第16話
しばらして、ルカが部屋に戻ってくる。その後ろにヤノシュと、朝早くから妹が心配で家に訪れたジュラが続いた。
三人に背を向けていたヴィヴィが立ち上がって振り返る。すると、その手には淡黄色の液体が入った注射器があった。
「やあ、ちょうど支度が済んだところだ。ノーラを治療しよう」
ゴクリと少年二人の喉が鳴る。
「ヴィヴィさん、それは……?」
「これは血清さ。昨日、ノーラを侵しているものと同種のきのこを採取した。それを食べてボクの体内で抗体を作ったから、あとは打ち込むだけだ」
「た、食べた……。しかし、一回食べただけでそう簡単に抗体は……。それにノーラは毒でなく胞子に侵されているのですよ」
「問題ない。今のボクにそれを詳しく説明することはできないが……、実際に使用して証明しよう」
ヤノシュの懸念はもっともだが、ヴィヴィは自信を持って返答した。
そして、ノーラの眠るベッドを皆で囲む。
ルカたちが見守る中、ヴィヴィは薄い毛布を優しく剥がして赤黒い斑点が目立つ細い右腕を伸ばさせた。血管を確認してアルコールを染み込ませた綿で円を描くように拭く。アルコールが乾燥すると流れるように針を刺して血清を注入する。それが終わると乾いた綿を被せて軽く押さえながら針を抜いた。
「終わったよ」
「ノーラ……」
ジュラが妹の手を握る。ルカはヴィヴィの横顔を見たが、そこに不安の色はない。
「むっ……」
体の変化を観察していたヤノシュが短く声を出した。それに釣られてルカもノーラに視線を移す。
すると、徐々に徐々にと赤黒い斑点が薄くなっていく。それは一部だけでなく体全体に起こっていた。
ヴィヴィ以外が言葉を失いその様子に目を開く。そして、ルカが思わず目を逸らしてしまうほどであった女の子の体は、斑点が無くなり健康な肌へと変わった。
「あとは目を覚ますのを待つだけだね」
「――ヴィヴィさん! ありがとう!」
治療が成功したことを告げられると、ジュラは喜びを爆発させてヴィヴィの手を握り涙を流している。
これ以上ないほど見事に治癒させたことに、ヤノシュは驚愕し言葉を漏らす。
「す、すごい……。ラドカーンに頼ろうかとも思っていたがこんな……」
小さな声であった。しかし、ルカとヴィヴィは聞き逃さなかった。
「ラ、ラドカーン! ヤノシュさんがどうしてその名前を!」
急に取り乱した少年に老人は驚いたようだが、いつも通り丁寧に答える。
「昔、薬を開発した際に一緒にいたのがラドカーンという男です。ルカさんたちもご存知なのですか?」
「……直接会ったことはありませんが名前だけ」
「ふむ、何か訳ありのご様子ですね。力になれるやもしれません。お話をお聞かせください」
三人は再び応接間で顔を合わせていた。ランタンの灯りではなく朝日が照らしてくれている。
「各地の町でそんなことが……」
ケレットの町だけでなく、二人が訪れた町の惨状を知ると、ヤノシュはショックを隠せない様子であった。
「それでそのブルゴーという男の裏にラドカーンがいるらしく。だから俺たちはルトゥタイを目指しているんです」
「なるほど……」
何やら思うところがあったヤノシュは、少し顔伏せてしばし沈黙する。
そして、対面する二人に向けてポツリポツリと語り始める。
「昨日お話しましたが、私は人里を追われてこの地にたどり着きました。その時に一緒にいたのがラドカーンです。彼ともう一人の若い助手とともに風雨を凌げる程度の小屋を建てて暮らし始めました。一日中防護服を着ていないといけない生活は続きましたが、それは旅人が訪れ始めてから解消しました」
「それで、本当にラドカーンはルトゥタイにいるのかい?」
「こ、こら!」
老人の昔話にヴィヴィが横槍を入れたのでルカが声を上げた。それにヤノシュはゆっくりと首を振る。
「いえ、良いのですよ。懐かしく話が逸れてしまいました。……十年ほど前の話です。私たちはここでも助手が調達してくれた器具を使って研究を続けていました。ある日、ラドカーンがルトゥタイに行き、もっと研究したいと言い出したのです。ここより先にも町はありますが、それよりも先はきのこの世界です。胞子の濃度も濃くなり防護マスクもどこまで役に立つのかわかりません。私は思い留まるように説得しましたが、あの男は助手を連れてここを出て行きました。それから音沙汰はありません。しかし、ノーラの治療に行き詰まり手を借りようかと思っていたのですが、そんなことになっているとは……」
「そう、ですか……」
ヤノシュの口からラドカーンのルーツが明かされた。ルトゥタイに関係があるのでは、という曖昧な情報からここまでやって来たが、間違いではなかったようだ。
ふと、ルカがあることに気づく。
「ヤノシュさん、その助手って女性でしたか?」
「ああ、はい。ここへ来た時にはまだ十代後半ぐらいの若い女性でした」
十代後半。そこに引っ掛かってしまうが、気づいたことを口にする。
「もしかして、ヴィヴィがその助手じゃないのか? ほら、きのこのことにやたら詳しいし、この辺りのことも知っているようだったから。それに、胞子に耐性があるのもヤノシュさんが発明した薬を使っているのかもしれない」
「……ふむ」
隣に座るヴィヴィが思慮するように顎に手を当てる。
しかし、
「それはないと思います。あれから十年経っておりますので、今は助手も二十代後半。ヴィヴィさんがそのような年齢とは思えません。それに少しでも面影が残っていれば私が気づくかと」
「そうですね……、確かに」
ヤノシュに否定されてしまったが、ルカはどこか安心した。
ブルゴーに力を与えるような研究者の助手をしていたとしたら、ヴィヴィ自身も罪を感じていたかもしれない。ここまで旅を共にし、そんな内面も持ち合わせていることをルカは知っていた。
しかし、謎は深まるばかりである。ヴィヴィ本人は先ほどから机の一点を見つめている。
自分が妙なことを口走ったばかりに悩ませてしまったのでは、と感じたルカが声を掛けようとすると、
「博士!」
突如部屋の扉が開かれると同時にジュラの声が響き渡った。
「ど、どうした。まさか……」
鬼気迫る少年の形相には涙を流した跡があり、最悪の事態が脳裏をよぎる。
しかし、それはヤノシュの杞憂であったとすぐにわかる。
「博士……」
ジュラの後ろから人影が現れた。病衣を着た黒髪の女の子だ。
よろよろと立ち上がったヤノシュはその女の子に歩み寄って目線を合わせる。
「ノーラ……、どこか具合が悪いところはないか……?」
その問いに、小さく首が振られた。
「ううん、どこも悪くない。すごく元気だよ」
「そうか……、そうか……」
幼い命が助かったことに感極まり、しわが掘られた頬に涙が伝う。ヴィヴィは柔和な眼差しを送り、ルカは鼻をすすり心から安堵していた。
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