秋花語り
遠部右喬
女郎花・男郎花
「
吹き抜ける涼やかな風に、丈高く茂った草叢が揺れる。
「ご覧になって。これは一体何かご存じですか」
少女がふわりと手を開く。その掌で、あえかな光がふるりと震える。
「これが、噂に聞く蛍なのかしら」
青年は小首をかしげる少女の手を覗き込み、
「放しておやり。それは人の子の魂だ。大方、この先の崖ででも命を落としたのだろう」
「人の子……」
ああ、お前はまだ見たことが無かったね……青年の言葉に、少女が己の手の上の輝きに目を向ける。
「綺麗……でも、何だか寂しそう……」
指先でそっと輝きに触れる少女に、
「綺麗なのは今の内だけ、寂しげなのも
青年が前方を指さす先で、辛うじて人型に見える黒い影が、草叢をあてどなくゆらりゆらりと彷徨っている。影は腐臭のする汁を滴らせながら、時折、呻きを漏らす。
「見えるだろう、人の魂のなれの果てが。
少女の瞳に怯えが走り、光を庇うように掌をそっと閉じ合わせる。
「お前の手の上のそれも、じきに、汚らしく穢れを撒き散らすだけのものになる」
青年の言葉に、少女が目を瞠る。
「でも、これはまだ子供なのでしょう? あの影とは随分と大きさも違います。本当にこの子があんな風になってしまうのですか?」
青年の口の端が皮肉気に歪む。喉奥でくくっと笑い、
「信じられぬか? ならばなおのこと、それを放しておやり」
少女は手を開き、光にふうっと柔らかな息を吹きかけた。
ふわり
少女の手から浮かび上がった光が、吸い寄せられるように影に近付いていく。
光に気付いたのか、影の動きが止まる。顔らしき部分に赤い亀裂が走った。亀裂は見る見る広がり、その真っ赤な洞の上下左右に乱杭歯が覗く……口を開けた影は首を伸ばし、
ぱくん
「――あっ」
少女の目の前で、光が影に飲み込まれた。
「兄様、あの子が……」
慌てる少女の肩に手を置いた青年が、
「そのまま見ておいで」
影が一際大きく震えた。汚水を撒き散らし、身体を仰け反らせ、声にならない悲鳴を上げる。息を呑む少女の耳元で青年が囁く。
「お前が目覚めるずっと前の事だ。ここに、腹を減らして死んだ人間が打ち棄てられた」
影がざあっと地に崩れた。
「恨みすら抱けない程にすり減った魂は、肉の穢れと空虚を撒き散らし始めた」
汚泥だまりの中心で、光が瞬く。少女の薄い唇から安堵の息が零れた。光を拾おうと足を踏み出しかけた少女を、青年が抱き寄せる。
「そら、始まったぞ」
飛び散っていた汚泥が、吸い込まれるように光に集まり出した。影が光に纏わりつき、光が影を飲み込む。光は見る見る輝きを失い、黒く、大きく膨れていく――先程崩れ落ちた影のように。
やがてそれは立ち上がり、震えながら穢れを撒き散らし始めた。少女の瞳に涙が浮かぶ。
「何を嘆く?」
「だって、あまりにも哀れではありませんか。いじらしかったあの子が、あのような姿になってしまうなんて……」
腕の中で涙を零す少女に、青年が笑う。
「お前も見ていただろう。あれは自ら影に向かって行ったぞ。何故、影をいじらしいとは思えぬ?」
「でも……」
「光も影も互いを求めていた。そういう
きっぱりとした青年の言葉に、少女が項垂れる。
彼等の前を影が
「何をする心算だ」
「きっとまだ、間に合います」
「お止め」
彼女を捉えようと伸ばされた青年の手を逃れ、少女が駆け出す。影の前にまわり込むと、
「戻っておいで」
汚濁まみれの姿に、嫋やかな手をそっと伸ばす。影の頬に真っ白な指先が触れた瞬間。
「ああっ」
苦し気な声を上げた少女が闇色に染まり、その姿が霧散する。同時に、
ざあっ
青年の隣で、女郎花の群れが一斉に散った。
纏わりついた露を払うように、影が大きく身を揺らす。僅かに薄まったかに見えていた闇色は一層の濃さを増し、
ゆらゆら
ゆらゆら
何事も無かったかのように、影は再び
「また、こうなるのか」
青年が嘆息する。自ら禁に触れ、僅かな季節を謳歌することなく散ってしまう。一体、何度繰り返せば愚かな妹は気付くのだろう。
「私にだって、寂しさはあるのだぞ」
草叢にぽっかりと開いた空隙に、青年の呟きが舞う。その傍らを、薄黄色の小さな花が通り過ぎた。
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