第4話
「あっちぃ……」
泥水のような熱が体を抜けていく。閉じた汗腺が思い出したかのように汗を作り始め、冷房で冷えた全身に鞭を打っていった。
すぐに屋上に出たことを後悔したが、周囲には遮る建物も無いからか、心地よい風がその足をさらに一歩踏み出させる。
並んだ室外機。存在感を放つ給水タンク。転落防止用のフェンスに鉄柵。
夕陽が等しく、それらを照らし、長い影を作り出していた。
思い切り息を吸い、吐き出す。
肺に溜まった冷気が外の熱気へと入れ替わり、外も内側も暑さに染まる。
まるで存在そのものが、この夏の夕焼けに同化していくようで。
ほんの少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。
より遠くを見ようと、フェンスに近づく。世界が二色のコントラストに分かたれて、よく通る道や馴染みの場所が、ある種の芸術作品のような美しさと共に広がっている。
世界はこれほどまでに煌めいているというのに。
自分はただの傍観者に過ぎない。
そのチグハグさがもどかしくて、目を閉じようとした。
今この瞬間だけは、誰もいない。じわじわと滞留する暑さの中で、どうにか気持ちを静めようとする。
そう、誰もいない。
万が一にも、人が入ってくるはずもない。
そのはず、だった。
「あのっ――、早まらないでくださいっ!!」
鈴の音。例えるのならばそれが一番近い。一音一音が響くように、透明感のある声だ。決して声が小さいわけじゃないけれど、しかし今すぐに消えてしまいそうな儚さが、その音にはあった。そして同時にソプラノ特有の華やかさも感じられる。疚しいことをしている自覚があった僕は、その呼びかけにすぐに振り返った。
透明。
例えるなら、そんな女性だった。
文字通り体が透けているわけではない。薄いベージュに染められたボブヘアーはその白い制服姿と合わさると物珍しくも見えて、整った顔立ちはあどけない幼さを残しながらも、どこか大人びている。
だけど、何よりもまずそのものの第一印象として。
彼女からはどこかへ消え行ってしまいそうな儚さを感じた。
吹けば飛んでしまう、シャボン玉のような存在が校内へと繋がる扉の前に立っている。
対して呼びかけた彼女本人はと言えば、何故か目を丸くしていた。
「え、あれ? あの、もしかして私のこと、見えてるんですか?」
「……どういう意味かは分かりませんけど、普通に見えてますね」
「……っ!! 会話までできてます!!」
ぱっと、表情が華やいだ。淡い印象を放つ彼女は、どういうわけか一介の男子高生に過ぎない僕との対話を喜んでいる。
状況理解が追いつかない。見るからに生きている人間が目の前にいるわけで、彼女の容姿におかしな部分は見当たらない。制服もここの学校のもので、このシチュエーションだけを切り取るなら、立ち入り禁止の場所に足を踏み入れた男子生徒とそれを注意する女子生徒という、まあまあありきたりなものだ。
しかし彼女の反応は、この場には相応しくない。
何せただの男子生徒との会話に驚き、感動すらしているのだから。
ちょっと関わってはいけないタイプの人なのかもしれない、と。そう思い距離を置こうとし始めたところで、彼女が駆け寄ってきた。
逃げる暇も、身構える時間もなかった。
すみません!! という謝罪の前置きには何の効力もなく、柔らかい感触がいつの間にか両手を包んでいた。
「やっ、やっぱり……!! 触ることもできるなんて……っ」
嬉しそうな声と共に小さな手の感覚がしっかりと伝わってくる。少しだけ、力が込められたことも、その機微でさえ感じられた。
「いやいや……っ!? い、いきなりなんですか!?」
無理やり振り払うこともできず、ただ言葉で抗議することしかできない。その抗議の声も困惑で情けなく震えていた。
「あ、すみません……」
そっと、寂しそうに彼女は手を放す。
どうしてそんな残念そうな表情を浮かべるのか。
どうしてその表情を見て申し訳なく思うのか。
納得のいかないことが続いて、少し黙ってしまった。
夕焼けはその輝度を徐々に落としつつあり、眼下のグラウンドでは運動部の顧問が帰宅を促し叫んでいる。
室外機の音がやけにうるさく感じる。
肌を伝う汗が不快に感じる。
流れる時間が特に遅く感じる。
お互いの間に満ちる空気に耐えられず、僕はそそくさと屋上から立ち去ろうとした。
「それじゃあ――」
彼女の横を抜けるように、会釈してすれ違う。
それで、きっと終わるはずだった。
「あ、あのっ……」
すれ違いざまに、彼女はその声を揺らした。
これ以上、何があるというのだろうか。僕と彼女との間には、何もない。呼び止められる道理など、ないはずだった。
「飛び降りないでくださいね」
「え? 飛び降り?」
思わず、振り返ってしまっていた。
そこにはきょとんと、何かおかしなことでも言っただろうかと小首を傾げる彼女がいた。
よっぽど、そのリアクションをしたいのは僕の方だったわけだけど。
「そういえば……、さっき早まらないでとか、どうとか言ってましたけど……」
「えっと……、もしかしてここから飛び降りようとしてたわけじゃない、ってことですか?」
「初めから、そんなつもりはありませんでしたけど」
先ほど脳裏には過ったものの、残念ながら痛いのは苦手だ。どれだけ世界から逃げたくても、自ら命を絶つという手段は取らないだろう。
「よ、良かったあ……」
心底安心したように、彼女は大きな息を吐いた。
感情表現が豊かな人なのかもしれない。コロコロと変わる表情は、見ている分には飽きることはなかった。
「私、すぐ早とちりしちゃうんです。すみません、迷惑かけちゃいました」
「いや、別に……」
謝られるようなことはされていない。いきなり握手をされたのには驚いたが、迷惑とまではいかない。
それに、早とちりである自覚がありながらも行動に移す彼女を、責める気にはなれなかった。
というか、そもそも。
「……そんなに、自殺するように見えました?」
原因は自分にあるような気がした。彼女が行動を取るに足る理由を与えてしまったのではないかと、そう思えて仕方ない。
彼女はその質問に、困ったような悩むような素振りを見せながら、顔色を窺うようにチラチラとこちらに視線をぶつけ、やがて答えた。
「――正直に言うとですね、その、浮かない表情をしてたので……」
「……まあ、そうですよね」
自分自身に嫌気が差していた直後のことだ。負の感情を放っている人間が、人気のない屋上ですることと言えば、どうしたって嫌な予感が過るだろう。
これに関しては彼女は全く悪くない。寧ろ変な雰囲気を出していた僕に非がある。胸中に罪悪感が去来した。
「あの……」
その声はどちらが先に発したものだったか。ほとんど同時に放たれた言葉に、すぐさま沈黙が顔を覗かせる。
「すみません、被っちゃいましたね。お先にどうぞ!!」
困り眉で、けれど明るく笑う彼女に促されて、頷きながら口を開いた。
「なんでいきなり手を握ったんですか? 初対面の異性に、気軽にそういうことするのは良くないと思うんですが……」
「えっ!? いや……っ。これは違うんですっ。誰にでもこんな、手を握るなんてしなくてですね……。でもでも握りたくはあったと言いますか、いえ決してそういう意味ではなく、結果オーライと言いますか……っ」
このタイミングでそのことを聞かれるとは想定していなかったのか、顔を赤らめて慌てふためく彼女の様子に思わず笑ってしまった。ここまではっきりと感情を表現されるのは珍しい。自分の知る範囲では高校生なんて、賢ぶって、表面上取り繕って、大人に近づこうと背伸びする。その中で、自分を決して見ず知らずの人間に曝け出さない。一部例外はあるものの、僕自身がそうだからよく分かっているつもりだ。
けれども、この女子生徒からはそんな特有の不安定さが感じられない。等身大で、自分を隠そうともせず、赤裸々に振る舞う。彼女が意図してそうしているのかは知らないが、他の同年代よりもいくらか接しやすいように感じる。
笑われたことに気がついたのか、取り乱していた彼女は少し視線を外して、呼吸を整える仕草を取った。
一拍、二拍。
深呼吸が夏の夕焼けに溶け込んで、影と混じる。
やがて意を決したように、放たれた彼女のその言葉は、屋上に吹く涼やかな風に運ばれて耳に届いた。
「――私、幽霊なんです」
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