残照のアルカディア
すまげんちゃんねる
第1章 春の胎動
第1話 味のしないクッキー
その日、私たちのチームは産声を上げた。
そして、その日の夜に、私の姉は味覚を失った。
「――葉月こなみ、本日よりチーム・レクイエムに正式配属となりました。アンカー担当です。義理の姉である水澄零の専任となります」
冷たい金属と消毒液の匂いが満ちる地下施設「BABEL」のブリーフィング・ルーム。私の声は震えていたと思う。深く頭を下げた先には、これから私の全てになるはずの仲間たちがいた。
太陽のように笑う、東雲あかりさん。
その光に寄り添う、月のような夜凪しおりさん。
学院の女王として君臨する、花菱瑶子様。
彼女に影のように仕える、時鳥いつきさん。
そして、祈りを捧げる幼いシスター・キリエと、傷ついた過去を持つ保護者の伊織さん。
図書館の奥で静かに時を過ごす、淡雪さまと織部しずねさん。
選ばれた十人の少女。世界を守るための、生贄の候補。
私の隣には、銀色の髪を揺らす義理の姉、水澄零(みすみ れい)が立っていた。
彼女の完璧な横顔からは、何の感情も読み取れない。ただ、目の前のスクリーンに映し出された、街を蝕む黒い影「忘却神(ロスト・ゴッド)」を静かに見つめているだけだ。
「初陣だ。連携を最優先しろ」
司令官の非情な声が響き渡る。
それが、私たちの始まりだった。
*
ガーディアンの発進ゲートは、巨大な万華鏡の中にいるようだ。
色とりどりの光が明滅し、轟音が鼓膜を揺らす。私は管制室のアンカーシートに深く身を沈め、コンソールに表示される姉のバイタルデータを睨みつけた。
「こなみ、聞こえるか」
ヘッドセットから届く零お姉ちゃんの声は、いつも通り静かで、凪いだ水面のようだった。
「うん。クリアだよ、お姉ちゃん」
「問題ない。いつでも行ける」
その言葉に、私はぐっと奥歯を噛みしめる。
問題がないわけ、ない。これから、あの神話に出てくるような化け物と戦うのだ。死ぬかもしれないのだ。
でも、彼女の心拍数は、健康診断の時と寸分違わなかった。
アンカーは、巫女の魂の錨。
神の器「ガーディオン」と契約した少女が、その強大すぎる力に呑み込まれないように、人間社会に繋ぎとめるための命綱。
妹である私が、姉の錨になる。
血のつながらない姉妹。それが、私たちだけの特別な絆の形のはずだった。
「発進!」
三体のガーディアンが、地上へと撃ち出される。
東雲あかりさんの「アマテラス」。花菱瑶子様の「ツクヨミ」。そして、水澄零の「ペルセポネ」。
太陽と月と、冥府の女王。
皮肉なほどに、彼女たちの本質を的確に表していた。
メインスクリーンが、戦場の光景を映し出す。
赤黒い空の下、黒い泥のような忘却神「ソロー・イーター」が街を飲み込もうとしていた。
あれが、人々の信仰を失い、忘れ去られることを恐れた神の成れの果て。
『あかり、行っきまーす! みんな、私の後ろにいて!』
閃光のように、アマテラスが飛び出していく。早い。眩い。あまりにも真っ直ぐだ。
『待て、東雲! 陣形を乱すな!』
瑤子様の叱責が飛ぶが、太陽は止まらない。
無数の光の矢が、ソロー・イーターの身体を穿つ。だが、敵は怯まない。
『うおおおおおっ!』
あかりさんの叫びが、私たちの心を揺さぶる。
彼女のアンカーであるしおりさんの席から、悲痛な声が漏れた。
「あかり…! だめ、そんなに感情を高ぶらせたら、貴女が…!」
その通りだった。あかりさんのシンクロ率は、すでに危険領域に達している。
あれでは、戦いが終わる前に彼女の心が燃え尽きてしまう。
その時だった。黒い触手が、死角からアマテラスを強襲した。
『しまっ…!』
あかりさんの、焦りの声。
だが、その一撃は届かなかった。
銀色の鎌が、一閃。音もなく全ての触手を切り裂いていた。
いつの間にか回り込んでいたペルセポネが、アマテラスを守るように立ちはだかっていた。
『油断したな、東雲』
零お姉ちゃんの声には、何の感情も乗っていない。
事実を、ただ事実として告げているだけだ。
『…ご、ごめん…! 助かった!』
『礼は不要だ。瑤子様の指示に従え』
そこから、戦いの流れが変わった。
瑶子様の冷徹なまでの指揮。あかりさんの爆発的な攻撃力。そして、零お姉ちゃんの全てを予測し、いなす精密な動き。
バラバラだった三つの心が、一つの目的のために調律されていく。
美しい、とさえ思った。
死と隣り合わせの戦場で、命を燃やす少女たちの姿は、悲しいほどに美しかった。
『――今だ! 東雲!』
瑶子様の号令と共に、あかりさんのアマテラスが最大出力の光を放つ。
太陽が、地上に墜ちてきたかのような、圧倒的な熱量。
忘却神は、断末魔の叫びを上げて、光の中に霧散していった。
「…やった…!」
管制室が、安堵と歓喜の声に包まれる。
私も、全身の力が抜けていくのを感じた。
コンソールを確認する。零お姉ちゃんのバイタルは、最後まで安定したままだった。
よかった。本当に、よかった。
これが、私たちの初勝利だ。
*
寮への帰り道は、嘘のように静かだった。
さっきまでの死闘が、遠い世界の出来事のように思える。
隣を歩く零お姉ちゃんの横顔を、私は盗み見た。
銀色の髪が、街灯の光を浴びてきらきらと光っている。
戦闘で高揚した様子も、勝利に安堵した様子も、全くない。
彼女は、学校の課題を一つ終えたような、そんな顔をしていた。
「お疲れ様、お姉ちゃん。すごかったね、今日の戦い」
「そうか」
「うん。あかりさんを助けた時、本当にかっこよかった」
「作戦行動の一環だ。当然のことをしたまで」
やっぱり、そうだ。
私は、ほんの少しだけ寂しくなる。
もっと、喜びを分かち合いたい。すごいねって、やったねって、笑い合いたい。
血がつながっていないから? いや、違う。
たとえ本当の姉妹だったとしても、きっと彼女はこうだっただろう。
水澄零とは、そういう人間なのだ。
冷たくて、静かで、そして誰よりも優しい、私の姉。
「…そうだ!」
私は、バッグの中に忍ばせておいた小さな紙袋を取り出した。
中には、今朝、私が焼いたばかりのバタークッキーが入っている。
「これ、今日の任務達成記念。疲れた時は甘いものだって、お母さんがよく言ってたから」
「……」
零お姉ちゃんは、少しだけ意外そうな顔で、その紙袋を見つめた。
そして、静かにそれを受け取る。
「ありがとう」
その一言が、どうしようもなく嬉しかった。
彼女は、袋からクッキーを一枚取り出すと、小さな口で、それを半分だけ齧った。
サクッ、と、心地よい音が夜の空気に響く。
私は、期待に胸を膨らませて彼女の顔をのぞき込んだ。
どうかな。上手く焼けてるかな。
バターの配合は完璧だったはずだ。焼き加減も、きっと。
彼女の「美味しい」という一言が聞きたくて、私は今日の早朝、必死でキッチンに立ったのだ。
彼女は、数回咀嚼して、こくりと飲み込んだ。
そして、静かに私を見つめ返す。
その瞳は、何かを探しているように、揺らいで見えた。
「……こなみ」
「うん?」
彼女は、困ったように首を少し傾げる。
まるで、初めて見る外国の文字を、どう発音すればいいのか分からない子供のような仕草だった。
「『美味しい』という感情は」
彼女は、ゆっくりと、一言一言確かめるように言った。
「どんな味がしたんだったかな」
時間が、止まった。
夜風の音も、遠くで鳴く虫の声も、全てが聞こえなくなった。
彼女の言葉だけが、私の頭の中で何度も何度も反響する。
美味しい、という感情。
どんな、味がしたか。
ああ、そうか。
私は、とっくに知っていたはずなのに。
巫女は、神の器と契約する代償として、人間性を失っていく。
それは、知識として知っていた。
でも、それが。
こんなにも、温かくて、身近で、当たり前のはずのものを奪っていくとは、思ってもいなかった。
今日の勝利。仲間の無事。そして、妹が焼いた手作りのクッキー。
その全てを味わうための「心」を、彼女はもう、失い始めていたのだ。
「……そ、そっかぁ。ごめんね、お姉ちゃん」
私は、喉の奥から必死に声を絞り出した。
無理やり頬を持ち上げて、笑顔を作る。
「今日のクッキーは、失敗作だったみたいだ。ちょっと、焼きすぎちゃったかな。うん、きっとそうだ」
声が、震えなかっただろうか。
笑顔は、ちゃんと笑えていただろうか。
「次は、次はもっと、もーっと美味しいの作るから! お姉ちゃんが、美味しいって、絶対に思い出せるくらい、世界で一番のクッキーを作るからね!」
涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえる。
今、私が泣いてしまったら、本当に全てが終わってしまう気がした。
私の必死の言葉に、零お姉ちゃんは、ただ静かに頷いた。
その表情からは、やはり何も読み取れない。
悲しんでいるのか、申し訳なく思っているのか。それすらも、今の彼女には分からないのかもしれない。
「そうか。期待している」
彼女は静かにそう言って、そして。
味のしないはずのクッキーの、残り半分を、そっと口に運んだ。
その仕草が、まるで私を労わるための、彼女なりの優しさのように思えて、私はもう、ダメだった。
空を見上げる。
零お姉ちゃんに涙を見られないように。
春の夜空には、頼りない月が浮かんでいた。
チームが産声を上げた日。
私たちの本当の戦いは、ここから始まるのだ。
空っぽの心に、もう一度「美味しい」を届けるための、長い長い戦いが。
私は、ポケットの中で固く拳を握りしめた。
絶対に、諦めない。
アンカーは、錨だ。
どんな嵐の中でも、船を繋ぎとめるための。
たとえ彼女が、自分の味を忘れてしまっても。
私が、彼女の心の味を、ずっと覚えていればいい。
そして、いつかきっと。
静かな決意が、私の胸の中で、熱い灯りのように灯り始めていた。
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