【教師】教師の良心依存がいじめを温存する
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
いじめは良心ではなくルールで抑えるべき
教育の現場では、いじめを無くすための取り組みが日々行われている。しかし、その多くは「人の良心への呼びかけ」を中心に据えている。朝礼での訓話、道徳の授業、学級会での話し合い──こうした活動は、一見すると温かく人間的だが、いじめの抑止という目的に対しては即効性が低い。それどころか、この「良心依存」こそが、いじめを長期化させる原因になっている。
まず、人は必ずしも良心だけで行動を決める存在ではない。特に子供や思春期の生徒は、倫理観や共感力がまだ未発達であり、損得や集団の空気によって行動を左右されやすい。そうした未熟な段階にある者に「相手の立場になって考えよう」「思いやりを持とう」と呼びかけても、それが行動の変化に直結するとは限らない。むしろ、いじめ加害者は呼びかけを聞きながらも、罰や不利益がないと知れば、平然と行為を続ける。
謝罪文化も同じ問題を抱える。形だけの謝罪が繰り返されることで、「悪をしても謝れば許される」という学習が定着してしまうのだ。悪をする → 謝る → 許される → また悪をする──この循環は、制度的な罰則がない限り簡単には断ち切れない。心理学的に見れば、謝罪は本来反省を促す儀式だが、罰が伴わない場合には単なる免罪符になる。加害者は謝罪を「悪を継続するための手段」として利用し、反省する必要性を感じなくなる。
本来、悪の抑止には「悪をすることよりも損になる罰」を設ける必要がある。これは倫理や心の成長に頼るのではなく、社会の仕組みで行動を制御するという発想だ。経済学の合理的選択理論によれば、人は行為の利益と損失を比較して選択する。もし罰が軽く、悪を行うことで得られる利益が大きければ、悪は減らない。逆に、利益を上回る損失を明確に設定すれば、人は自然と悪を避けるようになる。
いじめ防止にもこの発想が必要だ。「いじめはやめよう」という道徳教育だけでは不十分だ。必要なのは、いじめを行えば必ず損をするという制度的枠組みだ。例えば、発覚した時点での出席停止、内申への明確な影響、保護者への損害賠償請求、行動履歴の校内共有などだ。こうした制度があれば、いじめは加害者にとって「割に合わない行為」となり、自然と減少していく。
ところが、多くの教師はこの制度的抑止策を軽視する傾向がある。その背景には、教師自身の「自己演出欲求」がある。良心への呼びかけでいじめが減れば、教師は「自分の人間力や指導力で生徒を変えられた」と感じ、それが自己評価や自信につながる。この成功体験は教師にとって魅力的だ。制度やルールに頼るよりも、自分の力で解決したという物語のほうが、達成感も周囲からの評価も高い。
しかし、この構造は危険だ。もし制度によっていじめが即座に抑止されれば、教師の「人間力を示す舞台」が減る。そのため、一部の教師は無意識のうちに制度導入に消極的になり、良心依存型の指導を続ける。結果として、生徒を守るための最も即効性のある方法が後回しにされ、被害は長引く。
これは教育の世界に限らない。政治や企業でも、問題を制度で解決すると個人の手柄になりにくい。逆に「自分の影響力や人格で解決した」と演出できれば、評価は上がる。この人間の自己演出欲求が、合理的な解決策の導入を遅らせるのだ。
結論として、いじめや校内の悪行を減らすには、人の良心や道徳心に依存してはならない。もちろん、倫理教育は長期的な価値観形成には有用だ。しかし、被害を受けている生徒を守るためには即効性が必要だ。そのためには、悪を行えば必ず損をするという制度を整備し、淡々と適用し続けることが不可欠である。制度による抑止が働けば、謝罪は初めて本来の意味を取り戻し、反省のきっかけとなる。
教師が本当に守るべきは、自分の評価や人間力の証明ではなく、生徒の安全と尊厳だ。そのためには、自分の影響力よりも制度の力を信じ、制度を動かすための行動を取るべきである。良心依存の幻想から抜け出し、現実的で即効性のある仕組みを導入すること──それこそが、教育の現場で悪を減らす唯一の確かな道である。
【教師】教師の良心依存がいじめを温存する 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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