第5話

 風が、彼女の髪と青いスカートを揺らす。それほど勢いは強くないはずなのに、やけに印象的に見えて、その光景がクリアに映った。

 その言葉に、何を返すべきなのだろう。

 突拍子のないジョークだと笑うべきか。それとも信じたフリをして驚いてみせるべきか。生憎、演技は得意ではないので迷ってしまう。

 結局、何かしらの反応を返すことは叶わず、情けないことにただ唖然と彼女を見つめることしかできなかった。

 彼女も彼女で、しばらくこちらの反応を待っていたようだったが、堪え切れなくなったのかそのまま言葉を続ける。


「……今まで、誰にも気づいてもらえなくて、会話だって無理だったんです。もちらん色々と試したんですけど、こうして会話とか、触れるのも初めてで――」


 彼女はそっと目を伏せる。そこにあるのは負い目や諦め。

 信じてもらえるわけがないと決めつけて、かといって自嘲することもしない。

 ただ独り、言葉を落とす。

 その姿は弱々しく見えて、痛かった。


「こ、こんなの信じてもらえないですよねっ」


 また強く笑う。自分のせいで変な空気になることが嫌なのだろうか。形だけでも笑顔を振り撒く。けれど無理やり見せたその顔は、先ほどよりもさらに歪んで見えた。

 どうしたものだろうか。

 白鳥 明日汰に霊感はない。これまでだって幽霊を見たことはなかった。ただテレビで見ている心霊番組は好きな部類だし、見えるなら見てみたいとすら思っている。

 だけど、自称する幽霊に遭遇したシチュエーションは想定外だった。

 それに、これ以上なく人間らしい彼女が幽霊だと思える根拠もなくて。

 僕は首を横に振って、やんわりと否定することにした。


「いきなり幽霊だと言われて、すんなり信じる人はいないんじゃ……」

「そうですよね……。はあ、どうしよう……。――あの、どうすればいいと思いますか?」

「え? えっと、幽霊にしかできないことをする、とか?」

「……幽霊って何ができるんでしょう」

「いや、知りませんけど……」


 本当に幽霊なのだろうか。元々なかった信用がいよいよ地に落ち始めている。

 うんうんと悩むその姿を眺めていると、彼女は不意に柏手を打った。


「除霊ってあるじゃないですか。それで消えたら幽霊ってことになりませんか?」

「その場合君がこの世から完全にいなくなっちゃうんですけど、それでもいいんですか?」

「あ、それは困ります!! なんとか、ちょっとだけ除霊みたいなので証明できませんかね!?」


 そんなお試し感覚でできるものでもないだろう。仮にそれが成功したとしてどうなるのだろうか。もしかしたら少し透けるのかもしれない。


「それで体の向こう側が見えたりしたら、幽霊っぽいかもしれないですね」

「あ、今ちょっとバカだなって思いました!?」

「思ってませんよ」


 しかし楽しい人だとは思う。当然、悪人なんかではなくてもっと純粋に世界に、そして自分に向き合ってくれている。その光景がおかしくて、少しだけ心地がいい。

 それは現実逃避なのかもしれなかったけど、自分の中に籠るよりはずっとマシだと思えた。

 二人の間を満たすように風が抜ける。暑さは残るものの、不快な熱はいつの間にか消えていた。


「……あの、これも何かのご縁だと思って、明日もここでお話できませんか? 良ければ、除霊グッズみたいなのも持ってきてくれれば証明できると思いますし!!」

「除霊グッズなんて、普通の家にはない気が……」

「うーん……、私も詳しくないんですけど……。塩とか撒いてみましょうか?」

「……まあ、それぐらいなら。――それに、ちょうど暇になったところですから。良いですよ」


 浮かぶのは小説のこと。そこから繋がる、マイナスな感情。またもその濁流に吞まれそうになる。

 小説が嫌いなわけではない。嫌うわけがない。読むのも書くのも好きだ。

 だけど今だけは少し、そのことについて考えたくなくなっていた。

 たまには、それ以外に意識を向けるのもいいかもしれない。もしかしたら、小説のネタになる可能性だってある。

 打算的に働いた思考を僕が開示した結果、彼女は飛び上がりそうなリアクションを見せた。


「ホントですか!? じゃあ、明日も同じ時間ぐらいに、お待ちしてますね!!」

「ええと……、そこまで期待されても困りますけどね」


 あまりにもすんなりと次回会う約束を取り付けられてしまった。断ろうと思えば断ることもできたわけだけど、実際幽霊だと自称する彼女に少しだけ興味が湧いていた。

 と、そこで彼女がまじまじとこちらを見ていることに気が付く。


「あの……、何かありました?」

「あ、ううん。何でもない……。何でもない、んですけど、あなたのそれ、二年生ですよね?」


 彼女がそう言って指を差す先は、首から下がるネクタイ。二年生である僕のそれは緑色のものが指定されていて、一年生は赤色。

 見れば彼女のネクタイは赤色のものだった。


「あの、良ければ敬語じゃなくても、大丈夫ですよ。そっちの方が私も落ち着きますし!!」


 そう言ってくれる彼女に、少し戸惑ってしまう。上下関係などに関わりなく、知り合い以外には基本的には敬語で接してきた。わざわざ敬語を止めるよう言ってくる人ともこれまで出会ってこなかったし、とりわけ気にも留めてこなかった。だけど、彼女はどうやら違うようだ。

 少しの思案の後、彼女の意志を尊重することに決めた。


「わかった。えっと……」


 そこでようやく、彼女の名前を知らないことに気が付く。今さら自己紹介をするのも何処か気恥ずかしく、しかし後悔したところで吐いた言葉は戻ってこない。

 どうにか誤魔化せないかと、模索するものの答えを見つけるよりも前に、彼女から手を差し伸べられた。


「――私、化野あだしの かすかって言います」


 夕焼けに、はにかむ彼女が映える。

 伸ばされた白魚のような手を前に、逡巡してしまう。

 この手を取ることは簡単だ。何も難しいことはなく、同じように手を差し出せばいい。そして、自己紹介をするのだ。

 それだけで、彼女との関係は紡がれる。築かれる。始まってしまうだろう。

 その選択は、自分を良くも悪くも変えることになる、かもしれない。

 果たして、小説のことを考えずにそんなことをしていてもいいのか。

 些か、フィクションじみた光景に騙されているだけではないか。

 そんな葛藤や期待を、僕は首を小さく振って払った。


 ただ握手をして自己紹介をするだけだ。そこに何の意味も意図もないだろう。ないはずだ。

 様々な考えが浮かんでは消えていく。きっと正答は浮かばない。

 何より、夏の夕暮れに滲む彼女の笑顔が思考を麻痺させる。

 だから僕は、静かに。

 けれど自身の意志でその手を取った。


「僕は白鳥 明日汰。……よろしくな、化野」


 そうして、彼女と出会った。

 誰もいないその空間。観測する者なんて他にいるはずもない。

 ただ、夜空に控える星々だけが、その始まりを知っているのだった、

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