第7話

「佐野が……どうしたんだ」

 妹に問う声が奇妙に上擦る。しかし自分の様子が不自然だとかどうこう言ってる場合じゃない。

「美園の妹が話してくれたんだよ。メンヘラ姉の彼氏さん、あのままじゃマジでやばいんじゃないかって。

 その妹、唯っていうんだけどね。先週の日曜、美園家の両親は親類の法事で出かけたらしくて、そのチャンスに彼氏を家に呼ぶから唯は夜までどこかへ外出しとけって、姉に厄介払いされたんだって。まあ唯の方も姉と二人で家にいるなんてあり得ないし、友達と遊びに出かけたらしいんだ。で、映画見るのに学割使うから学生証を家に取りに来たみたいなんだけど、その時にトイレの前通ったら、なんか男の人のえずく声してるからめっちゃビビったんだって……状況的に、絶対姉の彼氏じゃん。

 で、姉に帰宅してるのバレるとやばいし、こっそり小声でトイレに声かけたらしい。『怜の妹です。大丈夫ですか』って。そしたら、『……すみません。このこと、絶対お姉さんには言わないでください』って、中から返事返ってきたって。

 彼女に対してそんなふうに体調不良を隠すって、どう考えても異常じゃん。佐野って彼氏さん、あの姉からメンタル的な重圧をかけられてるのはほぼ間違いないと思う。

 男子ってあんまり自分の弱音とか友達に打ち明けない人多いよね。見た目明るい人ほど、実は一人で抱え込んじゃったりするし。そういう辛い状況を、友達として側で見てて何も気づかないのかなって、それとも異変に気付いてて知らんぷりしてるのかなって。なんかめっちゃ腹立ったから言いにきた」


「——……」


 そんな。

 そんな深刻な何かが起こってるなんて——


「……にいちゃん? なんかにいちゃんも顔色ヤバいけど?」

「あ、花梨……大事なこと教えてくれてまじサンキュな……

 俺、ちょっとこれからやんなきゃなんないことあるからさ。このお礼は後日絶対にする!! だからちょっと今は一人にさせてもらっていいか?」


「……わかった」

 俺の様子の異変を受け止めたのか、花梨はそのまま素直に立ち上がる。

 ドアを出ていく妹の背を確認するなり、俺は机のスマホをガッと握った。震える指で、ずっと開いていなかった佐野とのトークルームを開ける。


『おめでとう。仲良くな』

 夏休み最終日に送った俺のメッセージにも、佐野の既読はついていなかった。


「……っ、マジで完全無視する気かよ!?」

 それでもなんでも、とにかくメッセージを打つ。

『佐野。美園さんと今どうなってるのか、全部聞きたい。頼む』

『今、妹から聞いた。美園さんの家のトイレで佐野がえずいてるのを、美園さんの妹さんが気づいたって。それどう考えてもおかしいだろ。

 美園さんに、何か追い詰められてるんじゃないのか?』


 既読がつくのをジリジリと待つ。同時に、多分読まないんだろう、とも思う。

 案の定、いつまで経っても既読はつかない。

 部屋をうろうろと行き来し、時計を見上げ、カレンダーを見つめる。

 明日……明日は土曜だ。

 午後はサッカー部の練習もない。午後3時、いつもデリバリーに行っていた時間なら、彼は家にいるはずだ。

 心臓がバクバクと暴れて止まらない。俺は何とか自分自身の電源を切りたくて部屋の照明を落としベッドに深く潜り込んだ。







 翌日、午後3時少し前。

 通い慣れた佐野宅への道を、自転車で飛ばす。薄曇りの空から弱い日差しが落ち、晩秋の冷えた風が頬や額に打ち付ける。

 佐野。

 漕ぎながら、何度も口の中で呟く。気づけば昨日から、俺はずっと彼の名を呼んでいる。

 家の前で、荒い息をつきながら自転車を降りた。

 同時に、向かい側から不意に声をかけられた。

「あれ、葉山くん?」


 顔を上げると、そこには美園さんが相変わらず愛らしい微笑みで立っていた。佐野に何か差し入れだろうか、レジ袋を下げている。

「…………」

「どうしたの? こんなとこで」


 そうだ。

 佐野は、きっと何を聞いても喋らない。

 佐野じゃなく、こいつに聞くべきなんだ。

 俺の直感が、そう言った。


「——話がしたい」

 気づけば、口から低い声が出ていた。

「え? どうしよっかなあ。ほら、私佐野くんと約束してるんだけど?」

 察しろよ、とでもいうように、彼女はレジ袋を可愛く持ち上げながらきゅるんと小首を傾げた。

「話がしたい」

 もう一度、繰り返す。自分が彼女をどんな目で見据えているのかさえ、もうよくわからない。

「——ふうん。

 仕方ないねー。佐野くんには都合悪くなったってLINEしよっかな」

 美園さんは可愛らしいバッグからスマホを取り出し、軽やかな指遣いでトトっとメッセージを打つ。

「はい、おっけー。

 立ち話でもなさそうだし、場所変えよっか。ついてきてくれる?」

 彼女は美しい微笑を浮かべると、綺麗な髪を揺らして俺の前を歩き出した。



 しばらく歩き、駅前を抜け、美園さんは次第に裏通りへ入っていく。繁華街の外れの薄汚れた雑居ビルの入り口で、彼女は可愛く振り向いた。

「ここでいいかな? この地下に、私のお友達のお店があるの」

 ビルを見上げると、頭上には崩れた雰囲気をダダ漏れにしたピンクや紫の安っぽい看板が縦に並んでいる。「スナックももいろ」、「カラオケ露美緒」、「おっパブにゃんにゃん」……。

「…………いいよ、ここで」

 もう、いいも悪いもなかった。


 汚れた階段を降り、ピンクのケバいカーテンのかかった扉を開けると、中もやはりド派手な紫やピンクのカーテンが部屋の壁に張り巡らされている。安っぽいテカテカした黒いソファやどうでもいいような丸テーブルと椅子をテキトーに並べたような爛れた雰囲気の店だ。

 カウンターにいる男は、こっちをじろっと一瞥したきり再びグラスの手入れを始め、何も言わない。

 薄暗い店の奥のソファに、金髪とスキンヘッドのガタイのいい男が二人どかっと座って背もたれに体を預けて足を組み、つまらなそうにタバコをふかしていた。俺を連れて入店した美園さんを見ると、面白いものでも見つけたように背を起こしてヒュ〜、と小さく鳴らす。

「美園ちゃん、それカレシぃ?」

「んなわけないでしょ、こんな陰キャ」

 美園さんの返事に、男たちは呆れたように口元を歪に引き上げてから再びどかりとソファにもたれかかった。

 美園さんは適当なテーブルを選んで座り、俺も無言で向かい側に座った。


「オレンジジュースね」

 カウンターに声をかけてから、彼女は俺を見つめて美しく微笑む。

「で、話って?」

「……佐野のことだ」

「佐野くんが、何?」

「佐野と、本当にうまくやれてるのか、聞きたい」

「もー、やめてよそんな恥ずかしい質問〜。誰がどう見てもラブラブでしょ?」

 美園さんはうふっとでもいいたげに口元を可愛く両手で覆う。


「先週の日曜に、佐野が美園さんの家のトイレでえずいてたって……そんなことになるの、どう考えてもおかしいだろ」


 俺の言葉に、美園さんの表情が俄かに色を変えた。


「……は? なんでそんな情報持ってんのよ?」


「なんでもいいだろ。

 美園さん、佐野に何か無理させてるんじゃないのか? 隠さないで答えてくれ」


 美園さんは、上品な姿勢を突然崩して椅子の背にガタリと体重を預けると、高々と長い脚を組んだ。

 ミニスカートから綺麗な太ももがほぼ丸見えに近くなる。


「——なんだかよくわかんないけど、そういうことまでわかっちゃうんじゃ仕方ないなあ。

 ほんとのこと教えてあげるね。ってか、あんたこそ心当たりあんじゃないの、こういうことになるのはさ。——偽装恋愛でこのあたしを欺こうとか、ほんといい度胸だねあんたたち」


「——……」


 美園さんは、艶やかな唇をゾッとするような形に引き上げてから話しだした。

「7月半ばくらいだったかな。佐野くんが私の告白受けてくれてからしばらく経った土曜の午後に、佐野くんの家に行ったの。佐野くんには『土曜は休養取りたい』って言われてたけど、サプライズでスポーツドリンク届けたら喜ぶかも、と思って。  

 で、家の前まで来て2階の窓見上げたら、そこにあんたがいた。窓から顔出して、風浴びて。

 あんたが部屋の中を振り返ろうとした時に、佐野くんが——彼が、後ろから、あんたを抱きしめたの。二人の姿はすぐにカーテンの奥に見えなくなっちゃったけど。 

 ……その日はベルも鳴らせないまま家に帰った。

 絶対有り得ない、って最初は思った。何かの見間違いかもしれない、って。男子同士でなんかバカみたいに戯れてんのかも、とか、そう思おうと必死になった。

 けどね、そんな気休めはどうにもならない。あたしは本当のことを知りたいと思った。

 で、あのカフェにあんたを誘って、ちょっとカマかけたような会話振ったら、あんたはあからさまに動揺した。真っ赤になって、思い切りカフェラテに咽せちゃって。

 あーかわいいなあ、こういうとこかあ、って思った。

 だから、その次の日曜に、佐野くんと会った時に聞いたの。『私に何か隠してること、あるよね?』って」


「…………」

「それでも彼、しらばっくれて誤魔化そうとするからさ。『ちゃんと全部話してくれないと、葉山くんがちょっとかわいそうな目に遭っちゃうかもなあ』って言ったの。ほら、今ここにいるみたいなおっきなお友達に一言頼めば、ちょっとした嫌がらせとか、簡単でしょ?

 ——そしたら彼、びっくりするほど素直に全部話してくれたんだよ。いやほんと、笑えたわ。

 その話があんまり面白かったから、私、その場で彼と固く約束したの。『今日からは葉山くんとの関係は全部切って、私の完璧な彼氏になってくれるよね♡ 期限も1年間なんて言わず、死が二人を別つまでだよ♡ もしこれ1ミリでも破ったら、葉山くんがどうなるか心配だよね?』って」



「——……」


 それで。

 それで佐野は。

 あの夏祭りの時も。

 完璧な彼氏をやり遂げるために。

 俺のことを、守るために。


「あの綺麗な王子顔が打ちひしがれて私の言いなりになってるのが、たまんなくいいんだよねえ。

 あんたが泣いて騒いでも、この状況じゃちょっとどうにもならない感じじゃない? 悪いけどね」

 彼女は、嘲るように俺を見てパチっとウインクを投げた。


 その瞬間、胸の底から抑えようもなく激しい何かが突き上げた。

 勢いに任せ、俺は椅子を蹴ってガタリと立ち上がった。

 奇妙に静かな空間を、驚くほど荒々しい音が振動させる。同時に奥の男二人がガバッと立ち上がった。大きな躯体を屈め、俺に向けてサディスティックな笑みを浮かべて威嚇する。


 アドレナリンが一気に放出されるのを感じつつ、俺は彼らへ静かに顔を向けた。


「——そういうのは、やめてください。

 本当にかかってくるなら護身術を使います。普通に痛いと思います、警察官の父に仕込まれたので」



「…………」


 俺の言葉に、二人は一瞬アホ面を晒し、次の瞬間さあっと青ざめた。

 青ざめたのは、男たちだけじゃなかった。目の前のバカな女子も唖然としている。


「……美園さん」

「なっ、なに……」

「佐野と交わした約束、今すぐ破棄してください」

「……」

「破棄してくれるよね?」

「なっ……何よ!!

 先に私を馬鹿にしたのは、あんたたちでしょ!? ふざけんじゃないよ、自分たちは全然悪くないみたいに……!!」

 彼女はいつもの眩い美しさをかなぐり捨てた形相で俺に喚き立てる。


「——そうですね。

 あなたを騙したのは、本当に悪かった。許してください。

 けど……俺は、佐野に振られて悲しむあなたに、幸せを味わって欲しいと思った。

 これは、本当です。

 みんな、同罪です。俺も、佐野も、あなたも。

 本当に叶えたいもののために、必死になった。

 ——それでも、誰かの心や体を蝕んでまで、自分の望む何かを搾り取るのは、やっぱり間違ってる。

 そうでしょう?」


 美園さんは、返す言葉を探しあぐねたように唇をワナワナと震わせ、やがてとうとう言うべきことに辿り着いたように怒鳴った。

「……るっせえんだよ、この陰キャが!! このあたしに偉そうに説教すんじゃねえ!! とっとと消えろクソがっっ!!!」


「はい。帰ります」


 俺は一つ礼をすると、店のドアを出て薄暗い地下を後にした。


 ビルの脇に停めていた自転車を押しながら人混みの中を少し歩き始めた頃、後ろから誰かがどかどかと近づいてきた。何、何!?と思ってる間にドスっと肩に手を置かれ、心臓が止まるほど縮み上がった。

「ひぃっ……」

「なあ。にーちゃん、さっきのよかったわ!」

 さっきの店で奥のソファにいた男のうちのスキンヘッドの方だ。なんだかニヤニヤしている。

「なっ……なんですか! やるなら……」

「そうじゃねえって。

 あの女、マジ性格終わっててイラついてたからさ。つっても、言う通りに動けば気前よく金出すからまあ仕方なくくっついてるけどな。

 あんたがあんな感じであの女やり込めんの見てチョースッキリしたわ」

「そ、それだけですか? だったらもう……」

「お礼に超重要な情報伝えにきたんだって。

 あんたの大事な彼氏さん、みさおは守ったらしいぜ」

「……は……?」

「いや、そういえばあの女、『彼氏がいくら煽っても勃たない』って最近キーキーイラついてやがったんだよ。いくら言う通りに動かすっつっても勃たねえのだけはどうしようもねえなあ、ヒヒっ。

 ってわけで。まあ、あんなタチの悪いのから逃げ切れてよかったなあんたら。グッドラック〜♪」


 あからさまに下衆なニヤつき顔を残し、スキンヘッドは街中へ消えていった。


 






 駅を抜けてから、俺は全力で自転車を漕いだ。

 佐野のところへ。

 息を切らしながら、玄関のドアの前へ立つ。

 夏の初め、土曜の午後に毎週押した呼び鈴。


 震える指に、力を込めてボタンを押す。

 彼は出てこない。


「佐野!」

 ドアの奥へ声をかけた。


 ドアの側まで近づいた早足が、ぴたりと止まった。扉は開かない。

 まだ美園さんとの契約に縛られているのだろう。俺との接触は決してできないという、あの悪魔の約束に。


「——佐野。

 美園さんと、話してきた。

 お前と彼女との約束、全部解除してもらった。

 ——だから」


 ドアの向こうへ、そう伝える。



 扉が、かちゃりと開いた。

 呆然とした顔で、佐野が突っ立って俺を見ている。



 言葉が、何一つ出てこない。

 その代わり、俺は佐野に両腕を伸ばし、これでもかと抱き締めた。

 夏前と比べてなんだかやけに薄べったく肉の落ちた、その身体を。




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