#43「薄笑いの魔族、清掃員の奴隷に志願する」

ノクトの薄ら笑いが途切れ、ふいに静寂が落ちた。

じいっと、深淵のような視線が俺を見続ける。


――ぞわり。


背中を冷たいものが走り、思わず身構えた瞬間――


ノクトの姿が、掻き消えた。


「……ッ!?」


次の刹那、視界いっぱいに奴の顔が現れる。


「清掃員殿は……ほんとうに……」


妙に甘ったるい声が、耳をくすぐる。


「良い魂を……お持ちですねぇ」


ベロンッ。


ざらついた舌が、頬を這った。


「うわあああああッ!!??」


あまりの気持ち悪さに、思わず叫び声をあげ、後ずさる。

背中が石壁にぶつかり、心臓が跳ねる。


ノクトは――驚きの表情を浮かべたまま、ぴたりと動きを止めた。

まるで時が止まったかのように、その姿勢のまま固まっている。


「……え?」


俺は息を呑み、ルミナスを握る手に力を込める。

しかしノクトは瞬きひとつせず、彫像のように立ち尽くしていた。


その不気味な静止が数秒続いたかと思うと――


ギギギ……と、人形のように首がぎこちなく動き、カクンとこちらを振り向く。

相変わらず驚きの表情を貼りつけたまま。


「……ッ!」


そして再び――完全に停止。

堪えきれず、俺が一歩後ずさった瞬間――


「なにこれぇぇぇぇぇぇッ!!」


絶叫が爆ぜた。


「新感覚なんですけどぉーーーーー!!!」


ノクトは驚きの表情を貼りつけたまま、血走った目でこちらを凝視する。


「せ、清掃員殿も……!もう一度!……もう一度だけ!舐めさせて下さい!!」


ノクトは爛々と目を輝かせ、指をわきわきと動かしながら、じりじりと近づいてくる。


「ひィッ!?」


思わず後退した俺の前へ、チャピとバルドが同時に躍り出る。

ノクトはピタリと動きを止め、二人の肩越しに荒い息をついている。


「決めました――――!!」


突然ノクトは大声で宣言する。


「清掃員殿!!どうかわたしを……あなたの奴隷にして下さい!!!」


………チャピも、バルドも、そして俺も。

三人そろって、まるで時が止まったかのように固まった。


(いま、なんて言った?)


言葉が出ない。

いや、出るわけがない。


さっきまで「舐めさせろ」と迫ってきたかと思えば――次は奴隷にしてくれだと。

頭が追いつかず、ただノクトの異様な姿を見つめるしかなかった。


沈黙が張り詰めるなか、ノクトはふいに背筋を伸ばした。


「……失礼しました。あまりの興奮に、つい我を忘れてしまいました」


その言葉と同時に、俺たちはさらに言葉を失った。

さっきまで獣のように這い寄っていた奴が、今は舞台役者のように恭しく頭を垂れている。


「では……改めて」


ノクトの唇が吊り上がり、血走った目がギラつく。


「清掃員殿――私と契約を交わしませんか?」


俺は頭のどこかが真っ白になっていたが――ふっと我に返る。


「……ふ、ふざけるな!!魔族なんかと契約出来るわけないだろ!!一体どんな代償を要求するつもりだ!!」


ノクトは大げさに手を振り、首を横に振った。


「いやいやいや!!勘違いしないでください!」


驚きの表情を貼りつけたまま、息を荒げて続ける。


「私がッ!あなたのッ!奴隷になるだけです!!その対価として、ずっっと!あなたのそばに置いて頂きたい!!」


俺はもう理解をするのを諦めそうになる。

こいつは一体何の目的があってこんなことを言っているんだ。


――ふと、あの光景が脳裏に浮かぶ。


闇の中へと引きずり込まれ、二度と戻らなかったごろつきたち。

ロガンを殺し、無残に宙吊りにしたあの惨状。


――こいつは、ただの狂人じゃない。

楽しげに笑いながら、命を踏み躙る化け物だ。


「……人殺しの言うことなんか……信用出来るかッ!!」


その瞬間、ノクトの動きが止まる。


「…………?」


きょとんとした顔。

目を大きく見開き、まるで意味が分からないとでも言うように、俺を見つめ返してきた。


「……一体なんのことでしょうか?」


芝居がかった調子でもなく、本当に心当たりがないかのように首を傾げる。


「身に覚えがないのですが?」


「ふざけるな!!」


「初めて会った時、ごろつき達を闇に飲み込み殺しただろう!あの吊るされている男だって!!リーナのおやじさんも……お前が殺したんじゃないのか!!」


胸の奥に溜め込んできた疑念と怒りを、全て叩きつけるようにぶつけた。


ノクトは――ぱちくりと瞬きを繰り返す。

本当に心当たりがないかのように、目を泳がせる。


だが次の瞬間。


「ああ……」


まるで記憶を手繰り寄せたように、ぽつりと呟く。

そして、ゆっくりと口角を吊り上げ――薄ら笑いを浮かべた。


「……清掃員殿は、なにか勘違いをしているようです」


俺は思わず息を呑む。


「まず――ロガン様ですが……」


「死んではいませんよ。少々……ボコボコにして吊り上げただけです」


「……なっ!?」


思いもよらぬ告白に、俺もチャピもバルドも、目を見開いた。

死んだと思っていたあの光景が――実は違った?


「嘘だ……あんな状態で生きてるはずが――」


ノクトは指先をひらひらと揺らし、楽しげに首を傾げた。


「フフ……信じるかどうかはお任せします。ですが――ロガン様は、ああ見えて大悪人なのですよ?」


その言葉に、俺たちは一瞬言葉を失った。


「一年前、私と契約した日よりもずっと前から……ね」


にやりと笑みを深めるノクト。


「清掃員殿――あなたに信用して頂くために真実をお話しましょう!」


そういうとノクトは、静かに語りはじめた。

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