第16話 芽生え始めた感情

 そこには、小さな、黒い箱が、静かに収められていた。


 それは、手のひらに乗るくらいの、古びた木製の小箱だった。表面には漆が塗られていたのだろうが、長い年月を経て、その輝きは失われている。ただ、蝶の形をした螺鈿細工だけが、床の隙間から差し込む夕日を浴びて、鈍く妖しい光を放っていた。


 俺は、ゴクリと喉を鳴らす。

 すすり泣きの声は、まだ続いている。まるで、この箱を開けるのを、急かしているかのように。


 俺は、紗耶の方に視線を向けた。彼女は、俺の肩に頭を乗せたまま、嬉しそうに、そして期待に満ちた目で、その箱を見つめていた。その表情は、まるで恋人からのプレゼントを開けるのを、隣で見守っているかのようだ。


 俺は、震える手で、その黒い箱をゆっくりと持ち上げた。ずしり、と、見た目以上の重さがあった。それは、物理的な重さというよりも、三十年という時間の重みなのかもしれない。


 箱に、鍵はかかっていなかった。

 俺は、意を決して、その蓋を、ゆっくりと開けた。


 キィ、と、小さな蝶番が軋む音が響く。

 箱の中から、古い紙と、樟脳のような、懐かしい匂いがした。

 中には、色褪せた紫色の布が敷かれ、その上に、一冊の小さな手帳が、大切そうに置かれていた。


 それは、黒い革の表紙がついた、古い日記帳だった。


 俺は、まるで聖遺物にでも触れるかのように、おそるおそる、その日記帳を手に取った。表紙は、ところどころ擦り切れて、持ち主の指の跡が、微かに残っている。


 すすり泣きの声が、すぐ近くで聞こえたような気がした。


 俺は、息を殺して、日記帳の最初のページを開いた。

 黄ばんだページ。インクが滲んだ、少女らしい、丸みを帯びた文字。

 そして、その一番上に、持ち主の名前が記されていた。


『鈴木美咲』


 やはり、彼女の日記だ。

 俺は、ページをめくる指が、震えているのに気づいた。


 最初の日付は、三十年前の、春。

 俺は、その最初の一文を、声に出さずに、目で追った。


『今日、席替えがあった。彼の席が、私の二つ前になった。授業中、彼の背中をずっと見ていられる。神様、ありがとうございます』


 心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。

 俺は、ページをめくる。


『体育の授業。彼が、サッカーでゴールを決めていた。汗を拭う横顔が、キラキラして見えた。かっこよかった。その姿を、私だけのものにできたらいいのに』


『休み時間、彼が、別の女の子と楽しそうに話していた。胸が、ぎゅーっと痛くなった。どうして、私じゃないの? 私の方が、ずっと、ずっと、彼のことを想っているのに』


 書かれているのは、恋する少女の、他愛ない日常。

 だが、その一文一文に込められた、あまりにも純粋で、あまりにも一途な想いは、三十年という時を超えて、俺の胸に突き刺さった。


 そうだ。この感情を、俺は知っている。

 これは、星野紗耶が、俺に向けているものと、全く同じ種類の…。


 その時だった。

 すすり泣きの声が、ひときわ大きく、そして悲痛な響きを帯びた。

 それはもはや、すすり泣きではない。嗚咽だ。絶望に打ちひしがれ、救いを求めるような、魂の叫び。


 ひゅっ、と、教室の温度が、数度下がったような気がした。

 窓ガラスが、カタカタと微かに震えている。


「うわっ…!」

 俺は、思わず日記帳を閉じた。すると、不思議なことに、嗚咽の声は、また元のすすり泣きへと戻っていった。


「…喜んでるんだよ」

 隣で、紗耶が、ぽつりと呟いた。

「三十年間、誰にも見つけてもらえなかった、自分の気持ち。それを、悠真くんが見つけてくれたから。きっと、すごく喜んでる」


 彼女は、全く怖がっていなかった。それどころか、その瞳は、まるで自分のことのように、優しさと、そして少しの同情の色を浮かべていた。


 俺は、これ以上、この場所にいることはできなかった。

 俺は、日記帳を黒い箱に戻すと、それを乱暴に自分のカバンに突っ込んだ。


「帰るぞ」

「うん」


 俺が、紗耶の手を引いて教室を出る。

 俺たちの初デートは、こうして、幕を閉じた。


 帰り道、紗耶は、ずっと上機嫌だった。

「ねえ、悠真くん。今日のデート、すっごく楽しかったね!」

「…そうかよ」

「うん! だって、悠真くんの、あんなに真剣な顔、初めて見たもん」


 彼女は、心底嬉しそうに、そう言って笑った。

 俺は、何も答えられなかった。


 家に帰った俺は、自分の部屋に閉じこもり、カバンから、あの黒い箱を取り出した。

 これは、呪いのアイテムか。それとも、真相へと至る、唯一の鍵か。


 俺は、日記帳を手に取り、もう一度、その表紙を開いた。

 今夜は、長い夜になりそうだった。

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