暖かな記憶


 ――駆ける。


 瓦礫と煙が立ちこめる焼け跡を、僕たちは駆け抜けていた。


 母さんの身体は思った以上に重い。でも、僕の肩にしがみつくその腕には、まだ微かに力が残っていた。


「もう少しだよ、母さん……」


 肩越しに声をかけると、母さんはうっすらと目を開けて、小さく頷いた。結衣はそのすぐ隣で、唇を噛みながらも必死に走っている。


 僕たちは、避難所へ向かっていた。


 生き延びるために。

 誰かに繋げるために。


 父さんが、命を懸けて稼いでくれた時間。その一秒一秒を、無駄にしないために――


 その時だった。


 ――ズガァァンッ!!


 腹の底にまで響くような衝撃音が、突然、正面の瓦礫の向こうから響いてきた。


 (……っ!?)


 次の瞬間、“何か”が空中を飛んでくるのが見えた。

 

 ――ドシャァッ!!


 砂埃と破片を巻き上げながら、目の前に“それ”が墜ちた。何が起きたのか、すぐには理解できなかった。


 でも、土煙の向こうから、よろよろと起き上がる人影を見た瞬間――


「……父さん!?」


 その姿はあまりにも変わり果てていた。


 服は焼け、体中に深い裂傷が走っている。右腕は肩から垂れ下がり、指先は震え、魔力の気配は――もうほとんど感じられなかった。


「……篝……?」


 声も、かすれていた。けれど、それでも笑おうとしていた。父さんは、僕と母さんと結衣の姿を見て、安心したように、かすかに目を細めた。


「ちょ、ちょっと……!今、手当を――!」


 僕は駆け寄ろうとした。でも、父さんは頭を振った。


「……ダメだ、まだ……終わってない……!」


 その言葉と同時に、背後で瓦礫が崩れ落ちる音が響いた。


 ――異形だ。


 父さんを吹き飛ばした存在。

 四肢が不自然に伸び、背中に黒い棘のような突起を生やした異形が、瓦礫の影から再び姿を現した。


「……あいつは、俺が止める……!」


 もはや戦える状態ではないはずなのに、父さんはふらつく体を支えながら、一歩だけ前に出た。


「逃げろ……! 篝、お前たちは……母さんと結衣を連れて……今すぐ……!」


 それは命令だった。


 父さんの声には、決意と――絶望が、ない交ぜになっていた。


 (……ダメだ……もう、父さんには殆ど魔力が残っていない……)


 何もできない。守られてるだけ。逃げるだけ。


 ――そんな自分が、今、許せなかった。


「……なんで……!」


 喉が焼けるように熱い。

 涙がこぼれそうになる。


「……僕にも……僕にも、天賦さえあれば……!」


 ――その瞬間だった。


 何かが、胸の奥で弾けた。


 鼓動が一拍だけ強くなったような気がして。

 世界の色が、少しだけ、違って見えた――。


 それは熱だった。焼けつくような、けれど心の奥では確かに「自分の力」だと分かる、異質なエネルギーだった。


 (……これが、僕の……)


 手のひらが、かすかに光を帯びていた。

 その光は、内側から皮膚を透かして浮かび上がってくる。まるで、骨と神経の一つひとつが、魔力と直結したような感覚。


 異形が、父さんへと爪を振り下ろそうとしていた。


 もう間に合わない――そう思った瞬間、身体が勝手に動いていた。


「やめろぉおおおおっ!!」


 叫びとともに、僕の右手から一筋の光が放たれた。


 ――ズガァンッ!!


 炸裂する閃光。

 異形の腕が爆ぜるように砕け散る。


 (今のは……何……!?)


 驚いている暇もなかった。

 異形が僕に向き直る。口のない顔がギリギリと軋む音を立てながら、再び飛びかかってくる。


 それに合わせて、身体が自然と反応する。


 ――意識しなくても、“法則”が動き出す。


 (……これが……僕の天賦!)

 

 空間が軋む音がした。

 次の瞬間、空気中の圧力が変わった。


 手のひらに“発生”したのは、光ではない。

 熱と圧力と振動の再定義によって構成された、物理法則そのものを切り裂く“刃”だった。


 重力の向きと大気の密度を同時にねじ曲げる。

 形状記憶合金のように自律制御するエネルギー構造が、刃の輪郭を保つ。


「ハアッ!!」


 振るった瞬間、刃は空気中の熱運動を“凍結”させ、

 異形の体内の圧力差を無理やり反転させた。


 ズグン、と音がして――異形が、裂けた。


 背中の突起は構造破壊され、内部から膨張するように破裂する。

 仰け反るその巨体を、逆重力で浮かせたまま、再構築した刃が“内側から”貫いた。

 

 (父さん……)


 振り向くと、父さんが膝をついていた。


「……はは……やるじゃねぇか……」


 声は、かすれていた。

 けれど、確かに笑っていた。


「……まさか、こんなタイミングで発現するとはな」


 ゆっくりと、父さんが座り込む。


「父さん、すぐに治療を……!」


 駆け寄ろうとする僕の肩を、父さんが片手で制した。


「……もう……無理だ。……俺の魔力は、もう使い切った」


 その言葉に、息が詰まった。


 父さんの体には、魔力の流れが――もう、ほとんど残っていなかった。


「っ……そんな……!」


 地面を拳で殴る。何もできなかった。結局、父さんに背負わせていた。


 ――そのとき。


「……篝……」


 弱々しい声に、僕は振り返った。


 母さんだった。

 でも――その瞳が、完全に人間のそれじゃなかった。


「……あ……」


 母さんの全身から、黒い靄のような魔力が立ち上っていた。

 皮膚は青白く変色し、指の関節が不自然に膨らんでいる。


「……母さん……?」


 小さく名前を呼ぶと、母さんは微かに微笑んだ。


 その笑みは、どこまでも穏やかだった。

 けれど、その瞳の奥では、“人間としての灯”が、今まさに消えようとしていた。


「……篝、結衣、聞いて……」


 か細い声が、僕の心を突き刺す。


「……もし、私が、変わってしまったら……あなたたちのことが分からなくなったら……その時は……お願い……」

「やめて……っ、そんなこと言わないで……!」


 結衣が泣き出す。

 僕は、歯を食いしばる。


 でも、母さんの体から放たれる“異形の魔力”は、確かに強くなっていた。


(……あと、少しで……母さんは“異形”になる)


 母の異形化が確定的になる中で、父も座り込んだまま肩を震わせ始めます。


「……っ、父さん?」


 振り向いたその目に映ったのは、苦痛に顔を歪める父の姿。額には黒い紋様が浮かび、皮膚は灰色にくすんでいた。


「……あぁ、そういうことだったのか……」


 父の声はかすれていた。でも、その言葉に、異様なほどの“覚悟”がにじんでいた。


 父は、自分の“終わり”を感じ取っている。


「母さんだけじゃないのかよ……!」


 拳を握る。震える。

 世界から消えていく。記憶すら塗り替えられて、存在しなかったことにされて。

 そんな理不尽が、目の前で、両親に、同時に起きようとしている。


「……逃げろ、篝。結衣を連れて……」


 父は血に濡れた手で、僕の肩を押した。


「……逃げて、見捨てろっていうのか!?」


 叫んだ。けれど父はもう、それには答えなかった。


「最後まで……親でいたいんだよ、俺は。母さんも……そう思ってるさ」


 そして、小さく息を吐いた。


「だから――頼む」


 その瞳に、もう恐れはなかった。ただ、まっすぐに“死”を見据えていた。


「結衣には……見せるな。あいつの記憶には、ちゃんと“両親”がいてほしい。……化け物になるところなんて、見せたくないんだよ」


 背中が、震えた。


 逃げれば、きっと忘れる。

 でも、殺せば、記憶は残る。

 “守ってくれた人”として、記憶に刻むことができる。


 ……そんなの、そんなの……。


 どっちも地獄だ。


「――お願いだ、篝」


 母が、震える声でそう言った。

 父と母が、同時に頭を下げる。


 涙が、止まらなかった。


「……わかったよ……」


 そう言うしかなかった。


 結衣の手を離す。彼女の目に触れないように、背を向けさせて、僕は両親の方へと歩いた。


 結衣の手を離し、僕はそっと背を押した。


「少しだけ目を閉じてて。すぐに戻るから」

「え……? お兄ちゃん……?」


 不安げに僕を見上げる結衣に、できる限りの笑顔を浮かべる。


「大丈夫。すぐに行くよ」


 結衣の視線が離れたことを確認してから、僕は静かに立ち上がった。

 歩み寄るごとに、両親の身体から漂う“人間ではない気配”が濃くなっていく。


 (もう、時間がない)


 母さんは目を閉じて、父さんは空を見上げていた。


「……やっぱり、空の色が違うな」


 そんなことを、ぽつりと呟いて。

 父は何も知らずに、自分の終わりを受け入れようとしていた。


 (知らないんだ。異形になったら、誰からも忘れられるって、もし、このまま変わったら……結衣の記憶からも、消えてしまう……)


 僕は、きっと“違和感”に気づける。

 でも、結衣はまだ幼い。何もかも、塗り替えられてしまうかもしれない。


 (……殺せば……最後まで、結衣の両親でいさせてあげることができる……)


 ――だったら、"俺"は。


 感覚は直感的だった。作りたい形を思い描けば、それはすぐに変化した。

 細く、鋭く。力強く、まっすぐに。


 “何かを断ち切る”ための風の刃。


 それを握りしめた僕に、父が気づく。


「……篝?」


 その目が、僕の手元の“刃”に気づいたとき――

 父は、一瞬だけ眉をひそめた。


 でも、すぐに、何かを悟ったように目を細めて、ふっと微笑んだ。


「……お前がそうするってことは……きっと、そうする“理由”があるんだな」

「……よく頑張ったな。篝。結衣を、頼んだぞ」


 俺は、震える手で剣を構えた。


 母は、父の隣でうっすらと目を開けていた。

 その瞳に、僕の姿が映る。


 彼女は、何も言わなかった。

 ただ、小さく、苦しそうに――それでも、どこか優しい目で俺を見た。


「……ごめんね」


 それは、僕に向けた言葉か。

 自分がこんな姿になってしまったことへの懺悔か。

 あるいは、すべてを押しつけてしまったことへの謝罪だったのか――


 分からない。


 けれど、“母さん”の声だった。


「――ありがとう、父さん。母さん」


 ――振り抜いた。


 返り血が、頬に飛んだ。


 父は、何も言わなかった。ただ目を閉じ、静かに崩れ落ちた。母もまた、小さく笑ったまま、息を引き取った。


 ……その瞬間、脳の奥で、何かが消えた気がした。


 でも俺は、忘れなかった。

 これが、この街で一番――苦しく、温かい記憶だと、知っていたから。

 

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