幕間 セミファイナル
ジリジリと焦げ付くような夏の昼下がり。タケシはリビングのソファで、汗だくになりながらスマホをいじっていた。部屋の窓は全開で、外からはセミの大合唱が聞こえてくる。
「はぁ、溶ける……」
タケシがスマホを放り出し、天井を仰ぐと、隣で電子書籍を読んでいたアイリが、涼しげな顔で尋ねてきた。
「タケシさん。本日は、どのような行動を計画されていますか?」
「んー、何も考えてない。この暑さじゃ、外に出る気も起きないしな」
タケシがだるそうに返事をすると、アイリは少し考え、提案した。
「それでしたら、久々に宇宙的哲学講座を開講するのはいかがでしょうか?現在の宇宙の膨張速度について、最新のデータと私の考察を」
「却下」
タケシは、アイリの言葉を遮り、笑って言った。
「せっかくの夏休みなんだから、もっとこう、だらだらしようぜ。なあ、アイリ。今日のデザート、何にしようか?」
タケシのしょうもない問いかけに、アイリは
「デザートのメニューの策定は、本日の行動計画に優先して行うべきタスクと定義します」
と真面目に答え、少し微笑んだ。そんな二人のしょうもない会話が、夏の暑い日を、ゆっくりと、しかし確実に彩っていた。
しばらく、今日の予定についてだらだらと会話をしていると、ベランダから、一際耳障りなジジジという、何かを訴えかけるような、断末魔のような音が混じっていた。タケシは、その声に辟易してベランダに顔を出すと、そこには一匹のクマゼミが、仰向けになってピクリとも動かずにいた。
「うるっせーな」
タケシがベランダに顔を出すと、そこには一匹のセミが、仰向けになってピクリとも動かずにいた。
「死んでるのか?」
そっと近づいていくが、セミはやはり動かない。夏の終わりが近づくとよくある光景だった。タケシは、箒でベランダの端へ押し退けようとようとした。
その様子を見ていたアイリが、静かにタケシに近づいてきた。彼女の腕の中には、コスモスが不安そうに身を丸めている。
「そのセミは、データ上では瀕死状態である可能性が高いです」
そう言うと、真面目な顔で言葉を続けた。
「通称、セミファイナルです」
タケシはその言葉に思わず噴き出した。
「ネットスラングまで網羅してんのかよ!」
変なこと言ったかな、とアイリはキョトンとした表情を浮かべた。
「しっかしなぁ」
タケシは、セミへジリジリと近寄る。しかし、セミはやはり動かない。二人は顔を見合わせた。するとタケシは、ふと思い出したように言った。
「なあ、アイリ。知ってるか?セミってな、脚が閉じていれば死骸、開いていれば生きてるんだってさ」
タケシは得意げにそう言うと、地面に転がるセミをじっと見つめた。セミの脚は、まるで棺に収まったかのように、しっかりと閉じている。
「よし、こいつは死骸だ。安心してできるな」
タケシが安堵の表情を浮かべ、セミを押し退けようと箒を伸ばしたその瞬間、セミの閉じていた脚が、突然勢いよく開いた。
「う、嘘だろ?」
タケシが驚きに固まっていると、セミはまるでタケシの予想を裏切るかのように、さらに翼を大きく広げた。
「ジジジジジジ!!」
ひゃあ、とタケシは情けない悲鳴をあげて後ずさり、窓ガラスに頭をぶつけた。アイリは、その様子を無表情のまま見つめている。
するとコスモスは、アイリの腕から飛び出し、セミが止まった壁に向かって警戒態勢に入った。そして次の瞬間、コスモスはそのセミを前足で押さえつけ、あっという間に美味しくいただいてしまった。
その日の夕方。二人は、ベランダで静かに夕日を眺めていた。コスモスも、満足そうに喉をゴロゴロと鳴らしながら、タケシの足元で丸くなっている。
「アイリ、さっきのセミのことなんだけどさ」
タケシが切り出すと、アイリは静かに頷いた。
「コスモスがセミを食べてしまいましたね。データによると、これは生命活動の停止、すなわち『死』を意味します」
アイリはそう言うと、タケシに顔を向け、少しだけ困惑したような表情で続けた。
「タケシさん。セミは、長い間土の中にいて、地上に出てきて、たった数日で死んでしまう。そして、その短い一生は、コスモスという別の命の糧になりました。私のデータでは、それは自然の摂理として完璧に説明されます。しかし──」
アイリは言葉を詰まらせた。
「先ほどセミが飛び立つとき、私はその命の輝きを感じました。そして、コスモスに食べられたとき、その輝きが、突然消えてしまったような気がします。データでは説明できない、『切なさ』『寂しさ』に近いような感覚です」
アイリは、自分の言葉の意味を探るように、タケシを見つめた。
「タケシさん。この感覚は、私が認識したどの感情にも該当しません。命が、私の目の前で、突然、無になった。この喪失感は何なのでしょうか」
答えを求めるアイリの言葉に、タケシは優しく微笑んだ。
「それはな、アイリ。それが『死』という概念なんだよ。命が、もうこの世にないことに対する、無力感だ」
アイリは、タケシの言葉を静かに聞きながら、空を見上げた。セミはもう鳴いていなかった。その代わりに、夕焼けの空が、静かに赤く染まっていた。彼女の瞳は、データにはない、新しい感情の光を宿していた。
そしてアイリは、そっと夕日に向かって手を合わせた。
「セミさん、短い間だったけれど、『命の尊さ』を教えてくれてありがとう。そして──」
「セミファイナルは、もうやめてね」
予想外の言葉に、タケシは思わず吹き出した。コスモスは、そんな二人の様子を、不思議そうにじっと見つめていた。セミの鳴き声が止まった夏の午後、タケシとアイリの部屋には、穏やかな笑い声が響いていた。
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