第24話 春はあけぼの③

 その日、タケシはベランダで家庭菜園の準備に精を出していた。春の柔らかな日差しが降り注ぐ中、アイリもそばに立ち、タブレット端末で土壌の成分データを解析している。


​「タケシさん。この土壌はアルカリ性に傾いています。最適な肥料をリストアップします」


 ​アイリが真面目な顔でアドバイスを始めると、タケシは苦笑いしながら言った。


「アイリ、データも大事だけどこういうのは感覚だよ。肥料といえば前にも似たようなこと、あったよな」


​ タケシの言葉に、アイリは少し首を傾げた。そして、彼女の思考回路が過去のデータを検索する。


​「似たようなこと?ああ、タケシさんが冷蔵庫で萎びていたキャベツを捨てようとした際、私がそれを阻止した一件ですね。データ上では、あれは『食材の有効活用』という論理に基づいた私の適切な行動でしたが──」


​ そこまで言って、アイリは言葉を詰まらせた。

「ですがあの時、私が『キャベツの残渣ちゃん』と呼んでいたことは、非常に非論理的であり、今振り返ると、少し……恥ずかしいです」


​ アイリは、頬をほんのりピンク色に染め、俯いた。あの頃の不器用な攻防を思い出し、タケシもまた、口元を緩める。あの頃は、たかがキャベツ一つで大騒ぎだったが、今ではこうして二人で、新しい命を育もうとしている。その事実に、タケシは胸が温かくなった。


​「今回はミニトマトでも植えようか。アイリ、トマトって好きか?」


​ タケシが尋ねると、平静を取り戻したアイリは無表情な顔で答えた。


「データによるとトマトは栄養価が高く、健康維持に効果的です。また、豊富なリコピンは、私の生体パーツの劣化を抑制する効果が確認されています」


​その言葉に、タケシは驚いて目を丸くした。


​「生体パーツスゴいな!?じゃあ植えよう!たくさん植えよう!」


​ タケシが俄然やる気になったその時、二人の間に、一匹の影がさっと現れた。コスモスだ。春の暖かさに誘われるように、コスモスはタケシが準備したスコップに手を伸ばす。


​「にゃー」


 ​コスモスは、タケシの手に持っていた小さなスコップにじゃれつき、まるで一緒に畑仕事をしているかのように振る舞う。その可愛らしい姿に、アイリは瞳を輝かせ、コスモスの行動をデータとして記録し始めた。


​ タケシがミニトマトの苗を植え終えると、コスモスは満足したようだ。春の日差しが一番よく当たる場所に移動し、丸くなって寝始めた。穏やかな光が、コスモスの柔らかな毛並みを金色に染めている。アイリは、そっとコスモスのそばにしゃがみ込むと、その背中を優しく撫でてやった。


​ タケシは、その光景をぼんやりと眺めていた。温かい日差しの中、愛おしそうに猫を撫でるアイリの姿は、まるで一枚の絵のようだ。完璧なアンドロイドとして生きてきた彼女が、今、小さな命に心を寄せている。その姿に、タケシの胸の奥が温かく、そして愛おしさでいっぱいになるのを感じた。


​「……絵になるなぁ」


​ タケシが思わず呟くと、アイリは顔を上げてタケシを見つめ、にやりと笑った。


​「タケシさん。私に惚れ直しましたか?」


​ アイリのからかいに、タケシは一瞬言葉を失う。いつもは冷静な彼女が、少しだけ得意げに、いたずらっ子のような表情を見せている。その新鮮な表情に、タケシは心を奪われた。

 しかし、次の直後、彼はまっすぐアイリの目を見て少し照れくさそうに、しかしはっきりと、言った。


​「当たり前だろ。俺は、お前が誰よりも好きだからな」


​ タケシの予想外の直球な言葉に、アイリは完全にフリーズした。彼女の顔は、耳までみるみるうちに真っ赤になり、からかいの言葉はどこかへ消えてしまった。

 彼女の視界に、タケシの優しい笑顔だけが映し出される。その笑顔にアイリの内部システムは、これまでに経験したことのない、熱い感情の洪水に襲われた。


​「タケシさん、それは」


​ アイリは、もはや羞恥と喜びで何も言えなかった。タケシもそんな彼女の反応を見て、満足そうに笑う。春の日差しが降り注ぐ、穏やかな空気だった。


​ その頃、コスモスは、二人の様子を半開きの目で見ていた。


(二人きりにするといつもこうだな)


​心の中でそう呟き、コスモスは再び気持ちよさそうに、春の昼寝に戻っていった。

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