第10話 決戦の舞台

 朝一番で、私は三つの束を鞄に入れた。

 契約書(会場・保険・出演義務)、許諾書(録音録画・検体保全・報道エリア)、台本(導線・配膳・乾杯の所作)。

 背表紙にはそれぞれマスキングテープで「紙=骨」と書いてある。湯気は散るが、骨は残る。


 会場は、あの夜と同じ配置に“寄せた”ホールだ。

 照度、花の色、BGM——再演のために似せてある。ただし見えないところは違う。

 天井の梁に赤い点が増え、壁には録音・録画許諾の掲示。入り口と角、そして湯気が溜まる場所に重ね貼り。

 ケータリングのステーションはひとつに集約し、前検体・封緘・採番・保全の流れを一本化。

 配膳導線は台本化、差し替えは紙に履歴を残さない限り行えない。

 会場責任者は最終チェック表に印を押し、私のほうを向いて言う。


「これだけやれば、“忘れていた”は通らない」


「はい。——乾杯は、司会の合図で一斉。個別の注ぎ直しはなし。事前サンプルを採って保全します」


 千堂は報道エリアの養生テープにしゃがみ込み、幅を指二本分詰めてから立ち上がった。


「境界線は、見えるほど優しい。曖昧だと、後で痛い」


「ありがとうございます。記事は構造で書きます」


 白衣ではないが、きちんとしたジャケットの佐伯梨央が、封筒を二通差し出す。

 「受領」「保全」のスタンプ欄が空いている。私は押印し、採番。

 ——骨が一本、増えた。


 裏口から相原が入ってくる。固定具で守られた手首は無理をさせない角度に保たれ、口数は少ない。


「導線は?」


「台本どおり。影は客前、実体は後方。湯気が来たら、前へお願いします」


「了解。君の腹は?」


「笑う準備ができています」


 相原は短く頷き、キッチンの火をのぞいた。

 奥では響が白いコートの袖口を整え、火加減に一度だけ目を落とす。

 決断前の癖。——今日は、その回数を数えるつもりはない。記録が数える。


     ◇


 開場。

 花が光を受け、テーブルの青い竜胆が、あの夜の輪郭を呼び戻す。

 ゲストは招待制。編集者、スポンサー、業界関係者。

 受付では許諾を一枚ずつ読み上げ、名札の色で立入を区分。

 赤い点が、静かに明滅する。


 司会が開演を告げる。

 私は台本の一行を指でなぞった。「乾杯:ステージ上/一斉/採番・保全後」。

 千堂からメッセージ。「幕が上がった」


 前菜が出る。

 山菜のリース、柑橘と泡。

 あの夜と同じ構成だが、今日はひと皿ごとに紙の影が敷かれている。

 ワゴンの影が揺れ、見せグラスの封緘に指が触れて、止まる。

 角の床が濡れ、すぐに黄色い看板が立ち、時刻が控えに記される。

 湯気は立ち上るが、骨は増え続ける。


 中盤、響は火口で迷わない。皿の上の嘘は、今日もない。

 ただ、場の嘘は縮小再演を試みる。

 非常口の緑の帯の上でヒールが二度止まり、踊り場の手すりで指が二回はじく。

 玲奈はそちらを見ない。見ないまま、マイクのケーブルのゆるみを直し、スタッフへ軽い合図を渡す。

 私は追わずに流れをずらす。

 台本のページをめくり、配膳の順を一つ前倒し——紙にメモ、サイン、時刻。

 差し替えは、記録の中でしか起こらない。


     ◇


 「乾杯です」

 司会の声がホールをすべり、ステージに視線が集まる。

 ステーションでは、ボトルが採番され、口元を拭われ、前検体を小瓶に落とし、封緘。

 梨央が小瓶のキャップを確認し、受領印を押す。

 私は一歩下がり、全体を見渡す。

 個別の好意も、偶然の親切も入る余地がない。乾杯は行為ではなく手続きだ。


 カウントダウン。

 3、2、1——

 グラスが触れ合い、音が重なり、泡が立つ。

 私は唇を濡らすだけで、視線を左へ滑らせた。

 ワゴンの影で、別の手が“見せグラス”に触れ、封緘の銀を見て、離れる。

 未遂の矢印が、また一本、時間の上に載った。


 拍手。

 司会の短い挨拶が終わると、千堂が舞台袖に現れ、私に紙を渡す。

 「想定問答:構造の説明」

 私はうなずき、マイクのスイッチを入れる。


「——今夜は“過去の夜の再演”です。でも、違うものがあります。

 紙と記録です。

 “翌朝の腹”という言葉は、生活の指標であって広告ではない。

 数字は大切。でも、母数と継続と記録を、生活の言葉に戻してから数字にしてください。

 私たちは今日、忘れられない仕方で忘れ物をしない仕組みを、ここに置きました」


 スクリーンに、矢印の図が出る。

 「保険の名義の推移」「導線の差し替え履歴」「封緘の採番」「事故報告の連鎖」。

 人名ではなく、構造。

 会場が少しだけ静かになり、誰かの喉が鳴る。

 私はそこでマイクを切った。告発ではない。手口を見える場所へ戻しただけだ。


     ◇


 ホールの空気が落ち着くと同時に、湯気が一度だけ大きく立った。

 照明が落ちかけ、すぐに非常灯へ切り替わる。

 バックアップ電源のランプが緑に点り、赤い点は消えない。

 誰かが電源盤に触れた。——その「触れた」という事実だけが、時刻と位置で残る。


 私は風下から半歩外れ、裏の通路へ回った。

 そこに、玲奈がいた。

 笑顔はいつもの形だが、頬の筋肉がわずかに遅れてついてくる。

 彼女は私の前を塞ぎ、囁く。


「りお。全部あなたが奪った」


 私は頷いた。

 否定でも挑発でもなく、ただ受領するみたいに。


「私は奪っていない。戻しただけ。——構造を、人の場所へ」


「構造、構造。

 人は短い嘘で救われる夜もある」


「翌朝に怒られるなら、それは救いじゃない」


 玲奈の睫毛が静かに震え、すぐに止まる。

 彼女の指が、手すりで二度はじいた。

 踊り場の影が動き、そして止まる。

 私の胸ポケットには、許諾番号の書かれたカード。

 ここで起きることは、湯気でも、骨に触れる。


「——乾杯は、上でやろう」


「保全の後で」


 彼女は薄く笑い、通路の奥へ消えた。


     ◇


 ホールに戻ると、響がステージ脇で電話を終えたところだった。

 袖口を整える。——決断前。

 私を見ると、彼は近寄り、低い声で言う。


「黒瀬さん。……俺は、ただ生き延びたかった」


 言葉は思ったより軽く、しかし中身は重い。

 私は首を横に振らない。ただ、流れの上に置く。


「法と紙に話して。翌朝に残る言葉で」


 彼は視線を落とし、舞台裏の出口に目をやった。

 そこには、会場スタッフと契約担当が立っている。

 出演義務の条項に付された見出し「安全確保中の離脱不可」。

 彼は小さく息を吐き、出られないことを理解した顔で、扉から目を離した。


「……俺は、料理しかできない」


「料理には罪はない。——場に罪が混ざる」


 沈黙。

 遠くでカトラリーが触れ合う音。

 彼はもう一度袖口を整え、それから、言った。


「黒瀬さん。俺は誰の“彼”でもない」


 背中のほうから、足音。

 玲奈が通路の影に立っている。

 笑っている。膜は薄い。

 彼女は軽く顎を上げ、響に視線を投げる。合図は、今日は一度だけ。

 彼は動かない。

 ——短い嘘の力が、弱くなっている。


     ◇


 終盤。

 私は司会に合図し、スピーチを一本挟んでもらった。

 **“翌朝の腹”と“紙と記録”**の短い説明。

 名前は言わない。矢印だけを映す。

 千堂が横で腕を組み、梨央が封筒のフラップを撫でる。相原は客の気配を読み、湯気にだけ前へ出る。


 拍手がひと波立ち、夜は収束へ向かう。

 出口の脇で、私は会場責任者と事故報告書の欄を埋め、時刻印と担当名を並べる。

 紙はバインダーに収まり、背表紙が列に加わる。

 “再演パーティー—記録”。


 そのとき、裏のドアが音を立て、響が一人で通路へ滑り込んだ。

 私は追わない。追うのは人ではなく、流れだ。

 だが、ホールの音が一瞬だけ薄くなり、湯気が細く立つ。

 私は扉に手をかけ、ゆっくり押した。


 細い通路。非常灯の緑が床に帯を落とす。

 そこで、響が振り向いた。

 目は静かで、声は低く、そして正直だった。


「——俺は、ただ生き延びたかった」


 言葉は、夜の真ん中に置かれた小石みたいに、動かず、残った。

 私はその小石を紙の上に写し取るように、一度だけうなずいた。


「なら、翌朝に残る形で、言って」


 彼は黙って頷き、袖口に触れた。

 扉の向こうで、赤い点が消えずに瞬いている。

 私は通路の先に視線を送る。

 そこには玲奈の影。

 笑顔。膜。

 次の夜の合図が、静かに、まだ鳴らない。


(つづく)

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