第2話 女王の憂鬱と太陽の影
初陣の夜に姉が失ったものは、あまりにも大きかった。
そして、その勝利がチームに残した爪痕もまた、深く鋭かった。
『チーム・レクイエム全メンバーは、放課後、月桂宮へ集合せよ』
花菱瑶子様の、ガラス細工のように冷たく透き通った声が、学院のスピーカーから響き渡る。月桂宮とは、彼女が女王として執務を行う生徒会室の呼び名だ。その声には、昨日の戦闘に対する明確な非難の色が滲んでいた。これは裁判なのだと、誰もが理解した。
重いマホガニーの扉を開けると、そこはもう戦場だった。
部屋の中心で、瑶子様は静かに私たちを見据えている。その後ろには、いつも通り侍女の時鳥いつきさんが影のように控えていた。
その視線の先――まるで被告席に立つように、東雲あかりさんが腕を組んで立っている。
「昨日の戦闘記録は全員確認しましたね」
瑶子様の静かな問いに、部屋の空気がさらに凍り付く。
その沈黙を破ったのは、やはり太陽だった。
「ごっめーん! 私がちょっと張り切りすぎちゃったみたいで!」
あかりさんは、てへへと舌を出しておどけてみせる。
だが、その笑顔は痛々しいほどに乾いて見えた。昨日の戦闘で、彼女もまた何かを失ったのかもしれない。その「何か」の正体を、まだ誰も知らない。
「張り切りすぎた?」
瑶子様の眉が、険しく吊り上がる。
「東雲、貴方は状況を理解していますか。貴方の独断専行が、チーム全体を崩壊させかねなかった。水澄がいなければ、貴方は今頃どうなっていたか」
「でも、結果オーライでしょ? 勝てたんだから。誰も怪我してないし」
「結果が全てではありません! 私たちの戦いは、一人の英雄譚であってはならない。精密な連携、計算された布陣、それらが完璧に組み合わさって初めて、私たちの命は保証されるのです。貴方のような予測不能な要素は、全体のハーモニーを乱すただの雑音でしかありませんわ」
「ハーモニーねぇ」
あかりさんは、ふっと鼻で笑った。
「戦場でピアノでも弾くつもり? 私たちは、そんなお綺麗な芸術家サマじゃない。泥水啜って、ボロボロになって、それでも仲間を守る。ただの兵士だよ」
「貴様…!」
空気が、張り詰めた弦のように震える。
リーダーとしての義務を説く瑶子様。仲間を守るという結果を説くあかりさん。
どちらも間違っていない。だからこそ、二つの正義は決して交わらないのだ。
見かねた伊織さんが、おずおずと二人の間に割って入った。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。瑤子様の言うことも、あかりさんの言うことも、どっちも正しいと思うから」
「伊織さんは黙っていてくださる?」
瑶子様の冷たい一瞥に、伊織さんはびくりと肩を竦めた。
「これは、チームの規律の問題です。そして、私と彼女の、戦い方の問題でもある」
結局、会議は瑤子様の一方的な宣告で幕を閉じた。
「東雲、貴方には一週間の謹慎を命じます。その間、自分の行動の意味をよく考えなさい」
「…やってらんない!」
あかりさんはそう吐き捨てると、扉を乱暴に開けて部屋を飛び出していった。
夜凪しおりさんが、何も言わずに、ただ静かにその背中を追っていく。まるで、太陽に寄り添う影のように。
部屋に残されたのは、どうしようもない気まずさだけだった。
私は、ただ立ち尽くす。
壁に寄りかかっていた零お姉ちゃんは、最初から最後まで一言も発しなかった。彼女にとって、これは他人事なのだろうか。
「…こなみ、帰るぞ」
短くそう告げて、零お姉ちゃんが部屋を出ていく。私は慌ててその後を追った。
月桂宮を出る間際、私は振り返る。
女王は、一人、玉座で疲れたようにこめかみを押さえていた。
その肩は、彼女が背負う世界の重みで、今にも砕けてしまいそうに見えた。
*
寮に戻る途中、中庭の噴水の縁に座るいつきさんの姿を見つけた。
その手には、白磁のティーカップ。ふわりと、心を落ち着かせるハーブの香りが漂ってくる。
私は、吸い寄せられるように彼女の隣に腰を下ろした。
「いつきさん」
「…葉月さん」
「それ、瑶子様のですか」
「はい。瑶子様は、少しお心が高ぶられると、頭が痛む癖がおありでして。これは、私が調合した特製の鎮静茶です」
彼女は、当たり前のようにそう言った。
私は、衝動的に、ずっと聞きたかったことを口にしていた。
「いつきさんは…瑶子様のこと、どう思ってるんですか」
私の失礼な問いに、いつきさんは少し驚いたように目を見開いた。
そして、すぐにいつもの能面のような無表情に戻る。
「どう、とは」
「だって、瑶子様はあんなに厳しくて、いつもピリピリしてて…」
いつきさんは、カップの中の揺れる水面を見つめている。
「あれが、あの方の戦い方なのです」
「え?」
「瑶子様は、全てを背負うと決められた。チームの命も、世界の運命も、そして憎まれ役になることさえも」
彼女は静かに語り始めた。
「私は、分家の生まれ。本家である花菱家に仕え、次期当主である瑶子様の影となることが、生まれた時からの定めでした」
「定め…」
「はい。幼い頃の瑶子様は、とても愛らしい、普通のかわいらしいお嬢様でしたよ。花が好きで、鳥が好きで、そして誰よりも、私の淹れる紅茶が好きでした」
いつきさんの口元に、本当に微かな、幻のような笑みが浮かぶ。
「ですが、巫女の才能に目覚め、花菱家の次期当主としての教育が始まってから、あの方は変わられた。いいえ、自らを変えられたのです。弱い自分を殺し、世界を守るための『女王』という名の鎧を、その身に纏われた」
「鎧…」
「あかりさんのような太陽の輝きは、多くの人を惹きつけ、勇気づけるでしょう。ですが、その光が強ければ強いほど、その影もまた濃くなる。瑶子様は、自らその影を引き受けておられるのです。誰かが厳しく規律を説かなければ、チームはあっという間に空中分解してしまうから」
私は、言葉を失った。
あの孤高の女王が、自ら孤独を選んでいる? チームを守るために?
「どうして、そんなこと…」
「それが、あの方の仰る『高貴なる者の義務』なのでしょう。私には、その本当の重さは分かりません。私は、ただの影ですから」
そう言うと、いつきさんは立ち上がった。
「私は、瑶子様が瑶子様で在り続けるためのお手伝いをするだけです。このお茶のように、あの方の痛みを、ほんの少しでも和らげるのが、私の存在意義ですから」
去っていく彼女の背中は、侍女のそれとは思えなかった。
それは、自らの意志で、たった一人の女王に全てを捧げると決めた、騎士の背中だった。
*
その夜、私は部屋の窓から中庭を見下ろしていた。
昼間の喧騒が嘘のように、静まり返っている。
ベンチに、二つの人影があった。あかりさんと、しおりさんだ。
月明かりの下、あかりさんが膝を抱えて座り込んでいる。
「…私、間違ってるのかな」
あかりさんの、か細い声がここまで聞こえてくる。
「瑶子先輩の言う通りなのかな。私のやり方じゃ、いつかみんなを危険な目に合わせるだけなのかな」
隣に座るしおりさんは、何も言わずに、ただ黙ってその言葉を聞いている。
「わかんないんだよ、最近…」
あかりさんは、続ける。
「前は、ただ楽しかった。強くなって、みんなを守って、みんなが笑ってくれるのが嬉しかった。でも、最近、その『嬉しい』って気持ちが、どんなだったか、よく分からなくなるんだ」
彼女は、自分の胸をぎゅっと掴む。
「ここに、穴が開いちゃったみたいに、スースーするんだよ。だから、もっと戦わないと、もっとみんなを守らないとって、焦っちゃう。じゃないと、私が私じゃなくなっちゃいそうで…!」
ああ、そうか。
私は、やっと彼女の焦りの理由を理解した。
太陽は、燃え尽きるのが怖いのだ。
輝きを失い、ただの冷たい石ころになってしまうのが。
だから、必死で燃え続けようとして、空回りしている。
その時、しおりさんが、そっと歌い始めた。
それは、子守唄のように優しく、月の光のように静かなメロディだった。
聞いたことのない、でもどこか懐かしい歌。
歌いながら、しおりさんはあかりさんの頭を優しく撫でている。
「あかり」
「……」
「貴方は、太陽でいなきゃ、なんて思わなくていいんだよ」
「でも…!」
「私にとっては、違うから」
しおりさんは、あかりさんの顔を覗き込むようにして、優しく微笑んだ。
「世界中の人にとっては、貴方は眩しい太陽かもしれない。でも、私にとっては、貴方は太陽じゃない。私の、ただ一人の『あかり』だよ。熱すぎたら火傷しちゃうし、いなくなったら凍えちゃう、めんどくさくて、手のかかる、たった一人の光」
「……しおり」
「だから、燃え尽きそうになったら、ちゃんと言うんだよ。『助けて』って。そしたら、私がこうして、いつでも歌ってあげるから。貴方だけの、夜の歌を」
あかりさんの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
彼女は、子供のように声を上げて泣いた。
失いかけていた「悲しい」という感情が、しおりさんの歌声に呼び覚まされたように。
しおりさんは、ただ黙って、泣きじゃくるあかりを抱きしめていた。
太陽の影に隠れていた月が、今、確かに、太陽そのものを照らしていた。
それは、誰にも邪魔できない、二人だけの聖域だった。
私は、そっと窓のカーテンを閉める。
部屋に戻ると、零お姉ちゃんがベッドで静かに本を読んでいた。
「…見ていたのか」
「…うん」
彼女は、何も言わずに、ただ私を見つめている。
その瞳に、私は問いかける。
瑶子様といつきさん。
あかりさんとしおりさん。
みんな、あんなに強い絆で結ばれている。
じゃあ、私たちは?
私は、空っぽのあなたに、何をしてあげられるの?
言葉にならない私の問いを、彼女は見抜いたようだった。
彼女は静かに本を閉じると、ベッドから降りて、私の目の前に立った。
そして、不意に、私の頭をそっと撫でた。
その手は、やっぱり少し冷たかった。
「…私たちには、歌も、お茶も、ないかもしれない」
彼女は、静かに言った。
「だが、君はここにいる」
「…うん」
「私が、ここにいる」
その言葉は、事実を告げているだけのはずなのに。
なぜか、私の心の奥に、温かい雫のように落ちていった。
姉と妹。ただ、それだけ。
今は、それでいいのかもしれない。
空っぽの心に色を取り戻す方法は、まだ分からないけれど。
私があなたのそばにいる。
あなたが、私のそばにいる。
それだけで、今は、前に進める気がした。
女王の憂鬱も、太陽の影も、全てを飲み込んで、私たちの静かな夜は更けていく。
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