第四話 ガラスの靴と、汚れた素足

 足の裏が痛む。まるで針の上を歩いているように。本番の時に履いていた靴が、合ってなかったのか、靴擦れが出来ている。それも相まって、裸足の私は、痛みから逃げるように、近くの公園に滑り込んだ。 真夏の夜の名残で、まだ生温かいプラスチックのベンチに、崩れ落ちるように腰かける。

 アスファルトと土の匂い。遠くで鳴り響く救急車のサイレン。

 乾いた咳が、ごほ、と一つ漏れた。

 足だけではなくて、声帯も痛めてしまった。2時間、舞台の上で台詞を話した後に、あんな大声を出せば、誰だってそうなる。


 「感情に振り回されるな、感情を乗りこなせ」


 入団してすぐの稽古で、坂本さんに言われた言葉が、頭の中で反芻している。役を演じる時だけではなく、日常生活でも、大切なことだ。


 「個人的な感情を稽古場に持ってくるな。」


 坂本さんの演技指導や演出は、日常生活に紐づいていて、普段の生活でも使える「魔法」を沢山、教えてもらった。 

 私は、感情にも振り回されて、個人的な感情を持ち込んでしまった。俳優として、舞台に立つ資格を失ってしまったのかもしれない。

 大きなため息をするが、そんなものでは、都会の喧騒がやむことはなく、大通りでは、会社の上司であろう人に、無理やり飲み会に誘われているであろうサラリーマンの群れを見る。

 会社という舞台で、あなたたちは、どんな俳優として生きているのだろうか?納得できないことや、理不尽な事にも直面して、それでも、奥さんや子供を守るために、我慢して、日々汗をかきながら、必死に生きているんだろう。


 「現実を生きているみんなの方が凄いんだよ、虚構に生きているあなたよりも。」


 劇団に入りたいと言った時、お母さんに言われた言葉だ。言われたときは、意味がわからなかったけれど、働いて、自分の生活を守りながら劇団で活動するようになって、その言葉の重みが理解できる。

 私は、単に自分のやりたくないことから逃げるために演劇を始めたのかもしれない。

 

 私の大きなため息は、世界に届いているのだろうか?そんなことを考えながら、私は、空を見上げる。

 視界に飛び込んでくるのは、夏の大三角。デネブ、ベガ、アルタイル。都会の眩しい光にも負けず、夜空で光を放つ星々。

 月城冴や、相沢杏は、きっと街の明かりにも負けないような、明るい一等星。それに比べて私は、さそり座のアンタレスだ。

 アンタレスは、赤く、そして明るい星には違いないが、水平線の近くにあるため、すぐに隠れてしまい、見つけることが難しい星だ。特に、高い建物が多い、都会では見つけることは不可能に近い。

 きっと私は、誰にも見つけてもらうことが出来ず、輝くことも出来ない。どれだけ、芝居がうまくなっても、俳優として成長しても、私の「見た目」では、誰にも必要とされない。

 現実はいつも不条理で、優しくない。物語はいつも、苦難と絶望の連続だが、必ずと言っていいほど、救いがある。

 それに、舞台に立てば、スポットライトを浴びれば、私は、この世界に承認される。

 結局のところ、現実世界では承認されない私が、舞台の、虚構という場所では、認められるからこそ、私は、ずっと演劇にのめり込んでいたのかもしれない。

 家の鍵も、スマートフォンも、財布も、全部置いてきてしまった。今更、楽屋に戻るのは億劫だなぁ。

裸足のままで、どこまでも、どこまでも、あの星の向こうまで歩いていければどれだけ幸せなんだろうか?

 そんなことを考えると、視界の端を、何かが横切った気がした。都会の真ん中に、ひっそりと存在する公園なんて目もくれず、通り過ぎて行った。

 だが、その私の視界の端を横切ったものは、こちらに戻ってきており、公園の中に入ってくる。

 私は、この世界で一番安全なこの聖域を、侵された気持ちになる。心がざわついている。もしかすると、それは、私の心のざわめきではなく、都会のビル風に煽られた、公園の木々が揺らめいている音だったかもしれない。


「あの、すいません。」


 招かれざる客なのか、それとも私が、この人にとっての聖域を汚してしまったのかは、わからない。

 けれども、彼の少し上ずった男性にしては高めの声が、私の耳小骨を揺らす。その声は、どこか、幼さを残している印象をもたらせる。

 この少年のような大人な男性は、なぜか息を切らせている。膝をかがませて、顔を地面に向けている。息を整えながら、こちらを向いたその顔は、まっすぐとした強い意志を感じさせる強い瞳を宿しており、私を捕らえる。

 身体を起こした彼の瞳を見つめるためには、少し、顎を上げる必要があった。日本人の男性の平均身長よりは、少し高いであろう身長と、その肩幅の広さや、Tシャツ越しにもわかる腕の筋肉が、なぜか彼の少年のような声を打ち消すほどの安心感を与えていた

 「佐藤恵さん、ですよね?ユリイカの。」


 そういった後、彼は少しはにかんだ笑顔で、私を見つめる。

 彼が、私を知っていることに、警戒心が強まったが、その笑顔を見ると、それも弱まっていった。


 「そうですけど、あの、すみません、どちら様でしょうか?」


 私の言葉に、彼が少し、困惑した様子をしている。知り合いかな?

 

「今日の舞台、滅茶苦茶良かったです。その前の舞台も良かったです。」


 彼は少し照れた様子で、早口で言葉を続ける。私は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。ただ、彼の熱っぽい瞳を見つめ返すことしかできない。


「あの、本当にいつもありがとうございます。佐藤さんの演技を見て、勇気を貰っています。」


 その言葉を聞いた私は、自分の心臓の音がいつもより大きくなっていることを、彼に悟られないか、少し不安になっていた。重低音は響くから、万が一、彼の耳にこの心臓の音が聞こえていたら、私は恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだった。

 

「ありがとうございます。嬉しいです。」


 そう言って、照れくさそうに笑うことしか出来なかった。こんな言葉、言われたことがないから、慣れていない。これが、相沢杏や月城冴、それにあの、テオという存在だったら、どんな風に対応したのかな?

 きっと、完璧な笑顔をしながら、握手でもしたんじゃない?私には到底、出来っこなかった。

 私は、立ち上がり、腰かけていたベンチとはさようならをして、公園の出口に向かった。

 彼の言葉は、嬉しい反面、罪悪感も掻き立たせていた。

 私はもう、劇団ユリイカを辞める。それだけじゃなくて、自分の人生で最も大切だった演劇すら手放そうとしている。

 称賛を受け取ることが出来るのは、また舞台に立つ覚悟があるものだけだ。今の私には、その資格がない。

 足早に、彼の元を立ち去ろうとする私だが、彼は追撃を止めない。


「次の舞台は、いつですか?絶対に観に行きます。」


 純真無垢な、彼の真っすぐな瞳が、私を捕らえる。それはまるで欲しいおもちゃを買ってもらった少年のように胸を躍らせている様子に見える。

 彼は、私を攻撃しようなんて思っていない。ただ、私に期待をしてくれているだけなんだ。けれども、それが私の胸を締め付ける。

 

「次は、もうないんです。」


 私の言葉に彼はキョトンとしている。大丈夫、私だって頭が真っ白になる。自分の気持ちを言葉にして、自分自身が驚くなんて経験、なかなか出来ないから。

 言葉にすることで、覚悟をすることが出来たから、悪くはないのかもしれない。

 体感時間にして5分以上、実時間はおよそ10秒といったところだろうか、キョトンとしていた彼が言葉を出そうとしている。

 が、私は、口がどんな風に動くのかを予想することが出来た。どうしてですか?そう聞きたいんだよね?わかるよ、その気持ち。私だって、どうしてかわからないから。

 彼の声帯が、口の動きに付随して、言葉を、波の形に変換して、私の鼓膜を震わす前に、私は、座り込んでいた。

 彼が驚く。その、引き締まった筋肉から汗が零れ落ちている。それが、街灯を反射させて、キラキラと宙に舞っている。

 ああ、美しい汗なんてあるんだなぁ。舞台に立って、役を演じている時の、私の汗は、美しかったのか、それとも、虚構にしがみついている、醜い汗だったのか。確かめるすべもない。いや、確かめたくない。醜かったに決まっているから。だから、もう。

 

「劇団、辞めるんです。俳優も辞めるんです。だから、私に次はないんです。」


 泣きじゃくる、子供のように。

 それは、もうすぐやってくる。受け入れがたい現実と直面する恐怖からかもしれない。

 演劇以外、何もしてこなかったから、ああ、お母さんのいう通りだね、せめて大学にでも、言っていれば、虚構の世界から、現実世界に帰った時でも、明るい未来があっただろうに。

 何者かに、なりたかった。生まれてからずっと自信がなかった私が、誰かに必要とされる為には、演劇しかないと思っていた。いや、思い込んでいた。

 不意に、彼が息をのむ音が聞こえた。ああ、まだ、いたんだ。この地獄の最前列で、まだ見ていたんだ。こんな私が、何者なんかになれるわけないのに。

 演劇なんかするんじゃなかった。演劇に出会わなければ、夢も希望も、持たなかったのに。

 稽古場の隅で、汗だくの私に坂本さんが言った。『佐藤の芝居は、誰かを救う。希望になる』。あの時の、力強い声。真っ直ぐな瞳。信じていた。心の底から、信じてしまっていた。あんなのただの営業トークじゃないか。なんで、なんで気づかなかったの

 稽古では、あんなにも泣くことに苦労したけれど、今は、溢れ出る涙を止めることに苦戦している。そうか、感情というのは、抑えようと思っても溢れ出るものだったんだ。今度の稽古で、試してみよう。

 そんな言葉が頭の中で反芻する。

 違う。私はもう稽古をしない。だから、いらない。今更気づいたって、遅いんだから。

 座り込んで、泣きじゃくっている私を見て、彼は幻滅しているに違いない。ごめんなさい。あなたが憧れてくれた私は、本当の私じゃないの。舞台という、魔法にかかった場所での私なの。舞台から降りた私は、こんなにも弱くて、情けなくて、醜い人間なの。

 21歳、人並外れた容姿は持ち合わせていない。加工アプリで、修正しなければ、SNSで公開できない可愛くない女の子。勉強だって、スポーツだって、人並以下。それ加えて人間性も。好きな人が出来ても、何も出来ず。誰かの物になるのを指を加えて見るしか出来ない。

 魔法が解けたシンデレラみたいに、王子様が私を探してくれないかな?そんなことを、考えてしまう。

 早くいなくなってくれないかな?これ以上、こんな姿を見られたくない。お願い、もう、見ないで?わかってる。それなら、自分の足を使って、この場を立ち去ればいい事も。でも、靴擦れしたこの足では、この重たい重力を跳ね返す事は出来ないの。

 だから、お願い、私の事は放っておいて。

 そんな私の願いとは裏腹に、彼は、私の傍から離れない。私の願いなんて、ただの心の叫びだ。声に出さなければ、彼に届くはずがない。本当にいなくなってほしいなら、この掠れた声で、そう言わなくてはならないんだ。


「私の事は放っておいて」


 彼の表情から、笑顔が消えている。ただ、真っ直ぐに、何かを射抜くような瞳で、私の涙を見つめている。

 ごめんなさい、心の底から謝りたかった。

 けれども、彼の反応は私が願っていたものとは、まったく別の物だった。

 次の瞬間、左手に、湿り気を帯びた、体温を感じた。

 手を握られている。その感触に驚いて、心臓が飛び出そうだった。

 その手の持ち主は、座っていた私を引き上げて、立たせる。そして、その真っすぐな瞳で私を見つめる。


「だったら、僕の劇団に来ない?」


 予想だにしない、言葉に、私は驚いて声も出なかった。

 この絶望の中から救ってくれる彼は、もしかすると、魔法が解けたシンデレラを探していた王子様だったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る