EP 13

箱庭の序曲、最初の波紋

フィーリアの里に、穏やかながらも活気に満ちた「日常」が根付いて、数ヶ月が過ぎた。

水田は二度目の収穫を終え、蔵にはフィーリア米が山と積まれている。味噌の芳醇な香りは、もはや里の原風景の一部だ。

九尾の商人ユリリンの手腕により、「フィーリア・ブランド」は大陸の富裕層の間で瞬く間に広まり、里には莫大な利益がもたらされていた。その資金で、タロウはスキルを使い、エルフたちが望む本や楽器、快適な生活用品などを次々と提供した。

そして、ドワーフの名工ゴッドンが作り上げた森の要塞は、ライザの訓練を受けたエルフの警備隊によって運用され、もはや伝説の魔竜でも侵入は不可能とまで言われる鉄壁の守りを誇っていた。

タロウは、自らが作ったサウナで汗を流しながら、この完璧な楽園の完成に満足のため息をついていた。

(王様だった頃より、ずっと充実してるな……。みんなが笑って、美味いもん食って、安全に暮らせる。これ以上の幸せはないだろ)

だが、その静寂は、唐突に破られた。

ギィン、ギィン、ギィン!!

里の外縁部に設置された、ゴッドン作の『魔力探知式警報機』が、甲高い警告音を鳴り響かせたのだ。それは大規模な侵攻を示す赤の警報ではない。未登録の生命体が、防衛ラインの第一区画に侵入したことを示す、黄色の警告だった。

「第四監視所より報告! 南西の森に、未登録の生命体、約20! 軍隊ではありません!」

「ライザ様、ヒブネ様、出動準備!」

里が一瞬にして緊張に包まれる。サウナから飛び出したタロウも、急いで服を着て指揮所へと向かった。

指揮所の水晶板には、レンズと魔力を組み合わせた監視装置からの映像が映し出されている。そこには、軍隊ではない、ボロボロの衣服をまとった一団が、森の中をよろめくように進む姿があった。

「これは……」

ライザとヒブネが率いる警備隊が、現場に急行する。

彼らが森の中で発見したのは、武装した兵士ではなく、傷つき、飢え、疲弊しきった獣人族の集団だった。狼の耳を持つ者、兎の耳を持つ者……そのほとんどが、女子供や老人だった。

「お願い……助けて……子供が、もう歩けないの……」

一人の狼耳の母親が、ぐったりとした幼子を抱きしめ、その場に崩れ落ちた。

彼らは、フィーリアの里に保護された。

サリーの回復魔法が負傷者にかけられ、温かいフィーリア米の粥が振る舞われる。

事情を聞いたタロウたちの表情は、次第に険しいものになっていった。

彼らは、ソルテラ帝国とザオ・ワイルダー連合王国の国境付近にあった、小さな村の住民だった。

「帝国の……『獅子帝』の軍隊が、突然村に……。『獣王への見せしめ』だと言って、村を……畑を、家を、全部……」

母親は、涙ながらに語った。帝国軍による、一方的な焼き討ち。それは、獣人国への恫喝と挑発を目的とした、あまりにも無慈悲な蹂蟙行為だった。

その夜、長老バウサの家で、緊急の会議が開かれた。タロウ、サリー、ライザ、ヒブネ、ゴッドン、ユリリン、そしてバウサ。フィーリアの中枢を担う者たちが、顔を突き合わせる。

「彼らを保護すべきです。森に助けを求めてきた者を見捨てるのは、エルフの理に反します」

ヒブネが、固い口調で言った。バウサも静かに頷く。

しかし、ユリリンが冷静に反論した。

「甘いことを言わないで。彼らを匿うということは、ソルテラ帝国を公然と敵に回すということよ。今、ようやく軌道に乗り始めた交易も、全てが水の泡。帝国は、我がフィーリア・ブランドの最大のお得意様でもあるのよ?」

ライザも、厳しい表情で続く。

「戦力の問題もある。ゴッドン殿の防衛設備は確かに強力だが、大陸最強と謳われる帝国魔導兵団を相手に、どこまで持ちこたえられるかは未知数だ。全面戦争になれば、この里とて無傷では済まない」

「ふん、上等じゃねえか!」

ゴッドンが鼻息荒く言った。

「帝国の兵隊なんぞ、儂の作った防衛網で、一人残らずスクラップにしてくれるわい!」

意見は割れた。人道か、実利か。平和か、戦争か。

全員の視線が、最終決定権者であるタロウへと集まる。

タロウは、黙って目を閉じていた。脳裏に浮かぶのは、粥をすすりながら、久しぶりに安堵の表情を見せた獣人の子供たちの顔。そして、理不尽に全てを奪われ、絶望に打ちひしがれる母親の涙。

それは、かつて自分がいた平和な日本では、決して許されない光景だった。

タロウは、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、迷いの色はなかった。

「――彼らを、保護します」

その声は、静かだったが、揺るぎない覚悟に満ちていた。

「ユリリンの言う通り、交易は止まるかもしれない。ライザの言う通り、戦争になるかもしれない。でも、目の前で助けを求めている人たちを見捨ててまで守る平和なんて、俺は欲しくない。俺たちが畑を耕し、壁を作ったのは、こういう人たちを守るためじゃなかったのか?」

タロウは、全員の顔を見渡して言った。

「美味い飯を食って、安全な家で、みんなで笑って暮らす。その『みんな』に、彼らも入れてあげましょう。もし帝国が、それに文句があるというのなら……」

タロウは、不敵に、しかし優しく微笑んだ。

「――その時は、大陸最強の帝国とやらと、喧嘩してやろうじゃないですか」

この瞬間、フィーリアの里は、ただの隠れ里であることをやめた。

一つの確固たる意志を持つ独立勢力として、サバラー大陸という「箱庭」の舞台に、正式に名乗りを上げたのだ。

森の遥か彼方では、帝国軍の斥候が、フィー-リアの森から立ち上る複数の煙(炊き出しの煙)を、訝しげに監視していることを、まだ誰も知らなかった。

物語の歯車が、ゆっくりと、しかし確実に回り始めた。

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