日常の終わりに



 その日、空の色が違って見えた。


 朝はいつも通りだった。晴れていて、風も穏やかで、どこかの家からパンを焼く匂いすら漂っていた。


 でも――午後の授業が終わるころ、空は不自然なほど灰色に染まっていた。


 雲が低く垂れ込めていて、まるで空そのものが街を押しつぶそうとしているようだった。


 そして。


 《――ウォオオオオオオン……》


 突然、サイレンが鳴り響いた。


 それはこの街で絶対に鳴らないはずの音だった。避難訓練でも聞かない、訓練マニュアルにも存在しない“非常”の音。


 教室が凍りつく。先生が、信じられないものを見るように目を見開いた。


「……緊急警報……? いや、まさか……」


 誰もが理解していた。

 けれど信じたくなくて、呼吸すら止めていた。


「……みんな!落ち着いて!」


 先生が声を張り上げる。震えてはいたが、それでも精一杯の威厳を込めていた。


「今すぐ整列して、地下の安全区域へ避難!先生が先導するから、慌てずに、走らずに――!」


 わっと立ち上がる生徒たちの間で、僕の頭の中は別のことでいっぱいだった。


 (結衣は……!?)


 自宅にいるはずだ。今日は風邪をひいて家で留守番しているように言ってあった。


 (父さんと母さんは……!)


 街の近くで仕事をしていたはず。異形が来たなら、きっと……!


「篝、行くぞ!」


 健人が僕の腕を取ろうとする。けれど、その手を僕はすり抜けた。


「……ごめん!僕……行かないと!」

「篝!?なに言って――!」


 最後まで言わせずに、僕は走った。


 階段を駆け下り、校舎の外へ出る。

 背後で健人や由美、先生の叫び声が聞こえたが、振り返らなかった。


 僕には、向かわなければならない場所があった。


 結衣を守らなきゃ。

 父さんと母さんが、もし戦っているなら、僕にも何かできることがあるかもしれない。

 もし、何もできなかったとしても、それでも、今ここで逃げてる場合じゃない。


 街の空はもう、黒煙に包まれ始めていた。


 焼ける音。崩れる建物の音。

 悲鳴と怒号が入り混じるその中へ、僕はただひたすら、家へと走った。


 ――その時だった。


 瓦礫の向こうから、異形が姿を現した。


 細長い腕。ねじれた関節。目がないはずなのに、まっすぐ僕の存在を捉えているのが分かった。


 そして――その異形の“顔”には、まるで仮面のような、白くのっぺりとした骨質の突起が張り付いていた。


 顔に表情はない。けれど、その“仮面”には斜めに裂けたような一本の深い傷跡が走っていて、まるでそれが笑っているようにも、怒っているようにも見えた。


 (……あっ……)


 足が止まる。心臓が凍りついたように動きを忘れる。

 それでも、体は少しだけ後ろへと下がった。


 その瞬間――


「篝くんッ!!」


 怒号のような声と共に、誰かが僕を突き飛ばした。

 重たい音。風を切る唸り。そして、鈍い衝撃音。


「……先生……?」


 振り返ると、そこには、僕の前に身を投げ出すようにして立ちはだかった先生がいた。

 肩から腹にかけて、深く抉られた傷。すでに返り血で制服は真っ赤に染まっている。


 それでも、先生は倒れていなかった。

 片膝をつきながらも、両腕を広げて、僕を守る壁のように――そこに、いた。

 

「な……んで……」


 僕の声は震えていた。


「……子どもを……子どもを一人で、こんな場所に残せるわけない……それに篝くん……家族のところへ行くんでしょ?……」


 先生の声は震えていたけれど、ちゃんと、僕を安心させようとしていた。まるで、いつもの教室で叱ったり、笑ったりしていたときみたいに。


「行きなさい、篝くん。……君には、守らなきゃいけないものが、まだたくさんある。結衣ちゃんも……家族も……君自身の未来も」

「で、でも……!」


 僕の足はすくんでいた。目の前の異形。触れるだけで裂かれるだろう、その爪。

 それに立ち向かおうとする先生の背中が、震えている。


「……私は大丈夫……だから、行きなさい生きなさい


 その言葉は、炎のように僕の胸に灯った。

 涙があふれそうになる。けれど、こらえる。今は泣いてる場合じゃない。


「……ありがとう、先生」


 絞り出すように、僕は言った。


 その背中に、もう一度深く頭を下げて。

 そして、僕は走り出した。


 風を切る音。遠ざかっていく咆哮。

 僕は、決して無駄にしないと誓いながら、家へ――家族のもとへと走り続けた。


 * * *


 玄関を開けた瞬間、焼け焦げた空気が襲いかかってきた。


 壁にひびが入り、家具は倒れ、ガラスはすべて割れている。けれど、その中で――かすかに人の声が聞こえた。


「……っ、母さん……!」


 居間の奥、血に濡れた床に、母さんが倒れていた。


 その身体はすでに限界だった。皮膚には黒い斑点が浮かび上がり、魔力の光はほとんど感じ取れない。けれど、目だけは、まだ――僕を、ちゃんと見つめていた。


「……か……がり……」

「母さん!今、すぐ手当を――!」

「ダメ……よ。もう、いいの……貴方は……逃げなさい。結衣を、連れて……」


 震える指が、奥の部屋を指していた。


 ――結衣!


 僕は咄嗟に駆け出し、部屋の扉を開ける。中にいたのは、小さく膝を抱えて震えていた結衣だった。


「結衣!大丈夫か、怪我は……!」

「お兄……ちゃん……」


 泣きそうな声。僕は思わず彼女を抱きしめる。


「大丈夫、大丈夫だから……母さんも、まだ意識ある。父さんもきっと――」


 そのとき、家の外から、魔力の衝突音が轟いた。


 ――ドォン!


 空気が震える。


 玄関へと駆け戻ると、そこにいたのは、血に濡れながらもなお立ち上がっている父さんの姿だった。


 ボロボロの服。身体中に走る傷。

 けれどその眼には、まだ戦う意志が宿っていた。


「……なんで来た、篝」

「僕は、結衣を……母さんを……!」


 僕の言葉を遮るように、父さんは低く、けれどはっきりと言った。

 

「……俺が時間を稼ぐ。その間に、母さんと結衣を連れて逃げろ。いいな……絶対に、無駄にするな」


 言い終えると同時に、父さんは異形の咆哮の方へと駆けていった。


 その背中は、子どものころに見た、どんなヒーローよりも大きく、そして悲しかった。


「……っ、父さん……!」


 僕は唇を噛んだ。


 これが最後になるかもしれない。それでも、僕にはやらなきゃいけないことがある。


 今は、逃げなきゃいけない。

 母さんを、結衣を、連れて――。


 父さんの背中が瓦礫の向こうに消える。再び咆哮が響いた。空気が焼けるような魔力の衝突音――それが、どれほど凄まじい戦いなのかを物語っていた。


「……結衣、歩ける?」


 震える手で涙を拭いながら、結衣は頷いた。


「う、うん……!」


 母さんの身体を支えながら、僕と結衣は家の裏手にある避難経路へ向かった。


 けれど、そこへ向かう途中だった。


「……っ!」


 母さんの身体が、ふいに震えた。全身がぴくり、と痙攣したかと思うと、息が荒くなる。


「母さん……?」


 僕が顔を覗き込むと、母さんの瞳が一瞬――わずかに、濁った。まるで、人間のものじゃないような、底知れない闇を湛えた目。


 けれど、それもほんの一瞬で、彼女はまた、かすかな笑みを浮かべて僕たちを見た。


「……ごめんね……篝……結衣……ちゃんと……生きて……」


 そう言った母さんの手は、わずかに震えていた。


 避難路に続く小道は、半壊した家屋や黒焦げの木々が連なる、まるで戦場のような光景に変わっていた。

 母さんの体はどんどん重くなる。呼吸も浅く、手足は冷え切っていた。


 ――そのときだった。


「――ッ!」


 母さんの身体から、“魔力の揺らぎ”が漏れ出た。

 けれど、それは“人間”の魔力じゃなかった。

 僕の知っている、人の温もりのある力とは、明らかに違っていた。


 (……この感覚……どこかで……)


 頭の中で、今まで集めてきた情報が一気に繋がっていく。


 失踪者の多発地域。異形の出現地点との一致。

 “魔力を使い果たした人間”の記録だけが、なぜかどこにも存在しないという事実。


 そして、異形に関する断片的な文献に載っていた、不自然な“記述の空白”。


 (異形に関する公式の説明には、どこか決定的な部分が抜け落ちてる……)


 母さんの瞳が、またわずかに濁った。けれど、次の瞬間には元に戻っていた。

 

 けれど――二度見た事により、直感した。


 (まさか……いや、違う、違ってくれ……)


 けれど、否応なく頭の中に浮かぶ“答え”があった。


 ――異形は、完全に魔力を使い果たした人間が変異したもの、だと。


 (……じゃあ、異形になった人は?なぜ誰も気づかない?――そもそも、なぜ報告も記録もない?)


 答えは単純だった。


 (……異形になった人間は、周囲の記憶から完全に消去される……?)


 背筋が冷たくなる。息が詰まる。


 だから、誰も異形になる瞬間を語れない。存在そのものが、この世界から――


 (じゃあ……このままだと、母さんは……!)


 血の気が引く。足元がふらつきそうになる。けれど、僕は倒れなかった。

 母さんの腕を握り直す。冷たい。どんどん、人間の温度から離れていく。


 (間違いない……この感覚。母さんは今、境界にいる)


 “人間”としての最後の一線。

 このまま進めば、母さんは完全に変わる。

 そしてその瞬間、僕たちは、母さんのことを――


「……そんなわけない……っ!」


 叫びたかった。でも、声は出なかった。


 (僕は……忘れない。絶対に、忘れない)


 どれだけ世界が記憶を塗り替えようとしても、僕だけは、その違和感に気づける。

 だからこそ――この瞬間、僕はほぼ確信していた。


 “異形”とは、消された人間の成れの果てだ。


 (でも、まだ間に合うかもしれない。母さんの意識があるうちに……)


 僕は歯を食いしばり、進む道を睨んだ。


 そのときだった。


 ――ズズズ……ドンッ!!


 地響きと共に、瓦礫の隙間から“それ”が現れた。


 白くのっぺりとした仮面のような顔。

 その中央には、斜めに裂けた深い傷痕が刻まれている。


 細長く歪んだ四肢。ねじれた関節。

 まるで壊れた人形のような、異形の身体。


 (……こいつは……!)


 間違いない。あの仮面。のっぺりとした白い顔に、斜めに裂けた一本の深い傷。

 

 僕は、あの時こいつと遭遇して……"何とか逃げきれたんだ、自分の足"で。

 

 頭がズキッと痛んだ。


 その異形が、こちらに向かって歩みを進めてくる。


「……っ、結衣、下がって!」

 

 母さんの腕を抱えながら、僕は結衣を背にかばうようにして立ち上がる。


「なんで、こんな時に……!」


 刃のような腕が風を切り、迫ってくる――その瞬間だった。


 ――バキィィィィンッ!!!


 衝撃音。火花。砕け散る石畳。仮面の異形の前に、何かが飛び込んできた。視界に飛び込んできた“それ”は、黒い影のような存在だった。


 異形――いや、それもまた異形だ。


 今度のそれは、“教員証”のようなプレートを首から下げていた。


 それが何を意味するのか、僕には分からなかった。


「……なんだよ、お前らは……!」


 目の前で、仮面の異形同士がぶつかり合う。仮面を付けた異形と、教員証をぶら下げた異形。

 

 教員証の異形は傷つきながらも、何かを護るようにその場を離れない。


「……おかしい……」


 胸がざわつく。

 記憶に、ぽっかりと空いた空洞がある。


 僕は……命からがら逃げ延びたはずじゃなかったか?


 なぜ、今思い出そうとしても――そこだけが、まるで削り取られたように曖昧なんだ?


 ――行きなさい、篝くん。


 脳裏を、声がかすめた気がした。


 けれど、振り返ってもそこに誰もいない。誰かに、何かを言われた気がするだけだ。


「お前は、僕の知り合いだったのか?……」


 問いは答えを持たずに宙に溶けた。


 目の前では、教員証をつけた異形が、必死にこちらを護るように、あの“仮面”と対峙している。


 (……僕が、ここで立ち尽くしているわけにはいかない)


 この存在が“誰か”だったとしても、それを思い出せない自分がいる。

 ならせめて、この瞬間に応えるように――“逃げなきゃいけない”。


「結衣、走れ!」

「う、うんっ!」


 震える声とともに、僕たちは瓦礫の合間を縫うように駆け出した。


 その背後で、異形同士のぶつかり合う音が、次々と響き渡る。


 ――バチィンッ!


 火花のような魔力の衝突音。地面が裂け、壁が砕ける。


 教員証をつけた異形は、爪を弾き、仮面の異形の攻撃をいくつも受け流していた。何度も押し倒されそうになりながら、必死に立ち上がる。

 

 腕は裂け、脚は折れかけていた。

 それでも――一歩も退かなかった。


 ――グシャッ!!


 激突音が、空気を裂いた。


 決着が近い。

 でも、それが“誰か”だったことを、僕は――


 もう、思い出せなかった。

 

 

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