玉浮き:掌編小説集
辻井豊
玉浮き
初夏。
晴れた日の午後。
ここは大きな湖に注ぐ小さな川の河口付近。
土手の上の公園から、コンクリートの階段を降りた川べりで、わたしは一人、釣り糸を垂れている。
目の前の川面には、上半分を赤色に、下半分を黄色に塗られた小さな玉浮きが浮かんでいる。
それが川下に向かってゆっくりと流れてゆく。
風が吹き抜けた。さざ波が起きる。水面に映る綿雲と玉浮きが揺れる。
こだまのようにチャイムが聞こえてきた。近くにある公立高校のチャイムだ。
ちらりと腕時計に目をやる。四時になったところだ。そろそろ切り上げないといけない。買い物に行って夕飯の支度する時刻だ。
竿を立てて仕掛けを引き上げる。そしてその竿を、仕掛けとともに地面に寝かせた時だった。
「お姉さん! 釣れますか?」
声の聞えた方に振り向く。
土手の上に高校生らしい少女の姿があった。鞄を下げてこちらを見下ろしている。
わたしは深くかぶっていた麦わら帽子を脱ぐ。そして顔の前で手を振って見せた。
「そっちに行っていいですか?」
少女が訊いてきた。断る理由は無い。
「どうぞ」
土手の階段を駆け降りる少女。ブレザーの制服を腕まくりしている。きっとあのチャイムの高校の生徒だ。階段を降り切り、わたしの正面に立つ。
「いつもここで釣りしてますよね?」
息を弾ませながら訊いてくる。
「してますよ」
「やっぱり! 学校帰りに見てました! あそこから」
少女は後ろを振り向いて少し上流にある橋を指差す。
そんな屈託のない様子に、わたしは少々むかついた。腰に手を当てて言う。
「知らない人には近づかないようにって先生から言われてない?」
「言われてますけど?」
少女が首をかしげる。何か問題ですか? とでも言いたげだ。
「わたしが男だったらどうするの?」
「声かけてないです」
「女だとわかってたから声をかけた?」
「もちろん!」
わたしはいつも男物の白いシャツにだぼっとしたジーンズ姿だ。髪は長いが釣りをするときはまとめてアップにしている。そしてなにより麦わら帽子を深くかぶっている。よくあんな橋の上から、わたしが女だとわかったものだ。
それをそのまま聞いてみると、少女はすぐに答えた。
「だって綺麗な人だから」
真っ直ぐな少女の視線に耐えられなくなって、わたしはそっぽを向く。
すると少女が訊いてきた。
「今日はもう終わりですか?」
「これから片付けるとこ」
「明日も来ていいですか?」
面倒なことになりそうな予感がした。少女がたたみかけてくる。
「釣りを教えて欲しいんです! できたらでいいですけど……」
最初は勢いよく、しかし語尾は消え入るように少女は言った。
その自信の無さげな口調に誘われて少女に視線を戻し、訊いてみる。
「道具はあるの?」
「ホームセンターで買ってきます。必要なものを教えてください」
わたしは腕を組む。自宅にある釣り道具を思い浮かべる。わざわざ揃えさせるまでもない。
「道具は用意してあげる。あなたは手ぶらでいらっしゃい」
「え? いいんですか?」
「いいよ」
小さなため息とともにわたしは答えた。
「やったあ!」
少女が両手を上げて喜ぶ。その若さが、わたしには眩しい。
「授業が終わったらすぐ来ます。三時半くらい」
「それだと三十分くらいしか教えてあげれないけど、いい?」
「はい!」
「じゃあ、また明日ね。ただし、天気が良かったら。雨なら中止。わかった?」
「はい! わかりました! よろしくお願いします!」
ぺこりとお辞儀をして少女は踵を返す。そして階段を駆け上がる。土手に上がると振り向いて手を振ってきた。
「また明日!」
わたしも手を振り返す。
少女は走り去った。
遠くにある鉄橋を列車が通過する。
わたしは釣り道具を片付け、家路についた。
翌日もいい天気だった。
いつもの場所で釣りをしていると、三時を過ぎたくらいに昨日の少女がやって来た。階段を駆け下りると、わたしの前で膝に手をつき、肩で息をする。
「……お待たせ……しました……」
息を整え、膝から手を離して顔をあげる。
「待ちましたか?」
顔に垂れかかった前髪をかき上げる。
少女は汗だくだった。ここまで走って来たのだろう。わたしは竿を置いて少女に微笑みかけた。
「ううん、待ってないよ。釣りしてたから」
「よかった!」
「準備するね」
わたしがそう言うと、少女は土手の階段に腰かけた。
背中に少女の視線を感じながら、わたしは準備に取り掛かる。
まず、竿袋から二本目の竿を出す。
次に道具箱から仕掛け巻きを出した。その糸止めから釣り糸を外して竿の先端に結びつける。
そして竿をラジオのアンテナのように伸ばしてゆく。くるくると仕掛け巻きが回転する。
竿が伸びきると仕掛けの浮きゴムを移動させ、小さな玉浮きを付ける。
最後に餌を付けた。赤虫だ。小さな赤い虫。それを二匹。
「できたよ」
声をかけると少女が立ち上った。
わたしは竿を差し出す。
「いいんですか?」
「いいよ」
少女が竿を受け取った。左手で持っている。左利きらしい。
「右手で糸を持って。そう、針の少し上くらい」
「この餌はなんですか?」
「赤虫だよ」
「赤虫?」
「ユスリカの幼虫。ようするにボウフラ」
「ボウフラ?」
「知らない?」
「知らない」
「蚊の幼虫のこと」
「へー」
「じゃあわたしが振り込んでみせるからそれを見て真似をして」
少女にそう言うと、わたしは自分の竿を取った。右手に水平に持ち、針の少し上の釣り糸、つまりハリスを左手に持つ。そして正面に向かって少し上にあおるように竿を操作し、同時にハリスを離す。その動きと竿の弾力によって仕掛けが飛んでゆく。静かな着水。竿先を水面に浸し、少し引く。釣り糸が水面下に沈む。そこでわたしは少女を振り返る。
「見てた?」
「はい!」
わたしは竿を立て、仕掛けを引き上げた。
「やってごらん」
後ろに下がる。少女が前に出た。わたしのやったように竿をあおり、仕掛けを振り込む。この娘、勘がいい。
「うまいね」
「えへへ」
少女が照れ笑いを浮かべる。
「そのまま浮きを見て。沈んだり、何かおかしな動きをしたら手首を使って合せる」
わたしは少女の右隣に進み出た。再び仕掛けを振り込む。そしてすぐに竿を持った右手を軽くあおる。
「こんな感じ」
少女の様子をうかがう。少女は一人頷いて、同じ動作をして見せた。わたしは仕掛けを引き上げて説明を続ける。
「浮きが川下に流れて糸が一杯まで伸びたら引きあげて、また川上に振り込む。それの繰り返し。引き上げた時に餌を見てね。無かったら付けてあげるから。あと、白くなったら新しい餌と交換するから」
少女はすぐにコツをつかんだようだ。
わたしと少女は少し離れて竿を並べた。
静かな時間が過ぎていった。
「釣れないですね」
少女が痺れを切らしたかのように言った。
「うん」
玉浮きを見つめたままわたしは頷く。
「いつもこうなんですか?」
「この時間はめったに釣れないから」
「ええ? ならどうして釣りしてるんですか?」
「暇つぶし」
「そうは思えません」
少女は勘がいい。
「釣り道具、彼のなんだ。麦わら帽子と腕時計も」
「そうなんですか? 彼はどうしたんです?」
「死んだ」
風が吹いた。
遠くの鉄橋を渡る列車の音が響く。
「この浮き、風が吹くと見難いですね。小さくて波に隠れる」
「それがいいんだよ。小さいから風の抵抗が少ない。大きいと見やすいけど風の抵抗を受けるから自然に仕掛けを流せない」
わたしは竿を立て、仕掛けを引き上げた。そしてまた振り込む。
「一月前に母が死にました」
唐突に少女が言った。
「脳卒中でした。大嫌いでした。だから死に顔を見ても涙は出なかった」
「わたしの彼は一年前。交通事故だった。彼は運転席で即死。わたしは助手席だったのにかすり傷で済んだ。悲しかった。それなのに、お通夜でも、お葬式でも、涙は一滴も出なかった」
「不思議ですね」
「不思議だね。テレビに映る遠い世界の出来事や、虚構の物語には、簡単に落涙するのにね」
「母はわたしのことを認めませんでした。わたしがなにをやっても、もっとできる、どうしてこうしないのか、そればっかりでした」
「つらいよね」
「つらかったです」
「ほんとは甘えたかった?」
「認めさせたかった……それももうできません……」
わたしは再び竿を立て、仕掛けを引き上げた。振り込み直す。
「この玉浮きはね、彼に使うように言われたの。初心者向きだから。感度は他の浮きに劣るけど、自然に仕掛けを流せるからって。流れに任せて……」
「流れに任せて……ですか……」
「うん」
「いつか……母のことを許せる日が来るんでしょうか……」
「わからない……でもね、いつか許せる日が来たらいいね」
「ありがとう。お姉さんも、自分を許せる日が来ますように」
「ありがとう」
泣かなかった自分。一人助かった自分。そんな自分を許せる日が来るのだろうか?
嗚咽が聞こえてきた。少女が泣いている。
「いつでもここにおいで。天気が良ければ、わたしはここにいるから」
こだまのようにチャイムが聞こえてきた。
わたしは腕時計を見なかった。
ただ流れゆく玉浮きを見つめていた。
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