#17「修道女を守ろうとしてルミナスが光った」

アルメル港を飛び出してから、十日が過ぎた。

幾度も馬車を乗り継ぎ、ただひたすら北へ――。


赤く沈む陽を背に、ようやく小さな村へと辿り着く。

荷台を揺らす道中の疲れが、じわりと肩にのしかかっていた。


村は畑と小川に囲まれた、素朴で静かな集落だった。

馬車の停留所になってはいるが、次の町へ行く便はもう終わっているらしい。

行き交う人影も少なく、夕暮れの冷えた風だけが通り過ぎて行く。


「……仕方ない、今日はここで泊まるか」


荷袋を肩に掛け直し、村の唯一の宿を見つけて扉を押し開ける。

木の扉が音を上げ、中からは薪の焦げる匂いと暖炉の火の暖かさが流れ出てきた。


――そこで目にしたのは、一人の少女だった。


灰白と淡い青のシスター服。

膝下までのスカートを揺らしながら、背中の小さな布バッグを掛け直す。

両手にはボロボロの聖書を抱え、宿の主人に頭を下げていた。


「……その……一晩だけでいいんです。どうか泊めてもらえませんか?」


澄んだ声が耳に届く。


(……修道女?一人でこんな村に?)


俺は足音を殺し、柱の影から様子をうかがった。

少女――いや、年齢は俺から見ればまだ子どもに近いか――は必死に主人へ訴えている。


「宿代は……その、あまり持ち合わせがなくて。でも、掃除でも皿洗いでもしますから」


主人は腕を組み、渋い顔をしていた。

その顔は、余計なトラブルに巻き込まれたくないことを如実に物語っている。


(……金欠か。気の毒だが、俺には関わりのない話だ)


若い修道女は気づかぬまま、なおも宿主に食い下がっていた。

その瞳は、不思議なほど曇りがなく、濁りを知らない湖面のようだ。


(……放っておくのが一番だな。俺が首を突っ込む理由はどこにもない…)


少女がなおも宿代を交渉していると、奥の席から野太い笑い声が響いた。

飲んだくれた傭兵風の男が二人、よろめきながら近づいてくる。


「おいおい、修道女様じゃねえか。金がないなら、代わりに歌でも踊りでも見せてもらおうか?」

「聖職者は清らかでいらっしゃる。俺たちが“試して”やろうじゃねえか」


小柄な彼女の肩がびくりと震える。

宿の主人も目を逸らし、関わりたくないとばかりに奥へ引っ込んでしまった。


(……げ、よりによって面倒な奴らだ)


俺は柱の影で固まった。

本当ならここで黙って部屋を取って、朝一番で村を出るのが正解だ。

巻き込まれたらまた“詰み”になるかもしれない。


(……だが――)


少女の瞳が怯えながらも、必死に拒む光を宿していた。

逃げることもできず、ただ祈るように胸の十字を握っている。

喉がごくりと鳴る。

心臓は警鐘のように暴れていた。


(……怖い。俺なんかが首を突っ込んだら、逆に潰されるだけだ。それでも――)


逃げ出せば楽だ。けれど、目の前の光景から背を向けたら、

それこそ“詰み”に近づく気がしてならなかった。


ルミナスの柄を握り、足を一歩前へ。

視線が俺に集まった瞬間、震える声を押し殺して吐き出す。


「――やめろ。その娘に触れるな」


二人組の傭兵が振り返る。

俺の声は情けなく震えていたが、それでも口から出た言葉は奇妙に響いた。


「光を汚す者は、闇に堕ちるしかない。……選んだ過ちは、即座に報いとなる!」


背筋を汗が伝い、足がすくむ。

けれど――それでも、見捨てるよりはマシだと思った。


傭兵たちが一瞬きょとんとしたが、次の瞬間には鼻で笑った。


「へっ、見ろよ。膝ガクガクしてんぞ。笑わせんな」

「剣でも握った気になってんのか?なんだそのモップは、震えてんぞ!」


(やっぱバレてる!?膝、震えてるのバレてる!?)


俺はじりじりと後退りする。

だけど背中にはもう壁しかなく、逃げ場はない。


「……やめろと言ってるだろ」


自分でも声が裏返ってるのがわかる。


「調子に乗るなッ!」


片方の傭兵が拳を振り上げてきた。

咄嗟にルミナスを盾代わりに掲げる。


――その瞬間。


ルミナスが淡い光を放った。

まるで夜気を払う灯火のように、静かに辺りを照らす。


「……な、に……っ!?」


男が呻き声を上げて膝をついた。

隣のもう一人も目を見開き、額に汗を浮かべてよろめく。


(な、なんだこれ!?俺、何もしてないのに!)


ルミナスから広がった光が、まるで彼らの体から何かを吸い出すように淡く揺れていた。

次の瞬間、二人は顔色を真っ青にしてその場に崩れ落ちる。


「……う、ぐ……ち……ちからが……」

「……ぁ、あ……」


床板に転がったまま、呼吸は荒いが意識はあるらしい。

けれど立ち上がる力は残っていないようだった。


静寂が宿を包む。


俺はルミナスを見下ろし、声にならない息を吐いた。


(……まさか。こいつ、勝手に……?)


少女は胸の前に小さく十字を切り、その線を包み込むように円をなぞった。

潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。


「……助けてくれたの?」


俺は喉を鳴らし、慌てて首を振った。


「ち、違う!俺は何もしてない!」


彼女が小首をかしげる。

その視線に耐えられず、俺は思わず声を張り上げた。


「勘違いするなッ!俺は救いの光じゃない……ただ影に生きる者だ!」


自分でも何を言ってるのかよくわからない。けど止まらない。


「たまたま、この場にいた。それだけだ!勝手に光が働いただけで、俺は影に紛れた亡霊にすぎない!誰かを救うなんて、悪い冗談だ!!」


少女はぽかんと口を開け、まるで異国の言葉を聞いているように瞬きを繰り返す。

俺はなおも畳みかけた。


「……忘れるんだ。今見たことは幻影にすぎない。俺は誰も救えない。俺が救えるのは……薄汚れた床くらいだッ!!」


沈黙。


宿の空気がシン、と張りつめる。

次の瞬間。


「……ふふっ」


澄んだ瞳の娘の唇から、小さな笑い声が零れた。


「なんだかよくわからないですけど……あなたは優しい人なんですね」


(……いや、伝わってない!全然伝わってない!)


俺はため息を吐き、宿主に向かって口を開いた。


「――部屋を二つだ。金は俺が出す」


少女が目を丸くする。

慌てて付け足した。


「勘違いするなッ!これは施しじゃない。これはお前に負債を背負わせるための布石だ!お前はこの借りを抱えて生きることになる……俺という影の存在に、な!」


主人はぽかんとした顔で帳簿をめくり、宿代を受け取った。

背後で、少女が小さく「ありがとうございます」と呟いたのが聞こえた。


(……やばい、また詰んだ気がする……)


翌朝。


村の朝は静かだった。

鶏の声と小川のせせらぎが重なり、霧に包まれた風はまだ冷たい。

昨夜の騒ぎが嘘のように、清浄な空気が広がっていた。


食堂に降りると、彼女が窓辺で祈りを捧げていた。

灰白と淡い青の修道服は、朝日に淡く溶け込むように輝いている。

胸に抱えた古びた聖書を指で撫で、静かに胸の前で十字を切り、その線を包み込むように円をなぞった。


俺に気づくと、ぱっと顔を上げて小さく微笑む。


「おはようございます」


その声は水面に落ちた雫のように澄んでいた。

そして胸の前で手を組み、改めて名乗る。


「わたし、フィオリアーナ・エルネシアと申します。

 光の女神ルミナリア様に仕える、教会のシスターです。……旅の途中で、少し行き先に困っていて」


「……ただの清掃員だ」


少女はにっこりと微笑み、澄んだ瞳をこちらに向けた。


(……いや、マジでやめてくれ。俺が一番距離を置きたいタイプじゃないか……!)

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