、おはよう。よく眠れたか」

「はい。……夢を、見ませんでした」


 その一言に、彼女がこれまでどれほどの夜を悪夢に苛まれてきたのかが凝縮されていた。夢を見ない。それが、彼女にとっての安息なのだ。


 俺は壁に立てかけておいた剣を手に取り、そのずしりとした重みを確かめる。感傷に浸っている暇はない。俺たちには、為すべきことがある。


「準備をしろ、ルチア」

 俺の言葉に、彼女はこくりと頷き、素直にベッドから降りた。


「迷宮に行くぞ。だがその前に、お前の装備を揃える」

 その言葉が意外だったのか、ルチアは大きく目を見開いて俺を見た。


「私の……装備、ですか?」

「当然だ。今の格好で迷宮に足を踏み入れれば、ゴブリンに食われる前に風邪を引いて死ぬ。冒険者には、それにふさわしい備えが必要だ」


 俺たちは宿を後にし、武具や道具を扱う店が軒を連ねる、市場の一角へと向かった。


 鼻を突くのは、なめした皮の匂いと、鉄を打つ鍛冶場かじばから流れてくる熱気。威勢のいい商人たちの怒声にも似た呼び込みが、耳をつんざくように響いている。

 この猥雑で、生命力に満ちた喧騒こそが、このフロンティア都市の素顔だった。


 これまでの俺は、この市場をただ効率だけを求めて歩いていた。いかに安く食料を手に入れるか。消耗した砥石を、銅貨一枚でも安く買うにはどの店で交渉すべきか。自分の生存だけが、唯一の判断基準だった。


 一貨幣でも切り詰める。それが、この世界で孤独に生きるための鉄則だったからだ。


 だが、今は違う。隣には、小さな歩幅で懸命に俺についてくるルチアがいる。俺は彼女の師であり、そして唯一の保護者だ。


「まずは杖だな」

 俺は、露店に無造作に並べられた杖を一本一本手に取っていく。


 魔法の触媒であり、同時に未熟な彼女にとっては護身用の武器ともなる。軽すぎず、重すぎないこと。魔力の伝導が良いとされる材質であること。そして何より、彼女の小さな手でも確実に握り込める太さであることが重要だ。


「へい旦那、そいつはかしの一級品だぜ。お代は勉強しとくよ」


 人の良さそうな店主が声をかけてくるが、俺は無言で首を振った。木材の質はいい。だが、装飾に凝っている分、無駄に値が張る。今の俺たちに必要なのは、見栄えの良さではなく、実用性と信頼性だ。


 自分の装備を選ぶときには感じなかった、奇妙な熱意が思考を支配していた。まるで、精密なテストの採点でもするかのように、俺は杖の性能を吟味していく。


 数軒の店を巡り、ようやく一本の杖を見つけ出した。何の変哲もない、白樺しらかば|の杖だ。装飾もなく、使い込まれてグリップの部分は少し黒ずんでいる。

 だが、手に取った瞬間に分かる。重心のバランスがいい。そして、杖の先端に埋め込まれた安物の魔石は小さいながらも、濁りのない純粋なものだった。


「これにする」

 俺が銅貨を支払うと、店主は意外そうな顔をしたが、すぐに無骨な笑顔で杖を布袋に入れてくれた。


 次はローブと靴だ。これもまた、命を預けるに足るものでなければならない。


 立ち寄った古着屋で、俺は壁一面に吊るされたローブを吟味した。重視するのは、防御力と動きやすさだ。ルチアは後衛だが、万が一ということがある。ゴブリンの爪や牙を防げるほどの強度はないにせよ、少しでも頑丈な生地であるに越したことはない。


 俺は一枚の、深い森の色をしたローブに目を留めた。子供用にしては、生地が厚く、肩や肘には革の当て布で補強までされている。おそらく、裕福な家の子供が、冒険者ごっこのために誂えたものだろう。ほとんど使われた形跡がなく、状態は良かった。


「ルチア、これを着てみろ」

 言われるがままに袖を通した彼女は、自分の姿が少し気恥ずかしいのか、俯いて裾をいじっている。サイズは少し大きいが、成長を見越せば問題ない。これなら、迷宮の岩肌で転んだとしても、擦り傷くらいは防げるはずだ。


 靴も、底が厚く、滑り止めの溝がしっかりと刻まれた革製のものを慎重に選んだ。

 なけなしの金が、次々と懐から消えていく。自分のためであれば、これほどの大金、一日で使うことなど決してなかっただろう。もっと安い、継ぎ接ぎだらけの装備で妥協したはずだ。


 だが、不思議と後悔はなかった。むしろ、財布が軽くなるにつれて、胸の内には奇妙な満足感が広がっていく。


 これは、誰かを守るための出費だ。自分のためではなく、他者の未来のために使う金だ。その事実が、ささくれ立っていた俺の心を、じんわりと温めていく。


 ふと、脳裏に遠い日の記憶が蘇った。娘の美千花が、小学校に上がるときのことだ。妻と一緒に、真新しいランドセルや文房具を買い揃えた。あれも必要だ、これもあった方がいいと、結局は予算を大幅に超える買い物をした。あの時も、今と同じような、温かく、そして少しだけ誇らしい気持ちになったことを思い出す。


「……よし。これで最低限の準備は整ったな」

 俺が独りごちた、その時だった。


「あの……先生」

 ルチアが、不安そうな瞳で俺の服の裾を引いた。


「私なんかのために、そんな……お金を、使ってしまって……」


 彼女の声は、罪悪感で震えていた。自分には、それほどの価値がない。彼女の瞳が、そう訴えていた。孤児として、誰からも顧みられずに生きてきた彼女にとって、誰かが自分のために何かを犠牲にすることなど、信じがたい出来事なのだろう。


 両親が亡くなってからは、誰かに奪われることはあっても恵まれることなどなかったのかもしれない。


 俺は、彼女の前に屈み込み、その小さな肩に手を置いた。真っ直ぐに、その揺れる瞳を見据える。


「勘違いするな、ルチア。これは施しじゃない」

 俺は、国語教師として、幾人もの生徒と向き合ってきた時と同じ、厳しく、そして真剣な声で告げた。


「これは、お前への『投資』だ」

「……とう、し?」

 聞き慣れない言葉に、彼女は小首を傾げる。


「そうだ。俺は、お前の才能に投資している。この杖も、ローブも、すべてはお前が強くなるために必要な経費だ。だから、お前は負い目を感じる必要はない。ただ、期待に応えればいい」


 俺は、彼女の肩を掴む手に、わずかに力を込めた。

「強くなれ、ルチア。そして、この投資額の何倍、何十倍もの価値を、お前自身の力で稼ぎ出せ。それが、師である俺に対する、お前の務めだ」


 それは、慰めでも、優しさでもない。教師として、弟子に課す、明確な要求だ。だが、その方が彼女のためになると、俺は確信していた。同情は、人の自立を妨げる。必要なのは、目標と、それを成し遂げるための覚悟だ。


 俺の言葉の意味を、彼女は懸命に咀嚼しているようだった。やがて、その瞳に宿っていた不安の色が、少しずつ薄れていく。代わりに、一点の、固い決意の光が灯った。


「……はい、先生。私、強くなります。必ず、期待に応えます」

 その声にはもう、迷いはなかった。


 新しい装備に身を包んだルチアは、少しだけ大人びて見えた。森色のローブが、彼女の金色の髪を際立たせている。その姿は、薄汚れた孤児ではなく、紛れもない、冒険者の卵だった。


 俺たちは、再びあの場所へと向かう。


 灰色で、威圧的な巨大建築物。迷宮都市アークライトの心臓部にして、俺たちの職場――冒険者ギルドだ。


 ルチアをギルドで冒険者として登録し、ステータスカードを取得する。


【名前】ルチア

【レベル】1

【HP】10/10

【MP】25/25

【EXP】0 /100

【筋力】2

【耐久力】3

【敏捷性】4

【知力】10

【精神力】12

【スキル】

・ライト Lv.1 (1/100)


 ルチアのステータスはまさしく魔法使いとしてよくある知力、精神型だった。俺にないものが彼女にある。その成長が楽しみだ。


 ギルドを抜け、その裏手にある巨大な洞穴へと続く石畳を、二人で並んで歩く。


 数日前、俺はここに一人で立った。右も左も分からぬまま、ただ生き延びるためだけに、絶望的な覚悟でこの穴を睨みつけていた。吹き付ける風は、死者のため息のように冷たく、孤独の色をしていた。


 だが、今は違う。


 同じ場所に立ち、同じ風に吹かれているというのに、何もかもが違って見えた。


 隣には、俺を「先生」と呼ぶ、小さな弟子がいる。彼女は、俺が守り、育てるべき未来だ。孤独ではない。俺たちは二人で一つの、戦闘単位パーティなのだ。


 風が、俺たちの背中を押すように、洞穴の奥へと吹き抜けていく。それは、新たな始まりを告げる、ファンファーレのように聞こえた。


 俺は、隣に立つ小さな冒険者に向かって、短く告げる。


「行くぞ」

「はい!」


 迷いなき返事と共に、俺たちは薄暗い迷宮の入り口へ、最初の一歩を踏み出した。

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