第四章

第31話 深夜のランニング

「――はっはっはっはっ」


 夜の十二時となると、いくら繁華街とはいえ夕方頃と比べれば人通りは疎らになる。夜のランニングという体にしても遅すぎる時間帯、歩道を歩く人々はジャージ姿のまま通りを走っている僕に釘付けになっている。


「はっはっはっはっ」


 僅かながらも羞恥心を感じて、ただでさえ火照っている顔が更に熱くなってしまう。


「はっはっはっはっ」


 いっそのこと笑い飛ばしてしまいたいところだが、今の僕にハハハとあからさまな高笑いをしていられる余裕はない。


「はっはっはっはっ」


 こんなに長い間走っているのは久しぶりで、運動不足の全身が今すぐ足を止めるように声も無く訴えている。脚の筋肉には痺れるような痛みが走り、呼吸を繰り返す肺は今にも潰れてはちきれてしまいそう。うるさい程の鼓動を繰り返す心臓だって、いつ限界を超えて破裂してしまうか分からない。


「はっはっはっはっ」


 それでもこうして走り続けていられるのは、今の僕にははっきりとした目的があるから。これといった手がかりは無いものの、微かに感じられる何かがあることもまた事実だった。


「はっ……」


 四方向からなる巨大な交差点に差し掛かったところで、抱いていた予感は更に大きなものになる。


「……いた」


 棒になりかけていた足を横断歩道手前で止めさせて、息を切らしながらも気配を感じた方向へ顔を向ける。

 赤から青に変わった信号に、架け橋のように大きな横断歩道を渡る人々。その中に目星の人物を見つけて、立ち止まっていた足は躊躇いなくその方向へ動き出す。


「……あの、あの!」


 横断歩道に向かって走り出し、激しい呼吸を繰り返す喉元から精一杯の声を絞り出す。


「あの、すみません!」

「……はい?」


 横断歩道の真ん中でようやく追いつき、繁華街の夜闇に溶け込んでしまいそうな彼女の背後で足を止める。


「……どちら様?」


 怪訝そうに振り返ってきたのは、真っ黒なドレスに身を包む三十代程の女性。どこかのパーティーにでも参加してきたような出で立ちで、長く艶やかな黒髪と厚い化粧も相まってかなり派手な印象を受ける。


「……ようやく、見つけた」

「……?」


 女性は何が何だか分からないとでも言いたげに、息を乱している僕に対して奇異の目を向けてくる。こうして無理矢理立ち止まらせていることもあって、横断歩道を行き交う人々さえ僕のことを好奇の目で見てくる。


「……すみません、先を急いでいるので」


 女性は露骨に顔をしかめると、息を整えている僕から逃げるように背中を向ける。


「……待って、ください」

「……! あなた……!」


 立ち去ろうとした女性の肩を掴み、僕と彼女以外誰もいなくなった横断歩道に引き留める。過ぎ去っていく人々の足音に、車道を走り抜けていく車の走行音。向かいに見える青信号は点滅し、歩行者の為の時間が間もなく終わることを機械的に告げている。


「いい加減にしなさい! これ以上は警察を」

「……春香と、牧浦さんを」


 振り返ってきた苛立たしげな表情に臆することなく、黒布を纏っている肩を更に強く掴み取る。


「春香と牧浦さんを返してもらう、菅将道」

「…………」


 ありったけの敵意を込めて睨みつけると、女性は呆気に取られることもなくただ冷静に僕のことを見つめる。


「……ふ、ふふふ」


 視界の端に見える信号は赤に変わり、堪えきれずに笑い声を漏らす彼女を赤く染め上げる。


「……はははははははは!」

「……!」


 掴んでいた肩から手を離し、全身が赤色に染まっていく女性の下から咄嗟に飛び去る。人っ子一人いない交差点のど真ん中、悪霊の証である赤い霊力の靄が彼女の周囲を埋め尽くさんばかりに溢れ出していく。


「ここは……」


 汗ばんだ体を冷やしていた夜風は止み、不気味な程に冷え込んだ空気が繁華街を包み込む。疎らながらも車道を行き交っていた車も、深夜でも絶えることの無かった人通りさえ、刻一刻と変わりゆく世界からは瞬く間に姿を消していく。


「幽世……」


 一度は自力で抜け出したはずだが、どうやら僕の気づかない内に再び幽霊達の世界に招かれてしまったらしい。


「――流石だね、成瀬クン」

「……あなたは」


 世界の移り変わりに戸惑う暇もなく、立ち昇る赤雲の中からは覚えのある声が聞こえてくる。


「自力で幽世から脱出するばかりか、ワタシの変装さえ見破ってしまうとは」


 薄れていく赤い奔流から、堅苦しいスーツに身を包んだ男が悠然と姿を現す。


「どうやら、本当に霊力をものにしてみせたらしい」

「……菅」

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