再生の湖
辻井豊
再生の湖
その湖は巨大な断層湖である。面積、およそ六七〇平方キロ、周囲の長さは二四〇キロを超える。最深部は安曇川河口沖にあり、水深およそ一〇四メートル。幾つもの遺跡を、その水底に眠らせて、湖は、今日も深く、青く、湖国に君臨していた。
琵琶湖総合研究所の助手、水神レイは今、二人乗りの小型潜水艇の船底で腹這いになっている。照明を落としているせいで船内は暗い。湖底を照らすライトの照り返しが、観測窓を覗くレイの、女性と見紛う容貌を浮かび上がらせている。レイは髪を長く伸ばしていた。その長い髪も、今は計器類に絡まるといけないのでまとめてあった。
潜水を開始してからどれくらいが経過したろうか。長時間同じ姿勢でいたせいで身体のあちこちが痛み出している。レイは細い腰をわずかに捩る。上着とジーンズが身体の下に敷いた座布団と擦れ、衣擦れの音が船内に響く。すると頭上から心配そうな声がする。
「大丈夫か?」
潜水艇を操作している鏡浩一だ。レイは少しだけ視線を泳がせて答える。
「大丈夫です」
今のレイの位置からは身体を起こすか仰向けにでもならないと鏡の姿は見えない。操縦席はレイの頭上にあって、潜水艦であればセイル(司令塔)にあたる部分に操縦者用の観測窓がある。鏡は作業着に身を包んで操縦席に座り、今もモニターを睨んでいるはずだ。その鏡の声が、また頭上から降ってくる。
「もうすぐ最後のスキャンが終わる。そしたら浮上だ」
「了解」
船内をモーター音だけが満たす。ここは琵琶湖の最深部、安曇川河口沖。レイと鏡を乗せた潜水艇は、船底に増設された非接触型地中レーダーを使って、湖底のさらに下を調べていた。レーダーは総合機械メーカーである帝都重工が開発したものだ。そしてこれは内閣情報調査室から正式に依頼された調査だった。
「気に入らないな」
「またですか?」
何度目かの鏡の愚痴に、レイは観測窓から視線を動かさずに応じた。
「だってそうだろ? あの男はこの船に爆薬を仕掛けて、それに俺たちを乗せようとしたんだぞ?」
鏡は一年前の量子コンピュータ騒動のことを言っているのだ。内閣情報調査室から来たと言ったその男、田口は、レイと鏡を拘束し、爆薬を仕掛けた潜水艇に乗せようとした。田口は、レイとレイの上司である藤堂教授との会話を盗聴していた。それでレイが量子コンピュータとコンタクトできることに気づいた。そう、あの日、初夏の琵琶湖を舞台にして、湖底に存在した量子コンピュータの争奪戦が繰り広げられたのだ。そして量子コンピュータは去った。銀灰色の巨大な円錐に姿を変えて。レイは観測窓の外を見つめながら言う。
「田口さんはこの仕事の依頼者です。今回の仕事は県庁を通した正式なものです。向こうもこの間のような無茶はできません」
そうなのだ。琵琶湖は滋賀県の管轄だった。そこで何かをするためには、必ず県庁を通さなければならない。
「そんなことはわかっているさ」
不満そうに鏡が言った。そして訊き返してくる。
「お前は納得してるのか?」
「……納得は……」
レイは言葉を濁す。そして認める。
「……してませんけど……」
「だろう?」
「何がだろう? ですか!」
鏡の言い様にカチンときたレイは思わず声を荒らげた。
「おお、怖い、怖い」
おどけた鏡の口ぶりにレイはさらに苛立つ。
「ちゃんと前を向いて操縦して下さい! じゃないとまた別の世界に転移してしまいますよ!」
レイは二年前のことを引き合いに出した。そう、今から二年前、レイと鏡は今と同じように潜水艇に乗っていた。そして湖底で乱流に遭遇し、緊急浮上した。浮上したそこは、別の世界の琵琶湖だった。その別の世界で、二人は一年を過ごし、帰ってきた。帰ってきたこの世界では、数分が過ぎただけだった。鏡が言う。
「お前と二人ならかまわない」
「もう!」
その時、ピッと電子音が鳴った。
「スキャンが終わった。浮上する」
「了解っ!」
レイはきつい声で答えた。ごぼごぼと音が鳴る。エレベータの上昇する感覚。鏡が深度を読み上げてゆく。静かな時間が過ぎる。観測窓の外が明るくなった。上昇するエレベータの停止する感覚。
「深度〇、浮上した」
鏡の声。船体がゆらゆらと揺れている。鏡が無線で交信を始める。
「こちら潜水艇うらしま。スキャン終了。浮上した。回収を頼む。こちら潜水艇うらしま……」
言い終わらないうちに慌ただしい声で応答がある。
「おい、鏡君! ハッチを開けて上を見ろ!」
レイの上司、藤堂教授だ。鏡が問い返す。
「何ですか?」
「空だ! 空!」
まくしたてる声。そして頭上のハンドルを回す音。続いてハッチの開く音。レイの頭に水滴が落ちてくる。少しして鏡の声。
「これは……」
鏡が慌てたようにハッチから出てゆく。そしてセイルの後ろのデッキからハッチの中を覗き込む。
「上がれ!」
レイには事態が把握できない。それでも鏡の指示に従って梯子を上る。ハッチから顔を出す。作業母船の台船が目の前に見えた。その上ではスタッフたちがみな空を仰いでいる。後ろから鏡が言う。
「上だ」
レイは空を見上げる。自分たちのはるか上空を。
そこにそれは浮かんでいた。一年前、琵琶湖から去った、銀灰色の巨大な円錐が。
*
レイと鏡は揺れる潜水艇から空を仰いでいた。レイはセイルのハッチから顔を出して。鏡はセイルの後ろのデッキで。すると一隻の漁船が近づいてきた。その船から二人のダイバーが飛び込む。ダイバーたちは潜水艇まで泳いでくると船首と船尾にロープを結びつけた。そして漁船に戻って行く。漁船が潜水艇に横付けた。船上からロープが引かれ、潜水艇が漁船の脇に固定される。手すりのついた渡り板が潜水艇と漁船との間に渡された。漁船には恰幅の良い紳士が乗っている。レイの上司、藤堂教授だ。鏡が話しかける。
「教授! あれは」と上空の巨大な円錐を指差す「いつからいるんですか?」
「ついさっきだよ! 君たちが浮上してくる直前だ」
答えた藤堂は鏡に手を差し伸べる。
「レイをデッキに上げます。こいつを先にお願いします」
「わかった」
二人のやりとりを眺めていたレイの前に鏡の手が差し出される。
「上がれ」
「ありがとう」
鏡の手につかまり、レイはハッチから出る。入れ替わりに鏡が船内に戻って行く。そしてすぐに出てきた。ハッチを閉める。レイは鏡に促され渡り板を渡る。藤堂がレイに向けて手を差し出してきた。レイはそれにつかまる。
「よっこらせ」
藤堂がレイの手を引き寄せる。レイはその手に支えられて漁船に乗り移る。続いて鏡。二人が漁船に乗り移った時、すぐそばの台船でどよめきが起きた。レイは台船を見る。そして台船上のみなの視線を追って空を見た。降りて来る! 銀灰色の巨大な円錐が! 円錐はどんどん高度を下げてくる。そして見る間に湖面に達する。台船の近くに着水した。大波が起きる。そのまま水面下に沈んでゆく。台船も漁船も、そして潜水艇も大きく揺れる。レイは転びそうになるが鏡に支えられる。あっと言う間の出来事だった。円錐の姿は見えなくなった。
レイと鏡、それに藤堂は漁船から作業母船の台船に乗り移った。そこには内閣情報調査室の田口が待っていた。黒いスーツに身を固めた田口が鏡に言う。
「もう一度潜ってもらいます」
「無理だ」
鏡はにべもなく断った。田口が食い下がる。
「なぜ?」
「バッテリーもエアも消耗している。補給しないと潜れない」
「すぐに補給させます」
「そんなことはできない。打ち合わせで説明した通り、半日かかる」
鏡は冷静だ。田口は苦虫を噛潰した様な顔をしている。すると、もう一人のスーツに身を固めた男がやってきた。
「量子コンピュータが消えました」
「消えた?」
田口が驚く。量子コンピュータとはあの円錐を指しているのだろう。彼らはもう断定しているのだ。一年前、琵琶湖から去った量子コンピュータが戻って来たと。田口が男に訊く。
「どういうことだ?」
「ソナーに反応がありません。モニターには湖底しか映っていません」
「水中カメラを降ろせ。すぐに確認するんだ」
「わかりました」
男は走り去った。田口が今度はレイに言う。
「水神さん」
「なんですか?」
レイには悪い予感がした。田口が続ける。
「あなたには我々が用意した宿舎に泊まっていただきます。当分の間」
ほらきたとレイは思った。田口はわたしを軟禁するつもりだ。量子コンピュータとコンタクトできるからだ。独占するつもりなのだ。さらに田口は続ける。
「護衛を配置します。あなたの安全は保証します」
「でも自由を保証するつもりはないんだろう?」
鏡が割り込んだ。藤堂もそれに続く。
「いかんね。内閣情報調査室は確かに今度の仕事の依頼主だが、スタッフの自由を制限することはできないはずですよ」
「じゃあどうしろと?」
田口が苛立つ。
「護衛をつけるだけでいいのではないかな?」
藤堂が言った。田口は考えている。
「仕方ない。そうします」
渋々折れた。そしてレイに言う。
「仕事の行き帰りにはこちらの車を使ってください。あなたの自宅には警官を配置します。よろしいですね?」
どうやらそれ以上の選択肢はないようだ。レイは了解する。
「わかりました」
レイの返事を聞いた田口が今度は鏡に言う。
「夜には潜水はできますか?」
「無理だよ。明日にしよう」
「そうですか……仕方ないですね……」
田口は諦めたようだ。三人から離れてゆく。スーツの内ポケットから携帯電話を取り出し、どこかと話し始めた。レイは鏡と藤堂に礼を言う。
「ありがとうございます」
「気にするな」
「礼には及ばんよ」
潜水艇はクレーンによって台船に回収された。スタッフが点検整備と補給に取り掛かる。レイは台船に設置されているテントの下からその様子を眺めていた。隣の椅子には藤堂が座っている。鏡は他のスタッフと一緒に潜水艇に取り付いていた。しばらくすると複数のヘリの音が近づいてきた。たぶんマスメディアだ。この分だと港に戻ってもメディアが待っているに違いない。レイは憂鬱な気分になる。一年前、琵琶湖から量子コンピュータが去った後のような、いや、それ以上の騒動が、これから始まるのだ。
*
安曇川河口沖には水上警察隊の警備艇が配置された。レイたち作業スタッフは台船に当直を残し、それ以外は漁船に分乗して南船木港に引き上げた。港には数台の警察車両が停まっていた。大勢の警官が非常線を張っていて、メディアはその外に追いやられていた。どうやら田口の手配らしかった。今回ばかりはありがたい。レイはその田口の手配した車に乗り、一時間と少しで京都の自宅に戻った。自宅マンションの前にもすでに警官が立っていた。車を降りたレイは警官に軽く会釈をしてエントランスをくぐる。
猫がいた。その猫は黒猫だった。レイは感じる。この猫は普通の猫じゃない。きっとあの猫だ。VRの世界からやってきた。猫が、言った。
……迎えに来た……
「誰を?」
……お前を……
「なぜ?」
……我々にはお前が必要だ……
次に気づいた時、全てが白い部屋の中だった。メタルフレームの眼鏡をかけた男が立っている。岸井だった。岸井祐司。彼は消えたはずだった。VRだった彼は。岸井が、言った。
「レイ、君が必要だ」
「なぜ?」
「子孫を残すために」
「子孫?」
「そうだ」
レイは自宅マンションのエントランスに立っていた。どれくらいそうしていたのだろう。時間の感覚が麻痺している。レイは一歩を踏み出す。自分の動きが、コマ送りの映像のようにぎくしゃくとして感じられる。一歩、一歩、とても長い時間をかけて、レイは自分の部屋の前にたどり着いた。そこにも警官がいた。その姿を見た途端、時間の感覚が元に戻った。レイの全身からどっと汗が噴き出る。急にこみあげてきた。レイは口元を押さえる。
「どうされましたか?」
警官が心配そうに訊いてきた。
「……いえ、なんでもありません……」
レイはできるだけ自然に聞こえるように努力して答えた。
「そうですか?」
「……大丈夫です……」
レイはバッグからキーホルダーを取り出す。玄関の鍵を選び、扉の鍵穴に差し込む。回す。開錠の音がやけに大きく響く。ドアノブを回す。扉を引く。開いた隙間に押し込むように身体を入れる。灯りのスイッチを探す。押す。玄関が明るくなる。後ろ手にドアを閉める。鍵を掛ける。靴を脱ぐ。ふらふらとリビングに向かう。ソファに倒れ込む。レイの脳裡に、遠い日の医師の言葉がこだまする。
「あなたは XX male です。女性として生まれるはずだったのです」
そこで意識を失った。
それは深い水底から浮かび上がるような目覚めだった。目を開けても意識がはっきりしない。重い疲れが、全身にこびりついている。レイは壁の時計を見た。午前零時。ソファから身を起こす。そう、わたしは XX male だ。そう診断された。 XX male とは、性染色体は女性型の XX だが身体は男性型を示す症例のことだ。その診断を受けたのはいつだったか。なぜそんな検査を受けたのか。レイにはどうしても思い出せない。ただ、診断を下された時の記憶だけが鮮明だった。何かをきっかけにして不意に思い出すのだ。レイは額に手を当て、息を吐きだす。
「ふう……」
ふらふらと立ち上がる。テーブルの上から照明のリモコンを取り上げ、ボタンを押す。リビングが淡い灯りに照らし出される。ジャケットをハンガーにかけ、バッグからハンカチを取り出す。そして洗面所に向かい、洗濯カゴにハンカチを放り込む。靴下も脱いでそうする。浴室で足を洗い、それから洗面台で顔を洗う。今日は入浴する気にならない。食欲もない。ただ、眠りたかった。リビングに戻る。そこでバッグの中から振動音が聞こえるのに気づいた。レイはバッグから携帯電話を取り出す。表示を確認する。鏡浩一。慌てて通話ボタンを押す。電話の向こうから鏡の声。
「大丈夫か?」
「大丈夫です……どうしたんですか? こんな時間に?」
「何度か電話したんだ。ずっと留守電だった」
気づかなかった。レイは申し訳ない気持ちになる。
「すいません」
「いや、いいんだ。ほんとに大丈夫か?」
「はい……」
「そうか。実は聞きたいことがあって、それで電話したんだ。それにお前の声も聞きたかったし」
レイは気持ちが落ち着いてゆくのを感じる。
「わたしの声が聞きたいって、ついでなんですね」
そう言って少し笑う。
「そんなことはないぞ」
鏡も笑う。温かい時間が流れる。
「じゃあ用件を言う」
「はい、どうぞ」
「明日、また潜ることになる」
「そうですね」
「また転移するかもしれない。別の世界に」
「鏡さんはかまわないと言いました」
「言った。お前はどうだ?」
「かまいません」
「そうか……それだけ聞きたかったんだ」
「そうですか……ありがとう……」
「体調はどうなんだ?」
「大丈夫です」
少し間があった。鏡は考えているようだ。レイは促す。
「心配ですか?」
「心配だ」
「大丈夫ですよ」
「無理するな。明日、少しでも体調に不安があったら潜水を中止する」
「わたしは潜りたい」
「もう休め」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
電話は切れた。レイは服を脱ぎ、パジャマに着替えてベッドにもぐり込んだ。
*
レイは今、潜水艇の船底で腹這いになっている。服装はいつもの白いシャツにブルージーンズ。そこに借り物の作業着の上着を羽織っている。鏡もまた、いつもと同じ作業着の上下に身を固めてレイの頭上、操縦席に座っている。潜水艇は今、クレーンに吊るされ、台船から湖面に降ろされようとしていた。ここは琵琶湖、安曇川河口沖。昨日、銀灰色の巨大な円錐が上空に現れ、そして水中に姿を消した場所だ。レイと鏡は内閣情報調査室の田口に依頼され、湖底を確認するために潜水しようとしていた。レイの上司である藤堂教授は反対した。危険すぎると。だがレイと鏡は田口の依頼を受けた。レイは確かめたかった。そこで何が起きるのかを。きっと鏡も同じ気持ちなのだろう。
「大丈夫か?」
頭上の操縦席から鏡が訊いた。
「大丈夫です」
レイは観測窓の外を眺めながら答えた。そのとき、窓の先を黒い影がよぎった。猫だ。それが台船の端にいる。だがその姿はすぐに見えなくなる。船体が位置を変えたからだ。
「あれ?」
「どうした?」
「あ……いえ……なんでもありません」
レイは言葉を濁した。こういう場面でレイの前に猫が現れたとき、必ず何かが起きる。その確信がレイにはあった。だが、鏡を不安にさせたくはない。それを鏡は言い当てる。
「猫か? 心配するな」
「……はい……」
続く鏡の冷静な声。
「着水する」
「はい」
観測窓の外が水中になった。ダイバーが泳ぎ寄ってくる。ロープを外してゆく音が船体に響く。鏡がハッチを開けた。セイルから身を乗り出し、ダイバーとやり取りをしている。
「離れてくれ」
鏡の大きな声。そしてハッチを閉める音。鏡が無線機に言う
「潜水準備完了」
そしてレイに言う。
「潜るぞ」
「はい」
「メインタンク注水」
ごぼごぼと音が鳴る。鏡が深度を読み上げてゆく。暗い水中がライトに照らし出される。まだ何も見えない。
「深度九〇メートル、まもなく湖底だ」
「はい」
「バラスト投下、懸吊する」
下降するエレベータの停止する感覚。
「見えるか?」
レイは窓の外に目を凝らす。見えた。湖底だ。まだ下にある。
「見えました。まだ下です」
「この深度でいく。少し動き回ってみる」
「はい」
モーター音が船内に響く。窓の外を、湖底がゆっくりと行き過ぎて行く。
「何か見えるか?」
「いえ、何も……」
レイは緊張していた。そう、何かが起きるならこのタイミングだろう。そう思ったときだった。船体が微かに揺れた。そして突然、大波に呑まれた様に揺れ始める。
「つかまれ! 乱流だ!」
レイは観測窓の横に付けられた取っ手につかまる。船体が激しく揺れ、軋む。
「緊急浮上する!」
ゴトっと船体から何かの外れる音がした。そしてガクンと揺れる。メインバラストを投下したのだ。急速に浮上してゆく。あっと言う間に観測窓の外が明るくなった。
「深度〇」
激しい揺れはおさまった。それでも、ゆらゆらと揺れている。
「やっぱりこうなったな」鏡の声「ハッチを開ける」
ハンドルを回す音。上部から水滴が落ちてきた。レイは身体を起こしたい衝動に駆られる。そこで違和感に気づく。何か変だ。身体の感覚、皮膚感覚が敏感になっている。それだけじゃない……。
「鏡さん……」
そこからは言葉にならない。
「どうした?」
「わたし……」
レイは身体を起こす。操縦席の鏡を仰ぎ見る。視線が合う。鏡は次の言葉を待っているようだ。レイは言葉を絞り出そうとする。
「わたし……」
言葉が出ない。
「少し待ってろ」
鏡が視線を外す。ハッチから出てゆく。そしてセイルの後ろのデッキからハッチの中を覗き込んで言う。
「上がれ」
レイは梯子を上る。ハッチから顔を出す。
「どうやら転移したようだ」
セイルの後ろのデッキから鏡が言った。レイはあたりを見回す。
「台船は……」
「見えない」
台船どころか、一艘の船も見えない。レイはハッチから身を乗り出す。首をめぐらせて湖岸を確かめる。無い……何の建物も無い……別の世界の……琵琶湖……。
「どうする?」
鏡が訊いてきた。レイはそれには答えず、言った。
「鏡さん……わたし……女になってる……」
「……何を……言ってるんだ?」
レイはセイルの縁をつかむ鏡の手を取った。そしてそれを自分の胸にあてる。
「わたし、女性の身体になってます」
鏡が絶句する。レイにもそれ以上は何も言えない。ただ潜水艇を揺らす波の音だけが、二人の周囲を満たしていた。
*
レイと鏡の乗る潜水艇は別の世界の琵琶湖に転移した。レイの身体は女性になっていた。セイルのハッチから顔を出したレイは、そのことを鏡に告げる。鏡はセイルの後ろのデッキでそれを聞いた。二人は無言で顔を見合わせる。やがて鏡が口を開いた。
「……いつからだ?」
「さっきです……」
「そうか……」
鏡が頭を振る。そして言う。
「とりあえず陸に向かう。一番近い陸地を指示してくれ」
レイは視線をめぐらして視界の届く限り地形を確認する。あれが伊吹山。だとすればこちらが安曇川河口……。
「こっちです」
レイは指差す。
「こっちが南船木です。安曇川河口の船木崎が一番近いですが、あそこには強い流れがあります。二年前と同じ南船木に向かいましょう」
「わかった。降りてくれ」
「はい」
レイは梯子を降りる。そして再び船底に腹這いになった。鏡もセイルに入り、ハッチを閉める。操縦席に座る。そして無線機に呼びかける。
「こちら潜水艇うらしま、誰か聞こえますか?」
何度も繰り返す。
「反応無し」そしてレイに言う「陸地に着くまで我慢してくれ」
「はい」
船内にモーター音が響いた。潜水艇は動き始めた。陸地を目指して。
レイと鏡を乗せた潜水艇は、南船木と思われる湖岸にたどり着いた。レイが船内から湖底を観測し、その誘導でぎりぎりまで岸に近づく。
「ここらでいいかな」操縦席から鏡が言った「停船する」
潜水艇の動きが停まった。鏡がハッチから出てゆく。そして船内のレイに呼びかける。
「上がってくれ」
「はい」
レイは梯子を上る。ハッチから身を乗り出す。間近に湖岸が見えた。狭い浜辺。その背後には藪と雑木林。人工物は見えない。
「泳げるか?」
鏡が訊いてきた。レイは問い返す。
「泳げますよ?」
「男と女では身体の重心の位置が違うと聞いたことがある」
「……詳しいですね」
「油断するなよ」
「わかりました……」
レイは鏡の手を借りてハッチから出る。二人は潜水艇のデッキから湖水に入った。水はひんやりと冷たい。ほんの少し泳ぐと底に足が届いた。レイが岸に上がると、鏡は再び潜水艇に戻って行く。
「船体を係留する。それとサバイバルキットを持ってくる」
それだけ言って泳いで行く。デッキに上がると船内に入った。レイはしばらく待つ。鏡が出てきた。ロープとバックパックを持っている。ハッチを閉じ、船首に移動する。そこにロープの一端を結びつけた。そしてロープのもう一端とバックパックを持って岸に向かって泳いでくる。レイは腰まで水に入り、バックパックを受け取る。二人で岸にあがる。鏡はロープを湖岸に生えている木の幹に結わえ付けた。
「これでよし」
「どうします?」
「一応無線機を試す」
鏡はレイからバックパックを受け取り、その中から無線機を取り出した。電源を入れる。耳に当てる。
「ノイズしかない」
そして口に当てる。
「こちら潜水艇うらしま、誰か聞こえますか?」
再び耳に当てる。それを何度か繰り返す。
「反応無し」
二年前と同じだとレイは思った。鏡が言う。
「次は火を起こす」
二人は枯れ木を拾い集め、湖岸に火を焚いた。
夜、満天の星空。レイと鏡はたき火を前に腰を下ろしている。髪も服も、すでに乾いていた。靴は脱いで火のそばに干してある。鏡が訊いてくる。
「身体の具合はどうだ?」
「なんともありません」
「寒くないか?」
「ありがとう。大丈夫です」
少し距離が開いたかなとレイは感じる。
「鏡さん」
「なんだ?」
「今まで通りでいいんですよ」
「何がだ?」
「女になったからと言って特別扱いしないでください」
「してない」
「してます」
「何が気に入らない?」
「そんなこと言ってません」
「言ってる」
気まずい沈黙。そして鏡が口を開く。
「眠れそうか?」
「いいえ……」
「そうだな……でも、寝ておけ。これから何が起こるかわからない。この前のように行くとは限らないからな」
そう、二年前と同じとは限らない。レイは鏡の忠告を受け入れる。
「わかりました……」
「俺が見張ってる。安心しろ」
「はい……」
レイは顔を伏せ、目を閉じた。気持ちを静めようとする。だが、波の音、虫の声、そして焚き木のはぜる音、敏感になった五感の伝えてくる様々な情報が、その邪魔をする。ひょっとして、とレイは思った。鏡はいつも通りに接してくれているのかもしれない。ただ敏感になった自分の感覚が、それを必要以上に特別扱いされていると感じてしまうのかも……。レイは目を閉じたまま鏡に呼びかける。
「鏡さん……」
「なんだ?」
「……なんでもありません……」
「寝ろ」
「うん」
神経の昂ぶりはおさまりつつあった。眠れるかもしれないと、レイは思った。
*
夜が明けた。結局二人とも眠れなかった。レイが眠い目を擦っていると、鏡がたき火の前から立ち上がる。うんっ! と伸びをする。そして屈伸。ひとしきり身体を動かすと、裸足のまま湖に入って行く。湖水でバシャバシャと顔を洗い始めた。
「お前も洗え、目が覚めるぞ」
レイはジーンズの裾をまくり上げ、ひざ下まで湖に入る。湖水をすくい、顔を洗う。そのレイの目の前で、鏡がうがいを始めた。あの時と同じだ。そう、二年前と……。
「どうした?」
レイがぼうっとしていると鏡が訊いてきた。
「いえ、何も……」
「そろそろ猫が現れて道案内してくれるころかな?」
「そうですね……」
二年前に転移したとき、ここで猫が現れた。そしてレイと鏡は、その猫に導かれ、藪の中の一軒家にたどり着いたのだ。
「さて、上がるか」
鏡が岸にあがる。レイも続く。その時だった。
「あ、猫!」
レイはたき火の後ろを指差す。そこには猫がいた。黒猫だ。その猫はじっとレイを見ている。鏡が訊いてくる。
「案内役か?」
「わかりません」
レイは猫に近づく。すると猫は向きを変えて歩き出す。レイは足を止める。猫も止まって振り返る。
「どうやら今回も道案内してくれるようです」
「そうか、よかった。ついて行ってみよう」
鏡が手早くサバイバルキットの中身をバックパックに詰める。二人は靴を履き、たき火に砂をかけて消した。
「行こう」
「はい」
二人は歩き出す。猫も歩き出した。茂みに入る。レイと鏡は黒猫に導かれながら、藪の奥深くへと入って行った。
三〇分ほど歩いて、レイと鏡はそこにたどり着いた。それは一軒の家だった。
「同じだな」
その家を見て鏡が言った。そう、二年前と同じだ。大手ハウスメーカーの宣伝しているような二階建ての家。それがこつ然と藪の中に現れた。
「これで助かる」
鏡はそう言ったが、レイにはそうは思えなかった。またこの家で一年を過ごすのだろうか? それともそれ以上? レイが考え込んでいると「猫がいない」と鏡が言った。あたりを見回している。レイも視線をめぐらせる。猫の姿は無かった。
「案内は終わりと言うわけだ。まあいい。呼び鈴を押してみる」
鏡が門柱に付けられているスイッチに手を伸ばす。押す。ピンポンと家の中から音が聞こえた。
「電気がきてる」
レイと鏡はそのまま待った。誰も姿を現さない。
「入ってみよう」
鏡が門扉を開ける。玄関に進む。ドアをノックする。声をかける。
「ごめんください」もう一度言う「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか?」
反応は無い。ドアノブに手をかける。回す。引く。ドアは開いた。二人は玄関に入った。そこで鏡が言う。
「履物が無いな」そして自分の靴を脱ぎ、あがりかまちに足をかける。
「ちょっと」レイはそれを止める。
「どうした?」鏡が振り向く「どうせ誰もいない。もし誰かに会ったら、そこで謝ればいい」そう言って家に上がり込む。レイも仕方なく従う。二人は廊下の突き当りまで進み、そこでドアを開け、室内に入った。そこはリビングだった。
「同じだ」
鏡が言った。そこには生活感があった。ついさっきまで、ここには人がいて、そしてこつ然と姿を消した様な。それは二年前と同じ状況だった。レイと鏡はすべての部屋を見て回った。どこにも人の姿は無かった。そして二年前と同じように、二階はがらんどうだった。建築途中の家のように。しかし、この家には電気も、ガスも、水道も通じていた。電話やパソコンの類こそ無かったが、冷蔵庫には食糧があった。スーパーの値札までついていた。さらに鏡は箪笥を物色し、着替えも見つけていた。レイにぴったりの女性用の下着もあった。トイレの棚には生理用品も。それらはまるで、二人に、ここで暮らせと、そう言っているようにレイには感じられた。
「トイレにいってくる」リビングのソファで一息ついていると鏡が言った「先に入るか?」
「いえ……」
「じゃあ休んでろ」
「はい……」
鏡がトイレに入った。レイはソファにもたれて待つ。二年前と同じ状況だった。いったいどこまでが同じなのだろう。そこでレイは気づいた。わたしは今、女性の身体だ。そこが、二年前と違う。その違いが、これからどう影響してくるのか……。レイはテーブルの上にテレビのリモコンを見つける。それを取り上げ、電源ボタンを押す。テレビが点いた。午前中の番組を流し始める。鏡が戻って来た。
「これも二年間と同じだな」
その後、二人は冷蔵庫の食材を調理し、食事を摂った。そしてシャワーを浴び、着替えた。ソファでくつろぐ。二人はいつの間にか眠ってしまっていた。目が覚めると、翌朝だった。
*
「ずいぶん寝たな」
ソファから立ち上がり、伸びをしながら鏡が言った。レイは身体のあちこちが痛かった。座ったまま腕や脚をマッサージする。
「疲れが出たか?」
「少し……」
「いいことだ。休めたってことだからな」
鏡はそう言うとリビングから出てゆく。
「顔を洗ってくる」
「はい」
レイは鏡が戻ってくるのを待った。鏡はすぐに戻って来た。入れ替わりに今度はレイが洗面所に向かう。顔を洗ってリビングに戻ってくると鏡はテレビを見ていた。レイが戻って来たのを見ると立ち上がる。
「外を見て来る。前回と同じなら外の藪は街になっているはずだからな」
鏡がリビングを出る。レイもその後ろに続く。玄関で靴を履き、ドアを開ける。そこには街があった。何の変哲もない住宅街。ただ無音。人の気配が全くない。
「同じですね」
「ああ」
そう、二年前と同じだった。家のまわりの藪は一夜にして無人の街になっていた。そして家の横にはカーポートが有り、一台のランドクルーザーが停まっていた。鏡が言う。
「少し歩いてくる」
「わたしも」
「お前はもう少し休んでろ」
「でも……」
「じゃあ朝食の用意でもしててくれるかな?」
「え? ええ……」
レイは納得できなかったが鏡に従うことにした。リビングに戻る。冷蔵庫を物色する。ベーコンと卵を出す。フライパンで焼くことにする。食パンもあったのでオーブントースターに入れる。料理に熱中し始めた頃、鏡が戻って来た。
「お、いい匂いだ」
レイはベーコンを炒めながら答える。
「もうすぐできますよ」
「そうか、ありがたい」
鏡はテーブルの上にキーの束、そして黒い財布と携帯電話、赤い財布と携帯電話を置いた。
「車の中にあった。運転席には黒いやつ、助手席には赤いやつ」
レイは訊く。
「どうします?」
「そうだな、京都に行ってみようと思う。どこまで行けるのか確かめたい」
「そうですね。それがいいと思います」
「その前に飯! 腹が減った!」
レイは笑う。そしてテーブルの上に用意しておいた二つの皿に炒めたベーコンを盛り付けた。
「はい、できあがり」
「ありがとう。じゃあコーヒーは俺が淹れるよ」
「もうできてますけどね」
「さすが手早い!」
レイはキッチンのコーヒーメーカーからサーバーを外す。テーブルに運ぼうとすると鏡がそれを受け取った。そして二つのカップにコーヒーを注ぐ。
「じゃあ食おうか」
「はい」
レイと鏡はトーストに目玉焼き、それに炒めたベーコンという朝食を食べ始めた。かわす言葉は少ない。でもそれは、温かな時間に違いなかった。
朝食を摂ったレイと鏡は戸締りをして家を出た。カーポートのランドクルーザーに乗り込む。鏡がエンジンをかける。カーナビが入力を待っている。レイは訊く。
「目的地はどこにします?」
「まずJR大津駅に行こう。無人の街には住めない。前と同じなら、あそこに行けば何か起きるはずだ」
「わかりました」
そう、鏡の言うように無人の街には住めない。いくら衣食住には困らなくても。二年前の転移では、JR大津駅に着いたとき、街は人で溢れた。レイはカーナビの目的地をセットする。合成音声が道案内を始める。その指示に従い、二人はJR大津駅へと向かった。
レイと鏡の乗る車は、JR大津駅前のロータリーに着いた。相変わらず人の気配は無い。ここに来るまでの道のりにも人の姿は無かった。動いている車にも一台も出会わなかった。だが、信号機や、道路沿いの商業施設の看板は動いていた。鏡は律儀に信号を守って運転し、二人はここまでやって来た。
レイと鏡は車を降り、そこを離れて駅舎に向かおうとした。その時だった。レイは激しいめまいを感じる。しゃがみ込む。その耳に、人の声、車の音、駅のアナウンス、そして電車の音、それらが一斉に押し寄せて来る。レイは耐えた。すぐにめまいはおさまる。ゆっくりと立ち上がる。あたりを見回す。鏡も、そうしていた。二人の前に、普段通りの、JR大津駅前の姿があった。人や車が行き交っている。鏡が言う。
「同じだ」
その時、後ろから怒鳴り声が聞こえた。
「おい、兄ちゃん! そんなとこに停めんなや!」
レイたちの車の後ろから、タクシーの運転手が車の窓を開けて怒鳴っている。
「悪い!」
鏡がすかさず答えて車に乗り込む。
「早く乗れ」
レイにも促す。レイが助手席に座ると、鏡はすぐに発進させた。駅前のロータリーを出る。レイは助手席から訊く。
「これからどうします?」
「京都に向かう。どこまで行けるか確かめる。前と同じなら滋賀県からは出られないはずだ」
「わかりました。目的地にJR京都駅をセットします」
「頼む」
結局、二人の乗る車は京都にたどり着けなかった。逢坂山を越えたあたりで、もと来た道を戻ってしまうのだ。何度試しても同じだった。二年前と同じように。
*
レイと鏡の二度目の共同生活が始まった。二人は車や鉄道を使って何度も滋賀県から離れようとした。しかしその試みは全て失敗した。いつの間にかもと来た道を引き返しているのだ。二年前と同じだった。琵琶湖からある一定の距離以上は離れられないのだ。そのことを確信できるようになると、二人は琵琶湖の周りの観光地を訪れるようになった。いずれ戻れる。そんな楽観があったからだ。そうこうしている間に、転移してから二ヶ月が過ぎようとしていた。
盛夏の湖北。南浜水泳場。レイと鏡は二人で浜辺を歩いていた。夕刻ともなると人影はまばらだ。どこまでも続く水面。陽が落ちようとしている。レイの白いシャツが茜色に染まる。
「きれいだ」
「きれいですね」
鏡がレイの肩を抱く。しかしレイは急に吐き気を感じてしゃがみ込む。
「どうした?」
レイは吐気をこらえ、呼吸を整える。
「……ちょっと吐き気が……」
「少し疲れたかな」
鏡がレイの背中をさする。
「帰ろう」
「……ごめんなさい……」
帰ってもレイの吐気はおさまらなかった。翌日、鏡に連れられ、レイは病院を訪れる。その病院の診察室で、二人は医師に告げられる。
「妊娠ですね。八週くらいです。産婦人科の受診をお勧めします」
「妊娠?」
レイと鏡は顔を見合わせる。
「そうですよ。紹介状を用意します。ロビーでお待ちください」
診察はそこで終わりだった。二人は会計を済まし、紹介状を受け取って家に戻った。その間、二人とも無言だった。何か言うと、そこで何かが壊れてしまいそうな気がした。
「妊娠するようなことはしていない」
リビングのソファに座るなり鏡が言った。レイには何も言えない。
「生理はどうだったんだ?」
「ないです……ずっと」
レイは顔を上げることができない。
「そうか……」
「信じて……」
「何を?」
「わたしを……」
レイは顔を上げ、鏡の視線をとらえる。
「信じるよ」
「ありがとう……」
「処女懐胎……か……ここはVRの世界だ。なんでも起こり得る」
「ふざけないで……お願い……」
「ふざけてなんかいない」
今度は鏡が問いかける視線を送ってくる。
「どうする?」
レイは迷う。鏡が言ったように、ここはVRの世界だ。何が起きても不思議ではない。しかし問題がある。それを鏡が指摘する。
「産んだら帰れなくなるんじゃないか?」
その鏡の指摘に、レイは反論する。
「わたしは……この子を産んだら帰れるんじゃないかと思う……」
「産むのか?」
「はい……」
「わかった」
レイと鏡の新たな生活が始まった。子を産み、育てるための生活だ。二人に出産、子育ての経験はない。そしてこの世界で二人が頼れるのはお互いだけだ。病院に通いながら手探りの生活が続いた。そしてこの世界に転移してきてから九ヶ月目に、レイは女の子を出産した。二人はその子に令子と名付けた。すぐにレイと令子は退院できることになった。いよいよ三人での生活が始まる。鏡、そして令子を抱いたレイが、家のリビングに戻った、その時だった。そこにそれはいた。
……無事に産まれたようだな……
猫だ。一匹の黒猫がリビングにいる。その猫は続ける。
……帰る用意はできている……
鏡が訊く。
「帰れるのか?」
……明日、お前たちの船を用意する。その船に乗れ……
猫は消えた。レイと鏡は顔を見合わせる。鏡が訊いてくる。
「どうする?」
「どう……するって?」
「令子のことだ」
「……連れて帰ります」
「向こうでなんて説明する?」
「わかりません……でも、おいてはいけない……」
「そうだな……」
鏡が考え込む。レイにはその鏡の考えが読めた。
「まさか……」
「やっぱり令子は連れて行けない」
「そんな……」
「令子はこの世界の子どもだ。VRなんだよ。連れて帰っても元の世界に居場所はない」
「そんなもの、わたしたちが作ればいい!」
「無茶を言うな」
「無茶を言ってるのはどっちですか!」
思わず大きな声をだしたレイの腕の中で、令子が泣き始めた。レイは令子を抱いたまま鏡から離れる。
「明日はこの子も連れて行きます」
レイはリビングを出た。鏡は追ってこなかった。
*
翌朝、レイと鏡が目覚めると、家のまわりの街は消えていた。九ヶ月前の、藪に戻っていた。鏡と、令子を抱いたレイは、九ヶ月前と同じ服装をして家を出る。その三人を、またあの猫が案内する。
猫に導かれ、三人は湖岸に出た。そこには潜水艇が浮かんでいた。九ヶ月前と違うところは、潜水艇が桟橋に係留されていることだった。鏡がさっそく乗り込み、点検を始める。それは小一時間ほども続いた。レイはその間、令子を抱いて待った。令子は家を出てからずっと寝ていた。
鏡が潜水艇から出てきた。
「問題はない。捨てたメインバラストは戻っている。バッテリーはフル充電の状態だ。INS(慣性航法装置)のデータも残っている。エアも大丈夫だ」
「それで、どうするんです?」
「すぐに出発しよう」
「帰るんですね……」
「ああ」
まずレイが大きなバッグを持ってハッチの中に入った。そのバッグには子育て用具が入っている。レイは一度船底に降り、バッグを奥に片付ける。そして梯子を上り、ハッチから出る。鏡から眠っている令子を受け取る。抱っこ紐で固定する。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
レイは令子を抱いたまま慎重に船底まで降りる。そこで令子をかばうように腹這いになる。最後に鏡が乗り込んだ。ハッチが閉じられる。潜水艇が動き出す。あの場所、安曇川河口沖に向かって。鏡がINSのデータ通りに操船し、やがて、そこにたどり着いた。
「潜水準備完了」
鏡が船底で令子を抱いているレイに言う。
「潜るぞ」
「はい」
「メインタンク注水」
ごぼごぼと音が鳴る。鏡が深度を読み上げてゆく。暗い水中がライトに照らし出される。まだ何も見えない。
「深度九〇メートル、まもなく湖底だ」
「はい」
「バラスト投下、懸吊する」
下降するエレベータの停止する感覚。
「見えるか?」
レイは観測窓の外に目を凝らす。見えた。湖底だ。
「湖底が下に見えます」
「そうか、ここで待つ」
「乱流を?」
「そうだ。令子はどうだ?」
「寝てます」
「乱流に巻き込まれたら相当揺れる。令子を頼んだぞ」
「はい」
船内の空気が張り詰める。その緊張が限界に達しようとしたとき、それはやってきた。船体が微かに揺れる。
「来た!」
レイと鏡は同時に叫んだ。すぐに大波に呑まれた様に揺れ始める。レイは観測窓の横に付けられた取っ手に片手でつかまる。もう片方の手で令子を抱き、必死で守る。船体が激しく揺れ、軋む。
「緊急浮上する!」
「了解!」
ゴトっとメインバラストの外れる音がした。ガクンと船体が揺れる。そして、急速に浮上してゆく。あっと言う間に観測窓の外が明るくなった。
「深度〇」
激しい揺れはおさまった。それでも、ゆらゆらと揺れている。レイは腕の中の令子を確かめる。令子は寝ていた。あれほど揺れたのに。
「いた!」
鏡が叫んだ。
「台船だ!」
ハッチを開ける音。鏡がセイルから出てゆく。
「上がれ」
レイは抱っこ紐で令子を固定し、慎重に梯子を上がる。セイルから身を乗り出す。いた。台船だ。すぐそばだ。その台船の上で人が騒いでいる。こちらを見つけたらしい。手を振っている。やがて漁船が近づいてきた。潜水艇に横付けする。レイの上司、藤堂教授が乗っている。藤堂は令子に気づいたようだ。
「おい! その赤ん坊はどうした?」
鏡が間髪を入れずに答える。
「あとで詳しく説明します」
藤堂は前回の転移について知っている。今回も何かあったと察したようだ。そう思ったとき、レイは自分の身体の変調に気づく。
「鏡さん……」
「なんだ?」
「わたし……戻ってます……」
「え?」
「男の身体に戻ってます……」
鏡は驚いた表情を浮かべた。しかしそれは一瞬で、すぐにほっとしたような顔になる。そしてレイの肩を軽く叩く。
「よかったな」
その後、三人は漁船に移り、そして台船に上がった。台船上の何人かは令子の存在に気づいたようだ。内閣情報調査室の田口が近づいてくる。藤堂が訊いてきた。
「その子は?」
その時だった。
「あれを!」
スタッフの一人が湖面を指差して叫んだ。その指さされた先で、湖面が盛大に泡立っている。大波が起きた。その大波の向こうから、銀灰色の巨大な円錐が姿を現す。台船上のみなは、その光景に目を奪われていた。その間に、それは起きた。レイの両腕から令子が離れる。空中に浮かぶ。レイの目の前でどんどん成長して行く。あっと言う間に成人した女性の姿になった。その令子は、レイと同じ姿をしていた。長い髪。しなやかな細い身体。そして白いシャツにブルージーンズ。そこに借り物の作業着の上着を着ている。レイと瓜二つの令子は言った。
「ありがとう。お母さん」
レイは自分の身体が軽くなっているような気がした。両手を見る。そして絶句する。それは透けていた。どんどん透明になって行く。レイは思い出す。かつて、量子コンピュータから告げられた言葉を。そう、わたしはVRなのだ。レイは浮上した巨大な円錐に目をやる。
「終わったんですね……わたしの役目は……」
みなの目の前で、銀灰色の巨大な円錐が湖面から離水する。どんどん上昇してゆく。レイはその姿を目で追う。だが、霞んでよく見えない。
「レイ!」
不意にレイは抱きしめられた。それは鏡だった。
「行くな!」
「鏡さん……ありがとう……」
「忘れない! 忘れないぞ! だから帰ってこい! 必ず!」
やがてレイの意識は途切れた。何も感じなくなった。
二ヶ月後。盛夏の湖北。南浜水泳場。令子と鏡は二人で浜辺を歩いていた。夕刻ともなると人影はまばらだ。どこまでも続く水面。陽が落ちようとしている。令子の白いシャツが茜色に染まる。
「きれいだ」
「きれいですね」
鏡が令子の肩を抱く。
レイは消えた。みなの記憶からも。そして、そこにいたはずのレイは、みなの記憶の中で令子に置き換えられていた。
風が吹いた。その風が、令子の長い髪をなびかせる。
湖は、今日も深く、青く、湖国に君臨していた。
再生の湖 辻井豊 @yutaka_394761_tsujii
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