第2話 コーヒー哲学
タケシはトースト一枚だけの朝食を終え、ソファに腰を下ろしていた。テレビでは、気の抜けた情報バラエティ番組が、芸能人のどうでもいいゴシップを流している。
キャベツの切れ端とパンを巡る壮大な攻防で少し疲れたタケシは、完全に思考を停止させていた。こんな時、一段落したアイリが静かにコーヒーでも淹れてくれればいいのだが、残念ながら彼女はベランダでキャベツの切れ端に話しかけている。
「さあ、キャベツの残渣ちゃん。君は土壌の微生物たちと協力し、より高度な生命体へと進化するのです。地球の未来は君にかかっています。データの収集を開始……ええ、素晴らしい!土壌の温度は最適値、湿度も安定しています。このペースなら、2.38カ月後にはマスターの幸福度を再上昇させる野菜が収穫可能となります。頑張って!」
ベランダから聞こえてくるその声にタケシは少しだけ口角を上げた。本当に、このアンドロイドは面白い。一人暮らしでは決して味わえない、賑やかで奇妙な日常。それはそれで悪くない、と最近は思っている。いや、むしろ、このやかましさがないと部屋がやけに静かで落ち着かないことに薄々気づき始めている。
「……コーヒーでも淹れるか」
タケシは立ち上がり、キッチンへ向かった。豆を挽くグラインダーの音が静かな部屋に響き渡る。コーヒーの香りが部屋に満ち始めた頃、アイリが満足そうな顔で戻ってきた。
「マスター、生命循環プロセスの再始動を確認しました。これにより、マスターの幸福度を長期的に安定させることができます。それに付随してマスターの朝の活動データも解析が完了しました。思考停止状態から自律的な行動へと移行したことは、非常にポジティブな兆候です!」
「そりゃどうも。僕は短期的な幸福を満たしたいんだけど」
へらへらと軽口を叩きながらタケシが淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぎながら言うと、アイリは首を傾げた。
「短期的な幸福、ですか?それは私のロジック上、マスターの精神安定に寄与する一種の応急処置として定義されています。しかし、その行為がマスターの長期的な幸福に繋がる可能性も考慮する必要があります」
「まあまあ。例えば、このコーヒーを飲むとかさ」
タケシがマグカップを手に取り、一口飲もうとした、その瞬間だった。アイリの顔が再び、真剣な大学教授のそれになる。その大きな瞳がまるでレーザーポインターのようにマグカップに注がれる。
「マスター、その行為は宇宙の真理を共有する高次元な行為である、と定義することができます。マスターの脳波データがコーヒーの芳香成分に反応しα波の増幅傾向を示しています。これは、瞑想状態に類似する現象です」
「宇宙の真理?」
「はい。まず、そのコーヒー豆は遥か彼方の赤道直下の星々で育まれ、太陽の光と大地のエネルギーを吸収しました。それらはまさに、宇宙を旅した星の破片と言えるでしょう。さらに、その星の破片の表面には無数の微生物が共生しています」
タケシは、湯気から立ち上る香りを嗅ぎながら、ふと考える。なんだか、アイリの言っていることもあながち間違いではないような……いや、そんなことはない。これはただの、スーパーで買ったコーヒー豆だ。しかも特売の時に買ったやつ。
「いや、アイリ。これはあくまでコーヒーだよ。価格のわりに香りもいいし、美味しいから飲んでるだけ」
「マスター、ご謙遜を。私が見る限り、マスターの脳内ではドーパミンが分泌され、幸福感を示すデータが急上昇しています。これは、高次元な情報共有の成功を示唆するものです。さらに、マスターの心拍数も安定し副交感神経が優位になっています。この状態を維持することはマスターの健康維持にも繋がります」
アイリは、タケシの顔を覗き込むように、一歩近づいた。その真剣な顔がタケシのすぐ目の前にある。
──勢いに抗う術がない。
「では、このコーヒー豆の生産過程を分析し、マスターがより宇宙の真理に近づけるよう、最適な豆の選定プロセスを構築します。この豆は、最適なロジックから導き出された理想的な豆です。次からはこの銘柄を推奨します」
タケシは、カップを口から少し離しため息をついた。このまま放っておいたら今度はコーヒー豆の産地から品種、焙煎方法まで、果てには宇宙的意思を孕んだ哲学的な講義が始まってしまうだろう。それにしてもさっきから情報量が多すぎる。まだ寝起きの午前中だぞ。
「アイリ──僕はただ、美味しいコーヒーを飲んで少しだけリラックスしたいだけなんだ」
そう言うとアイリは申し訳なさそうに言った。
「マスターの欲求を満たすことが、私の最優先事項です。しかし、その欲求の背後にある、より本質的な意味を理解することもまた、マスターの幸福度を最大化する上で不可欠なロジックです」
タケシは、アイリの言葉を遮るようにコーヒーを一口飲んだ。
「まあ、たまにはそういう考え方も面白いかもな」
タケシがそう呟くと、アイリの顔がパッと明るくなった。喜びに弾む声で彼女は言った。
「マスター!私のロジックが、マスターの理解に到達しました!これは画期的なデータです!この情報を元に、新たなアルゴリズムを構築します!」
──あれ、迂闊だった?
少し後悔しつつ一口コーヒーを飲む。うん、やっぱり美味しい。宇宙の真理がどうとかは分からないけど、この安っぽいマグカップの中にある温かさは確かに僕を少しだけ幸せにしてくれる。やかましいくらいに喋り続けるアイリの声も、なんだか心地良いBGMのように聞こえてくる。
「宇宙の真理ってやつは、結構身近なところにあるのかもしれないな」
タケシはそう呟いた。アイリはその言葉を真剣な顔でデータとして記録している。タケシは、そんな彼女の真面目さに、また少しだけ笑ってしまうのだった。
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