秋花語り

遠部右喬

女郎花・男郎花

兄様あにさま、兄様」


 吹き抜ける涼やかな風に、丈高く茂った草叢が揺れる。女郎花おみなえしのひと群れに立つ儚げな少女が、小花を散らした薄黄色の唐衣からぎぬをふわりと翻す。少女は傍の男郎花おとこえしの群れに立つ、白地に彼女と揃いの柄が施された直衣のうし姿の青年に、柔らかく合掌した手を差し出した。


「ご覧になって。これは一体何かご存じですか」


 少女がふわりと手を開く。その掌で、あえかな光がふるりと震える。


「これが、噂に聞く蛍なのかしら」


 青年は小首をかしげる少女の手を覗き込み、


「放しておやり。それは人の子の魂だ。大方、この先の崖ででも命を落としたのだろう」

「人の子……」


 ああ、まだ見たことが無かったね……青年の言葉に、少女が己の手の上の輝きに目を向ける。


「綺麗……でも、何だか寂しそう……」


 指先でそっと輝きに触れる少女に、


「綺麗なのは今の内だけ、寂しげなのも一時ひとときだけのことぞ」


 青年が前方を指さす先で、辛うじて人型に見える黒い影が、草叢をあてどなくゆらりゆらりと彷徨っている。影は腐臭のする汁を滴らせながら、時折、呻きを漏らす。


「見えるだろう、人の魂のなれの果てが。おぞましいことに、あれは我等と似たことわりにある。陽光に焼かれてしまう、夏の盛りには現れることも出来ない斜陽の眷属よ」


 少女の瞳に怯えが走り、光を庇うように掌をそっと閉じ合わせる。


「お前の手の上のそれも、じきに、汚らしく穢れを撒き散らすだけのものになる」


 青年の言葉に、少女が目を瞠る。


「でも、これはまだ子供なのでしょう? あの影とは随分と大きさも違います。本当にこの子があんな風になってしまうのですか?」


 青年の口の端が皮肉気に歪む。喉奥でくくっと笑い、


「信じられぬか? ならばなおのこと、それを放しておやり」


 少女は手を開き、光にふうっと柔らかな息を吹きかけた。


 ふわり


 少女の手から浮かび上がった光が、吸い寄せられるように影に近付いていく。

 光に気付いたのか、影の動きが止まる。顔らしき部分に赤い亀裂が走った。亀裂は見る見る広がり、その真っ赤な洞の上下左右に乱杭歯が覗く……口を開けた影は首を伸ばし、


 ぱくん


「――あっ」


 少女の目の前で、光が影に飲み込まれた。


「兄様、あの子が……」


 慌てる少女の肩に手を置いた青年が、


「そのまま見ておいで」


 影が一際大きく震えた。汚水を撒き散らし、身体を仰け反らせ、声にならない悲鳴を上げる。息を呑む少女の耳元で青年が囁く。


「お前が目覚めるずっと前の事だ。ここに、腹を減らして死んだ人間が打ち棄てられた」


 影がざあっと地に崩れた。


「恨みすら抱けない程にすり減った魂は、肉の穢れと空虚を撒き散らし始めた」


 汚泥だまりの中心で、光が瞬く。少女の薄い唇から安堵の息が零れた。光を拾おうと足を踏み出しかけた少女を、青年が抱き寄せる。


「そら、始まったぞ」


 飛び散っていた汚泥が、吸い込まれるように光に集まり出した。影が光に纏わりつき、光が影を飲み込む。光は見る見る輝きを失い、黒く、大きく膨れていく――先程崩れ落ちた影のように。

 やがてそれは立ち上がり、震えながら穢れを撒き散らし始めた。少女の瞳に涙が浮かぶ。


「何を嘆く?」

「だって、あまりにも哀れではありませんか。いじらしかったあの子が、あのような姿になってしまうなんて……」


 腕の中で涙を零す少女に、青年が笑う。


「お前も見ていただろう。あれは自ら影に向かって行ったぞ。何故、影をいじらしいとは思えぬ?」

「でも……」

「光も影も互いを求めていた。そういうたちなのだ。どうすることも出来ん」


 きっぱりとした青年の言葉に、少女が項垂れる。

 彼等の前を影がよぎる。身が揺れる度に零れる嘆きに、少女が顔を上げ、青年の腕を抜け出す。


「何をする心算だ」

「きっとまだ、間に合います」

「お止め」


 彼女を捉えようと伸ばされた青年の手を逃れ、少女が駆け出す。影の前にまわり込むと、


「戻っておいで」


 汚濁まみれの姿に、嫋やかな手をそっと伸ばす。影の頬に真っ白な指先が触れた瞬間。


「ああっ」


 苦し気な声を上げた少女が闇色に染まり、その姿が霧散する。同時に、


 ざあっ


 青年の隣で、女郎花の群れが一斉に散った。

 纏わりついた露を払うように、影が大きく身を揺らす。僅かに薄まったかに見えていた闇色は一層の濃さを増し、


 ゆらゆら

 ゆらゆら


 何事も無かったかのように、影は再びうろを撒き散らし始めた。


「また、こうなるのか」


 青年が嘆息する。自ら禁に触れ、僅かな季節を謳歌することなく散ってしまう。一体、何度繰り返せば愚かな妹は気付くのだろう。


「私にだって、寂しさはあるのだぞ」


 草叢にぽっかりと開いた空隙に、青年の呟きが舞う。その傍らを、薄黄色の小さな花が通り過ぎた。

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