第15話 彼女なりのデート

 美術室での一件以来、俺の心境には奇妙な変化が訪れていた。

 恐怖が消えたわけではない。むしろ、彼女の行動の異常さは、日に日に確信へと変わっている。だが、その恐怖の中に、ほんの少しだけ、別の感情が芽生え始めていた。


 諦観、だろうか。あるいは、慣れ、というべきか。


 紗耶は、俺を恐怖のどん底に突き落としながら、同時に、この物語の真相へと、俺を導いている。俺は、彼女の掌の上で踊らされている、哀れなピエロだ。だが、そのピエロを演じなければ、このサーカスは終わらない。


 俺は、もはや彼女から逃げることを、完全に諦めていた。

 この歪んだラブコメの結末を、俺はこの目で見届けてやる。

 そんな、やけっぱちに近い決意が、俺の中に生まれていた。


 翌日の放課後。俺が、美術室で見つけた絵画『未送信の手紙』について、一人で考えを巡らせていると、紗耶が、いつものように音もなく、俺の隣にやってきた。


「悠真くん、今度の休日、デートしよう?」


 そのあまりにもストレートな誘いに、俺は思わず飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。

「で、デート!?」

「うん。私たち、恋人同士なのに、まだ一度もデートしてないでしょ?」


 彼女は、頬をほんのり赤らめ、少し恥ずかしそうに俯いている。その仕草だけを見れば、どこにでもいる、恋に恋する普通の少女だ。だが、俺は知っている。彼女の言う「デート」が、普通のそれであるはずがないことを。


「…どこに行くんだよ」

 俺が、警戒心丸出しで尋ねると、紗耶は嬉しそうに顔を上げた。

「うふふ、内緒。でも、きっと悠真くんが、今一番行きたい場所だと思うな」


 その言葉に、俺は背筋が凍るのを感じた。

 俺が、今一番行きたい場所。それは、この物語の真相に繋がる場所、という意味だ。


 断るという選択肢は、もちろん、なかった。


 ◇


 そして、日曜日。

 俺は、紗耶に指定された待ち合わせ場所で、頭を抱えていた。


「…なんで、学校なんだよ」


 そう。俺たちの初デートの場所は、休日で誰もいない、静まり返った俺たちの学校だった。用務員さんに事情を話して、特別に開けてもらったらしい。どういう事情を話したのかは、怖くて聞けなかった。


「だって、ここが、悠真くんと私が初めて会った、運命の場所だもん」

 紗耶は、私服姿だった。白いワンピースに、麦わら帽子。その姿は、夏のひまわりのように眩しく、そして、この不気味なシチュエーションとは、絶望的にミスマッチだった。


「さあ、行こっか」

 彼女は、ごく自然に俺の手を握ると、楽しげに歩き始めた。その行き先は、俺の嫌な予感を裏切ることなく、旧校舎だった。


 ギィィ、と軋んだ音を立てて、旧校舎の扉が開く。中は、ひんやりとした空気に満ちており、カビと埃の匂いがした。窓から差し込む光が、まるで教会のステンドグラスのように、床に長い光の筋を描いている。


「わあ、静かでいいね。二人きりになれて」

 紗耶は、心底嬉しそうに、そう言った。

 俺は、もはやツッコミを入れる気力もなかった。


 彼女は、俺の手を引いたまま、迷うことなく廊下の奥へと進んでいく。そして、ある一つの教室の前で、ぴたりと足を止めた。

 そこは、何の変哲もない、空き教室だった。


「ここだよ」

「ここが、どうしたんだ?」

「悠真くん、耳を澄ましてみて」


 俺は、言われるがままに、息を殺して、耳を澄ませた。

 最初は、何も聞こえなかった。ただ、風が窓を揺らす音だけが、ヒューヒューと響いている。


 だが、やがて、聞こえてきた。


 …う…うぅ…


 か細い、すすり泣きのような声。

 それは、風の音ではない。明らかに、誰かが、この部屋のどこかで、泣いている。


 俺は、全身の血が凍りつくのを感じた。

 七不思議の一つ。『誰もいないはずの旧校舎からすすり泣きが聞こえる』。


「な、なんだよ、これ…」

「…可哀想」

 紗耶は、すすり泣きが聞こえる方向を、じっと見つめながら、ぽつりと呟いた。

「ずっと、一人で、寂しかったんだね」


 その時だった。

 紗耶が、俺の手をぎゅっと握りしめ、俺の肩に、こてん、と頭を乗せてきた。

「でも、私たちは、ずっと一緒だよ。悠真くん」


 すすり泣きのBGMをバックに、彼女はうっとりとした表情で、そう囁いた。

 恐怖と、甘い雰囲気がごちゃ混ぜになった、カオスな空間。俺の脳は、完全にキャパシティオーバーだった。


「…なあ、紗耶」

「なあに?」

「お前って、本当に…」


 俺が何かを言いかけた、その時。

 紗耶が、ふと、教室の床の一点を、指さした。


「あ、悠真くん。あれ、なあに?」


 彼女が指さした先。それは、古びた床板が、一枚だけ、不自然に浮き上がっている場所だった。


 俺は、その床板に、何かがあることを直感した。

 これが、彼女からの、次なる「手助け」なのだ。


 俺は、深呼吸を一つすると、震える手で、その床板を、ゆっくりと持ち上げた。

 そこには、小さな、黒い箱が、静かに収められていた。

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