第1章

第1話 孤児院の魔女①

魔女が人を殺す。


それは、自らの生を永らえるためであり、この世にその存在を刻み続けるためだ。


帝国内部に深く潜む魔女は、もはやその見た目だけでは区別がつかない。なぜなら、魔女は魔法によって殺した人間の肉体を奪い、その者として生きることができるからだ。


だが、その冒涜的な魔法には厳格な制約が存在する。


魔女は、自らに心を開いた者にしか、その魔法を発動できない。


ゆえに、彼女たちはあらかじめ標的の情報を徹底的に調べ上げ、救済の仮面を被り、あるいは甘美な色仕掛けを用い、あらゆる手で相手の心を開かせてから、その命を奪う。


そうして、心を許した人間たちの織りなす関係――まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた人間関係を巧みに利用し、魔女は帝国全体に深く、密かに根を張っているのだ。


捕食者のように、音もなく、獲物を絡め取りながら……。



そして、彼女の親友もまた、ある日、魂を抜き取られたかのように息絶えていた。


魔女の手によって。







「ミア!見て見て!すごく面白いお花見つけたよー!」


「もう、セラちゃん。今はお勉強の時間でしょ? さあ戻って、ちゃんとやるの!」


「やだー!勉強なんて、やんないもーん!」


セラは花が咲き乱れる庭を、風のように駆け回る。ミアがその後を追いかけていく。

2人の足元で草が舞い、笑い声と一緒に弾けていった。


「こらっ、二人とも! 庭で遊んでないで、すぐに戻りなさい!」


勢いよく扉が開き、厳しい声が飛ぶ。


「に、ニーナさん……わたしは、セラちゃんを注意してただけで……」


「言い訳は聞きません!」


「ごめんなさい……」

2人はしょんぼりと肩を落とし、涙をにじませながら頭を下げた。




風雨に晒され、灰色にくすんだ木材がどこか荘厳な佇まいを見せる、木造の堅牢な建物があった。 それは、孤児院――帝都に本部を置く修道会が設立した施設だった。


この孤児院は、かつて二人の修道女が共同で子供たちを育てていた。

ニーナと、もう一人——白髪で穏やかな笑みを絶やさない年老いた修道女。

しかし、昨冬の厳しい寒さの中、その修道女は静かに息を引き取り、

それ以来、ニーナが一人で食事も教育も切り盛りしてきた。


窓は小さく、冬の冷気を防ぐため、木製の鎧戸が内側から取り付けられていた。

建物の中庭や隣接地には、子供たちが遊ぶための広場や、小さな畑があり、時折、洗濯物が風に揺れている。


そして建物の一角には、祭壇と十字架、聖画が飾られた祈りの部屋が設けられ、子供たちは朝夕に手を合わせることを習わされていた。


そんな厳かな空気のなか、教室では真面目に筆を走らせる子供たちの姿があった。


――ただ一人を除いては。


「勉強つまんなーい」


木製の机に頬杖をつきながら、不満げに声を漏らす少女、セラ。

手に持った羽ペンを器用に指先でくるくると回しながら、窓の外へ視線を泳がせる。


やがて彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべると、ふいに前の席の背中へペン先を近づけ、こそこそと落書きを始めた。


「ちょ、ちょっとセラちゃん!やめてよっ」


背中に感じたくすぐったさに反応し、少女が小声で振り返る。


「ふふっ、ミア見て見て!猫、描いたんだよー!」


セラはミアの服の裾を引っ張り、得意げに背中を向けて見せた。ミアはふと自分の背中に違和感を覚え、振り返って見ると、服に何やら描かれているのを見つけた。それが猫か犬か、はたまた謎の生物かすら分からない――ただの線の塊のようなものだった。


「ぷっ、なにそれー!」


思わずミアは笑いを堪えきれず、吹き出してしまう。


その瞬間、教壇に座っていた管理人のニーナが机をピシャリと叩いた。


「こらっ、あんたたち!またふざけて!今日のおやつは抜きよ!」


セラとミアは「えぇ〜……」と情けない声を揃え、深く肩を落とした。



子供たちは、薄暗い教室で、羊皮紙の切れ端に羽根ペンを走らせ、修道士・修道女による基礎的な読み書きを学んでいた。


セラは退屈そうに窓の外を眺め、真面目に取り組んでいるふりをして、手元で羽根ペンをくるくる回していた。 ミアは一心に文字を書き写し、時折、わからない点を教壇にいるニーナに小さな声で尋ねていた。


そうして、セラにとって、退屈でしかなかった時間が過ぎていく。しかし、ある一つの音に全神経を集中させて待ち構えていた。

その時だった。


コーン、コーン。


古びた鐘が、待ち侘びた音を響かせる。それは講義終了の合図だった。セラは両手をあげて全身で喜びを表現し、席を飛び出して、ミアの元へ駆け寄る。


「ミア!早く、いつもの場所へ行こっ!」


「うん、いこ!」


彼女たちは飛び出すように教室を後にした。




2人は使われていない一室に入っていた。

部屋は南向きで窓が広く、周囲の木々に遮られることなく、遠くの空や野生動物たちの姿を望める。

天気の良い日は、森を飛ぶ鳥や草をかき分ける鹿の姿がよく見えた。

セラは窓辺の椅子に立ち、足をぷらぷらさせながら外を眺めている。一方、ミアは本を古びた椅子に腰掛けて静かにページをめくっていた。


「ねぇ、ミアってどうしてそんなにいつも本ばっか読んでるの? 外にあんま遊びに行かないよね?」


退屈そうに窓から離れたセラは、ミアの肩越しに覗き込む。


「う、うん……私は、あんまり運動が得意じゃないし……それに読書が好きだから……」


ミアはやや気まずそうに肩をすくめながら答える。セラはふうんと頷く。


「えー、それってつまんなーい」


ミアは静かに栞を挟み、本を閉じた。表紙には、馬に跨った騎士が巨大な獣と戦っている勇ましい絵が描かれている。彼女は指先でその絵をなぞりながら、ぽつりと呟いた。


「本を読むってね……何にでもなれるってことなんだよ。かっこいい騎士のように……。今の私にはなれないけど、本を読んでる間だけは、現実を忘れて、騎士になることができるの」


「な、何にでもなれる!?」


セラは目を輝かせてミアの前にしゃがみこみ、勢いよく問い返す。


「悪い奴らを焼き払うドラゴンにだってなれるの!?」


「う、うん!なれるなれる!」


ミアは少し押され気味ながらも笑って頷く。セラは満足そうにニンマリと笑い、腕を組む。


「それってさ、ドニーに借りた本でしょ? 今度、私にも貸してよ!」


「え、やだよ! セラちゃん、どうせ途中で読むのやめちゃうし……この前貸した時、ページ何枚か無くなってたし……」


ミアはやや眉をひそめて睨むような目を向ける。

だがセラはニヤニヤと笑いながら、懐から小さな梨を取り出した。それは本来なら今日のおやつとして配られるはずのものだ。彼女はそれを指先で軽く弾きながら、ミアの前に突き出す。


「ふふふ……これなーんだ?」


ミアの目が見開かれ、喉が小さく鳴った。

好物の梨に、彼女の手がつい伸びそうになる。


「わ、わかったわ……そしたら私が読み終わったら貸すね」


「やったー!」


セラは得意げに梨をひょいと遠ざけ、ミアの手をくすぐるようにして回避しながら、窓辺に戻っていった。

静かな部屋のなか、子供たちの笑い声がささやかに響いていた。




礼拝堂の午後。

窓から差し込む光は、わずかにオレンジ色を帯びはじめ、外の庭の花の影が長く床へ伸びていた。

祭壇脇の壁には、古びたオイルランプが等間隔に吊るされ、揺れる炎が静かに室内を照らしている。


セラは背伸びしながら、ランプの上蓋を外し、芯を慎重に抜き取った。

指先は迷いなく動き、溜まった油を小瓶へと移す。

透明な液体が瓶の中でゆらめき、炎の光を受けて金色に輝いた。


「……こっちのほうが、きれいに燃えるんだよな」


小さく呟くと、瓶の蓋をぴたりと閉め、エプロンの奥へ押し込む。


「セラ」

背後から低く名を呼ばれ、肩がびくりと跳ねた。


振り返ると、礼拝堂の入口にニーナが立っていた。

背筋を伸ばし、腕を組んだまま、ゆっくりと近づいてくる。


「今日も率先してランプを替えているのか。日中のイタズラっ子とは打って変わって、そこだけは真面目なんだな」


ニーナは感心したようにうんうんと頷く。


「へ、へへへ……やっぱ暗いと、みんなの心も暗くなっちゃうし……」


セラは頭をかきながら、イタズラっぽく笑った。


「しかし、また油をこっそり持ち出してるの?」


声色が少し低くなる。


「……芯を替えるついでに、ちょっと分けただけだよ」


視線を逸らし、エプロンの上から瓶を押さえる。


「油は冬の灯りの命綱。遊びで減らすものじゃないわ」


一拍の沈黙。だが、その口調はすぐに和らいだ。


「……でも、手際は悪くない。灯りを扱える子は、ここでは貴重よ」


「え、褒められた?」


思わず顔を上げるセラ。


「調子に乗らなければ、ね」


ニーナは小さく微笑み、手を伸ばしてセラの頭を軽く撫でた。


その温もりは短い時間で離れていき、彼女は他のランプを確かめるために祭壇の奥へ歩いていく。

セラは撫でられた髪にそっと手を触れ、ほんの一瞬だけ笑みを浮かべた。



月明かりが窓から差し込み、柔らかな光が子供たちを包んでいた。

共用の大部屋には粗い羊毛の毛布が敷かれ、子供たちはそれにくるまれて静かに眠っている。


その静けさの中で、ミアがそっと布団から起き上がった。足元の子供たちを踏まないように、一歩ずつ慎重に歩く。


隣の寝床に目をやると、セラがぐっすりと眠っていた。彼女はいつもどおり、隣の男の子の頬を足で蹴り飛ばすという見事な寝相を披露している。


ミアは小さく笑みを浮かべながら、音を立てぬよう静かに寝室の扉を開けた。

あかり一つない廊下に出ると、ゆっくりと足を進め、廊下の奥の一室の前に立つ。そして、軽くノックし、小さく囁いた。


「起きてる? ドニー?」


「起きてるよ。ミア、君なら入っていいよ」


——部屋の扉が静かに開いた。ミアはそのまま中へと入る。


他の部屋とは違い、そこには異様な空気が漂っていた。

ブリキの人形、熊の頭部の剥製、そして壁一面に広がる巨大な本棚と、隙間なく並べられた無数の本。


この部屋の主、ドニーはセラやミアと同じく孤児院の子供だったが、幼い頃から精神的な病を抱えており、他の子どもたちと隔てられ、特別にこの奥の部屋を与えられていた。


「本、貸してくれてありがとう。とっても面白かった!」


ミアはドニーから借りた本を差し出し、瞳を輝かせながら語り出した。


「特に、フェルナンドが獣に追い詰められて、最後に一矢報いる場面、すっごくかっこよかった!」


「そうか、それは良かったよ」


ドニーは穏やかに微笑むと、本棚から何かを探し出し、一冊の本を差し出した。


「これ、とても面白い本なんだ。君に貸してあげるよ」


ドニーのやつれた目がミアを見つめる。その手に握られた本の表紙は真っ黒に塗りつぶされており、タイトルにはただ一文字——『魔女』とだけ記されていた。


「……変な本」


ミアは不安げな表情で表紙を見つめた。


「でも、気に入ってもらえるよ」


「うん、ありがと……」


ミアは軽く頭を下げ、部屋を後にしようとした——その背中に、ドニーの声が追いかける。


「ミア、また来てくれるよね?」


その声は、あまりに優しく、少し切なさを含んでいた。


ミアは振り返らずに答えた。


「うん、本を借りに——ううん、本なんてなくても、また会いに行くよ」


そう言って、彼女は扉を閉めた。


ミアは緩んでしまう口元をそっと本で隠した。その、真っ黒な本で。




昼下がりの午後。講義が終わった2人は、いつものように、あの静かな部屋へと足を運んでいた。

セラは外で追いかけっこでもしていたのか、白い衣服のあちこちに汗と土の汚れがこびりついている。

対照的に、ミアの服は白く、皺一つない。


セラの目がキラキラと輝きながら、ミアを見つめる。


「ミア!もうあの本、読み終えたでしょ?ねえ、貸して貸して!」


待ちきれない様子で、その場をピョンピョン跳ねてはしゃぐセラに、ミアは苦笑しながら手元の本を差し出す。

だが、それは昨日読んでいたものとは違っていた。


「あっ……!」


ミアは急いでその本を引っ込める。


「ごめん……昨日、あの本はドニーに返しちゃったの」


俯きながら申し訳なさそうに告げるミア。

だがセラは、まるで気にしていないかのように明るく返す。


「大丈夫、大丈夫!じゃあ、今度は私が直接ドニーに借りに行くから!」


「え、それは……」ミアが言いかけるも、その言葉を遮るように、セラの声が続く。


「じゃあさ、今ミアが持ってたこのヘンテコな本、一緒に読もうよ!」


気づけば、ミアの手から本はセラの手の中へ移っていた。

その表紙は漆黒に塗りつぶされており、まるで影のようにミアの胸元へ迫ってくる。


しかしながら、題名だけは白くぼやけていた。それはインクの白ではなく、まるで闇に溶け込んだ光が、読む者の魂を吸い上げて輝いているかのようだった。


セラはその表紙を目の前にかざし、じっと見つめながら首をかしげる。


「うーん……この題名、なんて読むの?」


目を細め、唸るセラに、ミアがそっと優しく声をかける。


「『魔女』って読むんだよ」


「ほほーん……」


わかっているのか、わかっていないのか。セラは曖昧な声をあげて頷いた。


そして二人は、部屋の隅に置かれた古びた木製の椅子に並んで腰を下ろした。

セラの手の中で、黒一色の本がきしむような音を立てながら、ゆっくりと開かれる。


二人の目に、真っ先に飛び込んできたのはたった一つだけの文字。


『魔女』


真っ白なページの中央に、その赤黒い文字は、乾いた血を染み込ませたように浮かび上がっていた。


セラは小首をかしげた。文字の意味をまだ十分に知らないのか、何の感情も示さない。

ミアは喉を鳴らし、その言葉を声に出して読んだ。


「……魔女は、この世の理から外れた者。その魂は永遠にさまよい、尽きぬ渇きを抱えている。彼女たちは自らの存在を永らえさせるため、絶えず新たな器を探している」


ページをめくるたび、紙の上の活字が不気味なまでに鮮明になっていく。


「魔女が肉体を奪うには、相手の心を開かせなければならない。これが唯一にして最大の弱点。ゆえに魔女は愛を囁き、慈悲の仮面をかぶり、甘い言葉を弄して他者の心の奥へ入り込む。そして――心を許した瞬間、魂を抜き取り、その肉体を乗っ取るのだ」


読み上げる声が、いつの間にか震えていた。

ミアの肩がわずかに上下し、額には冷や汗が浮かんでいる。

セラが横目で見たとき、その顔は土気色にこわばっていた。


「……この本を手にした者よ。心を開くことは幸福を招く。だが同時に、それは魔女にとって――あなたが『生きる価値のある器』である証だ。この書に触れた瞬間から、あなたは魔女の標的かもしれない。……恐れることはない。魔女は、ただ、あなたの“永遠”を望んでいるだけ――」


ミアの声が唐突に途切れた。

呼吸が乱れ、視界が揺れる。次の瞬間、椅子からずり落ちるように膝をつき、そのまま床に崩れ落ちる。


「ミア!?」


セラは慌ててミアの身体を抱きとめ、その背を支えた。


「ありがと……」


ミアはかすれた声でそう言いながら、冷や汗を滝のように流していた。

セラは自分の袖でその汗を何度も拭き取ろうとするが、その顔はどこか焦点が合っていない。


ようやく呼吸を整え、ミアは椅子に戻った。

だが、その瞳の奥には、もはや別人になったかのように、光を失っていた。




すっかり日が沈み始め、オレンジ色の夕陽が窓越しに差し込んでいた。


「そろそろ戻ろっか」


セラがそう言って立ち上がり、2人は部屋を後にした。

長い廊下を歩きながら、大広間へと向かう。今日の夕飯はなんだろうと、2人で他愛もない話をしていると――


突き当たりの角から、大柄な男が現れた。


伸び放題の髭が顔を覆い、もはや口元すら見えない。だが、橙色のコットを羽織り、胸元には宝石の飾りが揺れている。見た目は獣のように豪快だが、その目はくりくりと丸く、親しみのある笑顔を浮かべていた。


「おお〜っ!! セラじゃねぇか!!」


「ヴァウドおじさんだーっ!」


セラは両手を上げ、駆け出す。

ヴァウドも笑いながら腰を落とし、突っ込んでくるセラをがっちりと抱きとめた。


勢い余って少し後ろにのけぞりながらも、ヴァウドは軽々とセラを持ち上げ、くるりと一回転。セラはそのままヴァウドの肩の上へと飛び乗る。


「最近来なかったけど、どうしたの?」


セラは彼のもじゃもじゃの髭を引っ張りながら、問いかけた。


「ああ、ちょっと仕事が立て込んでな。すまねぇな」


ヴァウドは、かつてこの孤児院の設立に資金を提供した帝都の修道会の人物であり、子どもたちにも慕われている存在だった。


彼は懐から包み紙に包まれたお菓子を取り出し、セラに差し出した。


「ほれ、これが楽しみだったんだろ?」


「ありがとー! ヴァウドおじさんっ!」


セラが嬉しそうにお菓子を受け取ると、ヴァウドはもうひとつ包みを取り出し、ミアの方へと歩み寄って手渡した。


「はいよ、ミアにもひとつ」


「ありがと……」


ミアは両手で丁寧に受け取り、そっと包み紙を開く。中には小さな砂糖菓子が入っていた。彼女は一口かじる。


一方で、セラはヴァウドに持ち上げられ、くるくると宙を回っていた。

彼女の笑い声が廊下に響く。


その様子を、ミアは少し離れた場所からじっと見つめていた。観察するように、それはとても、静かな表情で。


すると、ヴァウドの体がふいにブルッと震え、肌にはホツホツと冷や汗をかいていた。

笑顔を保ったまま、彼はそっとセラを床に下ろす。


「ヴァウドおじさん?」


セラが心配そうに覗き込む。


「ああ、大丈夫、大丈夫。ちょっと風邪を引いちまったみたいだな。今日は、ニーナさんに用事があって来たんだ。それだけ済ませたら、もう帰るとするよ」


そう言い残し、ヴァウドは角を曲がって姿を消した。


セラは、見えなくなるまで小さく手を振り続けていた。


突然、セラが何かを思い出したようにポンッと手を打った。


「そうだ! この廊下をまっすぐ行った先に、ドニーの部屋があるんだよね!」


嬉しそうに言うや否や、くるりと踵を返し、勢いよく走り出す。


「ちょ、ちょっと! セラ、待って!」


ミアは慌てて声をかけたが、セラはまるで耳に届いていないかのように、そのまま一直線に廊下を駆けていく。


「待ってってば! ダメだよ、勝手に行っちゃ!」


何度も叫ぶ。けれどセラは止まらない。楽しそうに、軽やかに、どんどん遠ざかっていく。


「……セラ!」


ミアは歯を食いしばり、ぎこちなく走り出す。


彼女の動きは不自然に硬く、脚が縺れかけた。白い服の胸元は痙攣するように、荒い呼吸が漏れる。


「は……、はぁ、待って……」


声は細くなり、脚が重くなる。手を伸ばしたが、その動きは空虚だった。


そのとき、セラは廊下の奥の扉――ドニーの部屋の前で立ち止まり、迷いなくノブに手をかけた。


「セラ、ダメ、開けちゃ……!」


だがその声は遅かった。


ガラリッ――


扉が音を立てて開かれる。


中は、蝋燭の灯りすらなく、沈んだ空気が淀んでいる。薄暗い部屋には、びっしりと本棚が立ち並び、積まれた書物の影が、まるで生き物のように床に這っていた。


部屋の奥、机に突っ伏すようにして、少年が一人座っていた。


セラは、ふらふらと歩み寄り、その横顔を覗き込む。


「……ドニー? ドニー? 初めまして、かな?」


屈み込み、小さく首を傾けながら、セラはそっとドニーの頬をつついた。


「本借りにきたよー。ドニー? 起きてー」


ツン、ツン。頬を押す指先に、まったく反応が返ってこない。


やがて、少し強く押すと――


椅子の背もたれに寄りかかっていたドニーの体が、崩れるように横へと滑り落ちた。腕が垂れ、首が傾ぎ、鈍い音を立てて床に倒れる。


セラは立ちすくんだまま、何も言わず、何も動かず、ただその場に固まっている。


後ろから、ようやく追いついたミアが廊下に現れる。肩で息をしながら、セラの背中越しに、部屋の中を覗く。


目に飛び込んできたのは、ぐったりと倒れたドニーの体。胸は上下していない。目も開いたまま、どこか遠くを見ているようだった。


ミアは立ち尽くし、口を開けたまま声を出せない。


セラは一歩も動かず、ただ肩だけが、ピクピクと微かに揺れていた。


その小さな背中の上、白い衣の袖がじんわりと濡れていた。


部屋の奥では、机の上に置かれた蝋燭の芯が、使われることなく沈黙していた。

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