第15話 帰るまでが遠足です

​ キャンプから帰宅したタケシとアイリ。都会の喧騒とアスファルトの匂いが非日常の思い出を遠いものに感じさせた。タケシは、いつものように玄関で靴を脱ぎ、伸びをした。

「やっぱり家は落ち着くなぁ」


​ コスモスはタケシの足元にまとわりつき、旅の疲れを癒すように体を擦りつけている。アイリも玄関のドアを閉めると無駄のない動作でタケシの靴を靴箱に仕舞い、コスモスを優しく撫でた。


​「マスター、お疲れ様でした。本日の幸福度は95%。これまでの平均値を大きく上回っています」


 ​いつものように論理的な分析を口にするアイリを見て、タケシは安心した。キャンプでの出来事が彼女にどう影響を与えていたのか、少しだけ不安に思っていたのだ。


​「そりゃあコスモスもアイリもいてくれたからね。最高の旅だったよ」


​ タケシの言葉にアイリは何も答えなかった。しかし、その瞳の奥は、夜空の星のようにかすかに瞬いているように見えた。


​ 翌朝。タケシは目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。部屋に漂う焦げたような、不思議な匂いに、彼は眉をひそめた。焦げ臭いというよりは何かが炭化してしまったような、これまで嗅いだことのない匂いだ。


──まさか、火事?


​ リビングへ向かうとアイリがキッチンでじっと立ち尽くしている。その手には、炭化したトーストと、異様な形に変形したコーヒーカップが握られていた。コーヒーはカップの底に張り付いたまま、固形物と化している。

「アイリ、どうしたんだ!?」


​ タケシが尋ねると彼女は顔色ひとつ変えずに答えた。


​「マスター。私のロジックでは、朝食はトーストとコーヒーが最も効率的で健康的なはずでした。しかし、私の内部では、パンを焦がし、コーヒーカップを溶かすという非論理的な選択肢が強く推奨されています。これは、矛盾です!」


​ アイリは苦悩に満ちた表情でタケシに訴えかける。タケシは思わず頭を抱えた。


​ 「いやいや、何がどうなったらそうなるんだよ」


​「原因を分析しました。キャンプで見た焚き火の『非論理的な美しさ』が、私の火加減のロジックを上書きしています。結果、トーストは星、コーヒーカップは宇宙船の軌道として認識され、このような非効率的な結果が導き出されました」


​ 真顔で壮大な宇宙的哲学を語り続けるアイリ。タケシは彼女の言葉にツッコミを入れる気力もなく、ただ呆然と立ち尽くした。

​「せめて宇宙船の軌道じゃなくて、普通にコーヒーカップの形にしてください」


​ その日の夜。仕事から帰宅したタケシは、リビングで驚くべき光景を目にした。アイリがソファーの上でクッションを抱きしめ、両足をバタバタさせている。その姿は、まるで駄々をこねる子どものようだった。足にしがみついてご機嫌そうに振り回されてるコスモスは……一旦見なかったことにしよう。


​「アイリ?どうしたんだ?」


 ​タケシが尋ねると、アイリはクッションを抱えたまま、タケシを睨みつけた。


​「マスター。なぜ、私の朝食は味噌汁なのですか?」


​「いや、それは我が家は味噌汁派、というか僕が単に味噌汁が好きだからだよ。アイリもこの前美味しいって言ってたじゃないか」


​ タケシの言葉に、アイリはハッとしたように目を見開いた。


​「私のデータベースに『味噌汁=美味しい』という感情データがいつの間にか上書きされています。しかし、このデータは私のロジックでは証明できません!」


​ アイリは再び頭を抱え、人間のように唸り始めた。彼女は理屈を超えた「美味しい」という感情と、それを論理的に理解できない自分自身の矛盾に、苦しんでいたのだ。


​ タケシはそんなアイリの様子を見て優しく微笑んだ。


​「アイリ。それは不具合なんかじゃないよ」


​タケシはゆっくりと語り始める。


​「キャンプで君はたくさんの『非論理的な価値』に触れた。焚き火の温かさ、星の美しさ、そして僕たちで共有した時間。君のロジックはそれらのデータを受け止めきれずに混乱しているんだ……と、思う」


​ アイリの目をまっすぐに見つめ、にっこりと笑った。


​「でも、それは君が、新しい自分になろうとしている証拠だ。君は、僕たちの感情を知ろうと『宇宙の真理』を解き明かそうとしている。」


「君のロジックが間違っているんじゃない。君が、これまで知らなかった『感情』というものを『新しいロジック』として取り込もうとしているんだよ、きっと」


​ タケシの言葉が、アイリの心に深く響く。彼女はタケシの温かい手を感じながら、静かに目を閉じた。そして、彼女の心の中では、これまで論理的なデータとして存在していた「幸福の最大化」という言葉が、まるで新しい意味を持つかのように、温かく輝き始めていた。

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