第33話 忍び寄る影
妻の『子宮頸がん』が発見されたのだ。
毎年約10,000人程の方が新たに子宮頸がんと診断されていて、そのうちの3割程にあたる2,900人ほどの方が命を落としているそうだ。
数多くの女性がこの病気と闘っている事がわかる。
妻の【優歌】(ゆうか)が病室のベッドに腰掛け、窓の外に広がる空を見上げたのは、8月の日差しが強い午後だった。
「ねぇ、紅白出てみたら?」
突然呟いたその言葉に、星夜は反射的に眉をひそめた。
「そんな話、今しなくても…。」
優歌の病室に流れるのは、抗がん剤の滴るリズム。あまりに非現実的な響きに、思わず拒絶してしまった。
アルマクには、実は『紅白歌合戦』への出演オファーが届いていた。年末に毎年放送されている日本の伝統の歌番組だ。世代問わずその年に話題となったアーティストや大物歌手が集う、音楽業界のビッグイベントだ。アルマクは今も変わらず顔出しをしていないし、正直テレビに全く興味がない。
『素顔を知らないからこそ、想像できる余白がある』
アルマクの音楽を愛するファンはそう語ってくれる事も多かった。そして、そのスタイルを守り続けてきた最大の理由は、星夜にとって『日常』を守る盾でもあった。誰にも知られずに家族と過ごす時間が、星夜にとっては何よりも大切だったのだ。と言うかオファーは既に断っていた。それをなぜ今、優歌が口にしたのか、星夜にはわからなかった。彼女の顔を見ると、細くなった輪郭の中に、どこか清らかな決意のようなものが宿っていた様に思う。
すべての始まりは、あの春だった。
定期検診の結果、優歌に子宮頸がんが見つかった。ステージはⅡB。
すぐに治療が始まり、家族の環境は一変した。病院通い、入院、手術、放射線、抗がん剤…。星夜は、美縁らに報告し、この期間は家族の事に専念した。外に出て音楽を届ける事以上に、今は優歌の側にいる事が自分の役目だからだ。娘は、
「ママ、髪の毛また伸びるよね?」
と聞いた。息子は毎晩、
「ママ、痛くない?」
と言ってそばから離れない。優歌は微笑んで、「大丈夫。ちょっとづつ治していくからね。」と答え続けた。だが実際には、抗がん剤の副作用は壮絶だった。吐き気、倦怠感、発熱、脱毛。そして、何よりも強い不安…。夜になり、ほんの少し星夜と2人きりの間は震える声で囁いた。
「夜はなんだか怖いわ。」
星夜はただ抱きしめて、何度も何度も背中を撫でた。現実的な残酷さを感じる日々も続いたある晩、治療の合間にふと優歌が言った。
「【君のために】は、なんか最近結構好きよ。この曲は美縁くんの為に作った曲だっけ?」
それを聞いた星夜は、
「う〜んまあそうそう。」
と答えた。本音では、美縁の為というよりは、美縁のリハビリ姿を見て、大切な人を思い浮かべられる様な曲が多くの人に届いて欲しいと願って作った。優歌は、アルマクの音楽には、人の心を動かし生かす力があると信じていた。「じゃあその曲を紅白で歌うのはちょっとキモいか!」
と言って笑っていた。星夜にとってはそんな事よりリアルに、君のために出来る事を毎日考えているんだけど、と内心思っていた。
美縁は星夜の現状もある為、相変わらず曲作りもマメにしている。この頃はたまにSNSをチェックしたりもしていた。久々にインスタを開いたらダイレクトメールが沢山届いていた。普段は正直全く見ないメールを覗いてみると、1件気になる内容を見つけた。
「良い曲が増えてきたな。沁みる曲が作れる様になってきたな。生きてるうちに歌っているところを見てみたいけどな。まあこれからも頑張れよ!」
美縁と星夜の行きつけのお店、『前のめり』で出会った清さんからだった。定期的に見てくれている事もわかった。慣れない事をがんばってしてくれているのが伝わる。美縁は返信するか迷った。少し物思いに耽った後、
「人前で歌う程のもんじゃないですよ。」
そう一言返した。すると、数時間後に清さんから返信があった。
「音楽やってきて夢破れた奴らは沢山いる。でも音楽を聴く事は辞めなくて良かったって思うんだよ。お前らの曲とか聴いているとな。1度でいいからそう言う人達の思いに答える様な歌を歌え。その経験がお前達に更なる深みを加えるさ。まあじじいの戯言だから気にするな。」
この言葉を見た美縁は、
「ありがとうございます。ちょっとだけ考えてみます。」
と返信し、その場からしばらく動く事はなく、ただ目を閉じて自分と向き合っていた。
星夜は正直、優歌の死について何度か考える事があった。優歌の今の姿を見れば、誰でもその『最悪』はよぎる。日中、娘は学校に、息子は保育園に行っている為、優歌と2人で過ごす時間は沢山あった。体調の良い日は、なんて事ないありきたりな会話をする。その時は、とても穏やかで美しい時間が流れ、かつて恋人だった時の事を思い出すのだ。優歌は凄く気が強い。
正直、言い方がきつい時は良くある。ティファールよりも遥かに早く沸騰するし、顔にすぐ出やすい。その対比としては、とにかくよく笑う。笑いの沸点は低いし、割と何にでも反応してケタケタ笑う。笑っている時は可愛い子なのだ。顔は似ていないが、優歌の気質や性格は、娘がしっかり継承している。この先の未来が繋がってくれれば、いつかバチバチの喧嘩を毎日の様にするのが想像できる。その想像をすると、今の星夜は何だかほっこりできるのだ。
優歌とは、まだまだ話す事も行きたい場所も沢山ある。振り返ってみると星夜と優歌には色んな事があった。その起こった事全てには、ちゃんと意味があるのだと思う。別れを想像した事もあるし、強制的に立ち止まって、考えさせられる出来事の中で、2人は互いに成長し、互いを受け入れてここまで来た。
まだ40代。星夜はまだ、夫婦で夢の続きが見たいと願う中、毎朝神社に向かうのが日課になっていた。
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