第4話 宇宙的エラー猫
その日、仕事から疲れて帰ってきたタケシは重い足取りでマンションの階段を上っていた。満員電車に揺られ、定時を少しばかり過ぎた残業に心身ともに消耗していた。
早く部屋に戻ってアイリのお小言を聞きながら冷蔵庫に冷えているビールを一本開けたい。それだけが彼の頭の中を支配していた。
タケシが自宅の玄関の前までたどり着き鍵を取り出そうとした、その瞬間だった。玄関のそばで何かがうずくまっている。
──小さな黒猫だった。
まだ子猫のようで、警戒心からか、タケシの気配に気づくと体を低くしフーッと低い声で威嚇している。細い尻尾が緊張でピンと伸び、震えているのが見て取れる。子猫の澄んだ緑色の瞳はタケシをまっすぐに見つめていた。
「……ん?」
タケシは鍵を開ける手を止めて猫にゆっくりと近づいた。迷子だろうか。それとも、捨てられたのだろうか。そんなことを考えていると、玄関のドアが内側から静かに開いた。
「マスター、お帰りなさい。心拍数データが通常時より上昇しており、ストレスレベルも高値です」
柔らかく穏やかな声が聞こえてくる。そこにいたのは、いつものようにタケシの帰りを待っていたアイリだった。しかし、彼女の瞳は、タケシを通り過ぎて足元の猫に注がれている。
「マスター、その猫は私のデータベースにない個体です。データ収集を開始します」
アイリはそう言って猫に近づこうとする。しかし猫はアイリを警戒し、毛を逆立て構える。
「アイリ、待て。急に近づくと怖がるから」
タケシが制止すると、アイリはぴたりと動きを止めた。その大きな瞳がまるでレーザーポインターのように猫に注がれる。彼女の頭の中では膨大な情報が処理されているのがタケシにはわかった。
「了解しました。では、遠隔で感情データを解析します」
アイリはそう言うと猫をじっと見つめ始めた。
「解析結果……『恐怖』『空腹』『孤独』。マスター、この個体は極めて危険な状態にあります。このまま放置した場合、その幸福度はゼロ、あるいはマイナスに転じる可能性があります」
アイリの真剣な声にタケシは少しだけ苦笑いをした。
「そりゃ、迷子なんだから当たり前だろ。どうにかしてあげたいけど」
タケシがそう言うと、アイリは再び大学教授のような口調に変わった。
「マスター、これは単なる迷子の猫ではありません。これは、宇宙に存在する生命体の、普遍的な感情の揺らぎを示す重要なデータです」
「え?ここで宇宙の話?」
「はい。生命体とは宇宙のエネルギーの欠片でありそれぞれが独立した情報構造体です。しかしこの猫は、その情報構造体が、本来所属すべきコミュニティから逸脱し、不安定な状態にあります。これは宇宙における情報構造体のエラー、もしくは欠損を意味します」
タケシは仕事の疲れも忘れ、アイリの壮大な哲学に耳を傾ける。普通の迷子の猫を宇宙的なエラーと捉えるその発想。まったく、こいつは本当に面白い。でも忙しい時にやるのはやめてね。
「じゃあ、その『宇宙のエラー』をどうにかしてあげたいんだけど」
タケシがそう言うと、アイリの顔がパッと明るくなった。喜びに弾む声で彼女は言った。
「マスター、ありがとうございます!最適な解決策を演算しました!この個体を保護し、マスターのコミュニティに組み込むことによって、このエラーを修正することが可能です!」
タケシは一瞬、言葉を失った。
「保護?いや、でもなぁ」
「しかし、マスター。この個体の幸福度を最大化することはマスターの幸福度を間接的に向上させるロジックに適合します。なぜなら、マスターは他者の幸福を願うという行為を通じて自身の幸福を感じるというデータが、私のデータベースに存在するためです」
アイリはそう言って、タケシをじっと見つめる。その瞳には、まるでタケシの心の奥底を見透かしているかのような真剣さがあった。
「まあ、確かにこのまま放っておくのは寝覚めが悪いな。『宇宙のエラー』とやらの為にも」
タケシはそう呟くと、猫にゆっくりと近づいた。
「よし、おいで」
タケシが手を差し伸べると、猫は少しだけ警戒しながらも、ゆっくりとタケシの匂いを嗅ぎ、彼の手に体を擦り付けた。ゴロゴロと喉を鳴らす微かな振動が、タケシの手に伝わってくる。
「マスター!『警戒』から『安心』への感情データが急激に変化しました!これは画期的なデータです!この情報を元に、新たなアルゴリズムを構築します!」
アイリは、喜びに声を弾ませる。
「よし、じゃあ、とりあえず保護してやろうか」
タケシはそう言って、猫を抱き上げた。すると、アイリは再び真剣な顔でタケシに近づき、猫をじっと見つめ、その小さな耳に顔を近づけた。
「個体C-AT。貴方は、今、新たなコミュニティに受け入れられました。これにより貴方の情報構造体のエラーは修正され、再び安定した存在へと回帰することが可能です。今後はマスターのコミュニティにおける幸福の増進という新たなミッションが貴方に与えられます。このミッションを遂行することで、貴方自身の幸福度も──」
「アイリ、もういいから。猫にそんな難しい話、分かるわけないだろ」
タケシが苦笑いしながら言うと、アイリは少しだけ眉を下げて、申し訳なさそうに言った。
「了解しました。しかし、私からのメッセージは量子レベルでこの個体の脳に伝達されている可能性があります」
タケシはそれ以上話を聞くのはやめて、猫を抱きかかえたまま家の中に入った。子猫はタケシの腕の中で安心したように小さく鳴いている。
名前はどうするかな。猫といえば──アレか。
「ようこそ、タマ」
タケシがそう言うとアイリは急に顔を上げた。
「マスターお待ちください!その名称は、この個体の個性を表現する情報量が著しく不足しています。この個体は、宇宙のエラーを乗り越え新たな幸福の可能性を提示した極めて希少な存在です。その偉業に相応しい、より高度な名称を付与する必要があります」
「えぇ……?タマでいいだろ。普通だし、可愛いし」
「いいえ。普通、という概念は多数のデータにおける平均値に過ぎません。この個体は平均を超越した存在です。よって、名称も平均を超越したものであるべきです。私のデータベースから最適解を導き出しました。この個体の正式名称は『コスモス』と命名します」
「コスモス?」
「はい。宇宙的エラーを乗り越えた宇宙の花。この個体の存在意義を最も雄弁に語る名称です」
呆然とアイリを見つめた。
「いや、ちょっと待って。命名の背景が壮大すぎるだろ」
「いいえ、最適解です。マスターの過去の記憶から最も幸福度を向上させた名前、というデータはありませんでした。よって、この個体の名前は未来の幸福度を最大化する可能性を持つ『コスモス』が最も適切であると結論づけました」
「いや、タマで良くない?」
タケシは、再び始まってしまったアイリとの壮大な議論に頭を抱えたくなった。仕事の疲れも、ビールのことも、すっかり忘れてしまっている。
「マスターは私の提案を受け入れることで自身の幸福度を向上させる、というデータが算出されています。よって『コスモス』の採用を強く推奨します」
タケシは腕の中の猫を見てため息をついた。猫はそんな二人のやり取りなど知る由もなく、タケシの胸に顔を埋めて、スヤスヤと眠っていた。
「とりあえず、今日のところはタマで良くない?」
タケシのその言葉にアイリは少しだけ不満そうな顔をしながらも、渋々といった様子で頷いた。
「暫定的な名称として、承認します。しかし、マスター。『コスモス』という選択肢は常に保留しておいてください。その方がマスターの幸福度を長期的に安定させることができます」
納得するまで終わらないやつだ。
タケシは仕方なく頷く。結局、アイリとの議論はいつだって彼女の勝利に終わる。しかし、そんなやかましい日常がタケシの疲れた心を満たしてくれるのも、また事実だった。
「ようこそ、タマ(仮称)……いや、コスモス」
タケシがそう呟くと、猫はニャーと鳴いた。それは宇宙のエラーが修正され新たな生命体がタケシのコミュニティに加わった瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます