第9話 身代わりの夜
午前四時。
外はまだ夜の名残を抱えていて、街路樹の葉が風に擦れ合う音だけが、薄く部屋を横切っていく。
私は机の上の紙を入れ替え、昨夜までの「身代わり運用計画」に赤い線で印を入れた。
•席=影(見せ席は客前/実体は後方の立ち位置)
•飲料=影(見せグラスは封緘/実体は自注の水)
•動線=影(スタッフ導線に紛れる)
•連絡=影(個人ではなく媒体アドレスで時刻印)
•記録=骨(掲示・許諾・複写・保全)
隅に小さく書き添える。湯気=危険/骨=安全。
電気ケトルが小さく震え、湯気が直線を解いて天井でほどける。私はその消えていく白を目で追い、ペン先を止めた。
“影”には封を、骨には印を。
スマホが机を震わせた。差出人不明、本文は一行。
導線を入れ替えたら、風下に立て。——R
風下。
私は深く頷いて、鞄の中身を再点検する。封緘シール、受領印、許諾掲示のカード、事故報告書の雛型。紙とペンと、私。
◇
昼過ぎ、ガラス張りのギャラリーは新しい花の匂いがした。
スポンサーが用意した、招待制の小さな夜——“お礼の夜”。
奥に仮設キッチン、手前に木の長テーブルが一本。壁には白い掲示。
本イベントは品質向上のため録音・録画を行います。
会場内での発言・行動は記録に残る可能性があります。
紙の角を押さえるピンが二つ、規則正しく光る。
会場責任者に許諾フォームの束を手渡し、受付と角の二箇所にも掲示を足した。
千堂が入ってきて、掲示を一瞥し、短く言う。
「骨を見せろ。湯気は自滅する」
「赤点、増やせますか?」
「もう一本立てた。見えるところに置く」
ホールの隅、カメラの赤い点が控えめに瞬く。
相原は一足早く来ていて、テーブルのガタつきを紙ナプキン一枚で収め、固定具で守った手首の動きを最小限に保ちながらフロアの隙を埋めていた。
「君の立ち位置は?」と相原。
「風下。スタッフ導線に紛れます」
「湯気が来たら、俺が前に出る」
彼の声は落ち着いていて、火加減を確かめる時の低い音に似ていた。
白いワンピースの女性が小走りで近づく。佐伯梨央。
胸に小さな封筒を抱え、息を整えた笑顔で頭を下げる。
「検体の受領書——『受領』『保全』の二通。印をください」
私はペンで受領印を押し、控えを受け取る。
紙が重さを得る音がした。梨央は封筒をバインダーに入れ、指で縁を一周撫でる。
「骨が一本ずつ増えるの、気持ちいいね」
「湯気ばかり吸っていた頃の私に見せたいです」
梨央は微笑み、邪魔にならない位置へ退いた。科学の人は、自分が空気になる技術を知っている。
◇
開場十分前。
玲奈が現れた。黒のジャケット、繊細なピアス。笑顔は完璧で、目は膜を一枚置いたように曇りなく強い。
彼女はバッグから誓約書の束を取り出し、机へ広げた。
私の雛型どおり——加入者:会場側/個人名は列挙しない。保険の担当、連絡先、免責の条件。
私は視線だけで確認し、頷く。
「りお。乾杯は最後に、屋上で」
「風下でね」
「好きな言葉が増えたね」
「骨、印、風」
玲奈の筆圧は一定。字間も間違いなく整っている。準備が良すぎる夜だ、と胸の内側で鈴が一度鳴る。
◇
客が入り、空気の温度が半度だけ上がる。
響は仮設キッチンの火口に向かい、一度だけ袖口を整えた。
視線の動きは澄んでいて、鍋の中の音と同じリズムで呼吸している。
私は風下——スタッフ導線の合流点に立ち、同じ色のトレーを持った。
表向きの私の席には封緘シールを巻いた“見せグラス”。実体は、自分で注いだ水だけ。
前菜が出る。
山菜の軽い苦みと柑橘の輪郭、泡が柔らかく立ち上る。
最初の湯気は、料理ではなく場から立った。
ワゴンの影で、見知らぬ手が“見せグラス”へ伸びる。封緘の銀が光り、指が止まる。
通路の角で、床が濡れる。すぐにスタッフがモップを入れ、「濡れています」の黄色い看板が立つ。
カメラの赤点が、看板と床の反射と人の足を同じ画角に収める。
私は呼吸を一定に保つ。風下は情報が集まる位置。
千堂から短いメッセージ——「骨」。
私は頷き、事故報告書の雛型を胸ポケットで確認した。
相原が近づき、低く囁く。「台車の角、湯気」
私は半歩身を引き、相原を前に出す。
台車が段差でわずかに跳ね、角が相原の腰に触れ——受け流される。
相原は笑い、卓の位置を直し、スタッフに短く状況を伝える。
騒音はない。ただ事後の一行が紙に増えるだけ。
その一行が、のちの矢印になる。
◇
中盤、メインに差しかかる。
響は一度も迷わない。皿の上には嘘がない。
だが、場には小さな嘘が散らばる。
非常口の緑が床に線を引き、その上をヒールがなぞる。
踊り場の手すりに、合図が二度。
玲奈はそちらを見ない。見ないのに、膜がわずかに波打つ。
私は追わず、流れを差し替える。
スタッフ用ドアから逆向きに入り、補助の手を出すふりで台本の順番を入れ替える。
身代わりが狙われ、実体は安全域に留まる。
その直後、空気が一瞬だけ重くなり、照明が半段落ちて、すぐ戻る。
誰かが構造に触れ、未遂のまま記録だけが残る印。
私は胸の内側で糸を一本張りなおす。骨は増えている。湯気は散っている。
◇
休憩の瞬間、私は影の席へ向かい、“見せグラス”の封緘の上に受領印を押した。
——完了。触れた痕跡ではなく、触れなかった事実を、印で固定する。
背後で千堂が口角を上げる。「骨が一本」
視界の端で、響が子ども連れの客に短く頭を下げ、厨房へ戻る。袖口を整える動きは一度、決断前の癖。
私はその癖を棚に戻す。証拠にはならないが、人となりの語彙になる。
◇
デザート。
皿の上の甘さは控えめで、塩が輪郭を支える。甘塩の逆転。
私は“見せグラス”から半歩離れ、風下の端で立つ。
通気口の近く、箱がひとつ。ミニシャンパン。
ラベルの白が光り、カメラの赤点と斜めに交差する。
屋上の風の匂いが、一瞬だけ鼻腔をかすめた。
最後の拍手。
私は会場責任者のもとに戻り、事故報告書の空欄を埋める。「床の濡れ」「台車の接触」「封緘グラス」。
「記録の許諾番号」「時刻印」「担当者名」。形容詞はいらない。事実だけ。
紙はバインダーに吸い込まれて、背表紙の列に落ち着く場所を得る。
◇
通路の角。
玲奈が待っていた。笑顔は薄い膜を残したまま、完璧。
彼女は顎で上方を示す。「上、来る?」
「風下でなら」
「合わせる」
非常階段は夜風を含んでいて、踊り場の緑の非常灯が足元を薄く撫でる。
屋上のドアを押すと、街の光が低く広がった。
テーブルの上にミニシャンパンと二脚のグラス。
玲奈が一本を手に取り、金具に指をかける。私の右手が、自然に上がった。
「待って」
私はバッグから透明の小袋を取り出す。口にはあらかじめ封緘シール。
表面を布で拭い、小さく角度を変えて光を外し、袋へ入れて封を押す。
そして、受領印を一つ。
夜風が袋を軽く揺らし、印影が小さく震えた。
「紙に残す。受領と保全。——乾杯は、それから」
玲奈は笑った。
完璧な笑み。
でも、頬の端にだけ薄い疲れが残っている。
彼女は欄干に寄りかかり、空を見上げた。
「りお。あなた、未来を知ってる?」
「翌朝なら」
「……ずるい返し」
「あなたの合図は、いつも二回。今夜も」
玲奈の睫毛が一瞬止まり、次の瞬間にはまた柔らかく笑っていた。
私は袋を鞄に収め、屋上の風を胸一杯に入れる。泡立つ音はしない。乾杯は延期だ。紙が先、感情は後。
◇
階段を降りると、千堂と相原が待っていた。
千堂は封を見て頷く。「回収完了。記事は焦るな。構造を並べるときが来る」
相原は私の目を見て、短く問う。
「君の腹は?」
「……笑う予感がします」
「なら、温かいものを食べよう」
彼の声は小さく、厨房の低い火の音みたいだった。
◇
夜更け。
部屋に戻ると、バインダーの背を一つ増やした。
「お礼の夜—記録」。
事故報告書の控えに受領印を押し、封じた検体の番号と時刻を転記する。
未遂という単語が、静かに列を作っていく。未遂が並べば、再現性になる。再現性は、意図の輪郭になる。
スマホが震えた。Rから、一行。
最初の夜を再演しろ。台本は揃った。——R
私は目を閉じ、初夜の明滅を呼び戻す。
開店記念パーティー。
グラス。笑い声。乾杯。
暗転。水の匂い。
——そこへ、今度は紙と骨を持ち込む。
鍋に小さく火を入れ、スープを温める。
口に含むと、薄い苦みが輪郭をくれる。
苦みは敵じゃない。輪郭だ。
スプーンを置き、机の端にメモを残す。
再演のチェックリスト
・契約(加入者=会場側/個人列挙なし)
・記録(掲示/許諾/多重保全)
・導線(台本化/差し替えは紙で履歴)
・飲料(封緘/受領印/検体保全)
・広報(編集方針の再掲/感情で応戦しない)
窓の外、遠くで電車の最後尾が光を残して消える。
机の上の紙たちは静かで、呼吸のいらない生き物みたいにそこにいる。
私は灯りを落とし、枕元に今日のバインダーを置いた。
眠りに落ちる直前、胸の内側で小さな鈴が鳴る。
最初の夜を、こちらの台本で上書きする。
身代わりは役目を果たした。
次は、決戦の舞台だ。
(つづく)
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