残照のアルカディア

すまげんちゃんねる

第1章 春の胎動

第1話 味のしないクッキー

その日、私たちのチームは産声を上げた。

そして、その日の夜に、私の姉は味覚を失った。


「――葉月こなみ、本日よりチーム・レクイエムに正式配属となりました。アンカー担当です。義理の姉である水澄零の専任となります」


冷たい金属と消毒液の匂いが満ちる地下施設「BABEL」のブリーフィング・ルーム。私の声は震えていたと思う。深く頭を下げた先には、これから私の全てになるはずの仲間たちがいた。


太陽のように笑う、東雲あかりさん。

その光に寄り添う、月のような夜凪しおりさん。

学院の女王として君臨する、花菱瑶子様。

彼女に影のように仕える、時鳥いつきさん。

そして、祈りを捧げる幼いシスター・キリエと、傷ついた過去を持つ保護者の伊織さん。

図書館の奥で静かに時を過ごす、淡雪さまと織部しずねさん。


選ばれた十人の少女。世界を守るための、生贄の候補。


私の隣には、銀色の髪を揺らす義理の姉、水澄零(みすみ れい)が立っていた。

彼女の完璧な横顔からは、何の感情も読み取れない。ただ、目の前のスクリーンに映し出された、街を蝕む黒い影「忘却神(ロスト・ゴッド)」を静かに見つめているだけだ。


「初陣だ。連携を最優先しろ」

司令官の非情な声が響き渡る。


それが、私たちの始まりだった。



ガーディアンの発進ゲートは、巨大な万華鏡の中にいるようだ。

色とりどりの光が明滅し、轟音が鼓膜を揺らす。私は管制室のアンカーシートに深く身を沈め、コンソールに表示される姉のバイタルデータを睨みつけた。


「こなみ、聞こえるか」

ヘッドセットから届く零お姉ちゃんの声は、いつも通り静かで、凪いだ水面のようだった。

「うん。クリアだよ、お姉ちゃん」

「問題ない。いつでも行ける」

その言葉に、私はぐっと奥歯を噛みしめる。

問題がないわけ、ない。これから、あの神話に出てくるような化け物と戦うのだ。死ぬかもしれないのだ。

でも、彼女の心拍数は、健康診断の時と寸分違わなかった。


アンカーは、巫女の魂の錨。

神の器「ガーディオン」と契約した少女が、その強大すぎる力に呑み込まれないように、人間社会に繋ぎとめるための命綱。

妹である私が、姉の錨になる。

血のつながらない姉妹。それが、私たちだけの特別な絆の形のはずだった。


「発進!」


三体のガーディアンが、地上へと撃ち出される。

東雲あかりさんの「アマテラス」。花菱瑶子様の「ツクヨミ」。そして、水澄零の「ペルセポネ」。

太陽と月と、冥府の女王。

皮肉なほどに、彼女たちの本質を的確に表していた。


メインスクリーンが、戦場の光景を映し出す。

赤黒い空の下、黒い泥のような忘却神「ソロー・イーター」が街を飲み込もうとしていた。

あれが、人々の信仰を失い、忘れ去られることを恐れた神の成れの果て。


『あかり、行っきまーす! みんな、私の後ろにいて!』

閃光のように、アマテラスが飛び出していく。早い。眩い。あまりにも真っ直ぐだ。

『待て、東雲! 陣形を乱すな!』

瑤子様の叱責が飛ぶが、太陽は止まらない。

無数の光の矢が、ソロー・イーターの身体を穿つ。だが、敵は怯まない。


『うおおおおおっ!』

あかりさんの叫びが、私たちの心を揺さぶる。

彼女のアンカーであるしおりさんの席から、悲痛な声が漏れた。

「あかり…! だめ、そんなに感情を高ぶらせたら、貴女が…!」


その通りだった。あかりさんのシンクロ率は、すでに危険領域に達している。

あれでは、戦いが終わる前に彼女の心が燃え尽きてしまう。


その時だった。黒い触手が、死角からアマテラスを強襲した。

『しまっ…!』

あかりさんの、焦りの声。


だが、その一撃は届かなかった。

銀色の鎌が、一閃。音もなく全ての触手を切り裂いていた。

いつの間にか回り込んでいたペルセポネが、アマテラスを守るように立ちはだかっていた。


『油断したな、東雲』

零お姉ちゃんの声には、何の感情も乗っていない。

事実を、ただ事実として告げているだけだ。

『…ご、ごめん…! 助かった!』

『礼は不要だ。瑤子様の指示に従え』


そこから、戦いの流れが変わった。

瑶子様の冷徹なまでの指揮。あかりさんの爆発的な攻撃力。そして、零お姉ちゃんの全てを予測し、いなす精密な動き。

バラバラだった三つの心が、一つの目的のために調律されていく。

美しい、とさえ思った。

死と隣り合わせの戦場で、命を燃やす少女たちの姿は、悲しいほどに美しかった。


『――今だ! 東雲!』

瑶子様の号令と共に、あかりさんのアマテラスが最大出力の光を放つ。

太陽が、地上に墜ちてきたかのような、圧倒的な熱量。

忘却神は、断末魔の叫びを上げて、光の中に霧散していった。


「…やった…!」


管制室が、安堵と歓喜の声に包まれる。

私も、全身の力が抜けていくのを感じた。

コンソールを確認する。零お姉ちゃんのバイタルは、最後まで安定したままだった。

よかった。本当に、よかった。

これが、私たちの初勝利だ。



寮への帰り道は、嘘のように静かだった。

さっきまでの死闘が、遠い世界の出来事のように思える。

隣を歩く零お姉ちゃんの横顔を、私は盗み見た。

銀色の髪が、街灯の光を浴びてきらきらと光っている。

戦闘で高揚した様子も、勝利に安堵した様子も、全くない。

彼女は、学校の課題を一つ終えたような、そんな顔をしていた。


「お疲れ様、お姉ちゃん。すごかったね、今日の戦い」

「そうか」

「うん。あかりさんを助けた時、本当にかっこよかった」

「作戦行動の一環だ。当然のことをしたまで」


やっぱり、そうだ。

私は、ほんの少しだけ寂しくなる。

もっと、喜びを分かち合いたい。すごいねって、やったねって、笑い合いたい。

血がつながっていないから? いや、違う。

たとえ本当の姉妹だったとしても、きっと彼女はこうだっただろう。

水澄零とは、そういう人間なのだ。

冷たくて、静かで、そして誰よりも優しい、私の姉。


「…そうだ!」

私は、バッグの中に忍ばせておいた小さな紙袋を取り出した。

中には、今朝、私が焼いたばかりのバタークッキーが入っている。


「これ、今日の任務達成記念。疲れた時は甘いものだって、お母さんがよく言ってたから」

「……」

零お姉ちゃんは、少しだけ意外そうな顔で、その紙袋を見つめた。

そして、静かにそれを受け取る。

「ありがとう」


その一言が、どうしようもなく嬉しかった。

彼女は、袋からクッキーを一枚取り出すと、小さな口で、それを半分だけ齧った。

サクッ、と、心地よい音が夜の空気に響く。


私は、期待に胸を膨らませて彼女の顔をのぞき込んだ。

どうかな。上手く焼けてるかな。

バターの配合は完璧だったはずだ。焼き加減も、きっと。

彼女の「美味しい」という一言が聞きたくて、私は今日の早朝、必死でキッチンに立ったのだ。


彼女は、数回咀嚼して、こくりと飲み込んだ。

そして、静かに私を見つめ返す。

その瞳は、何かを探しているように、揺らいで見えた。


「……こなみ」

「うん?」

彼女は、困ったように首を少し傾げる。

まるで、初めて見る外国の文字を、どう発音すればいいのか分からない子供のような仕草だった。


「『美味しい』という感情は」

彼女は、ゆっくりと、一言一言確かめるように言った。

「どんな味がしたんだったかな」


時間が、止まった。

夜風の音も、遠くで鳴く虫の声も、全てが聞こえなくなった。

彼女の言葉だけが、私の頭の中で何度も何度も反響する。

美味しい、という感情。

どんな、味がしたか。


ああ、そうか。

私は、とっくに知っていたはずなのに。

巫女は、神の器と契約する代償として、人間性を失っていく。

それは、知識として知っていた。

でも、それが。

こんなにも、温かくて、身近で、当たり前のはずのものを奪っていくとは、思ってもいなかった。


今日の勝利。仲間の無事。そして、妹が焼いた手作りのクッキー。

その全てを味わうための「心」を、彼女はもう、失い始めていたのだ。


「……そ、そっかぁ。ごめんね、お姉ちゃん」

私は、喉の奥から必死に声を絞り出した。

無理やり頬を持ち上げて、笑顔を作る。

「今日のクッキーは、失敗作だったみたいだ。ちょっと、焼きすぎちゃったかな。うん、きっとそうだ」


声が、震えなかっただろうか。

笑顔は、ちゃんと笑えていただろうか。


「次は、次はもっと、もーっと美味しいの作るから! お姉ちゃんが、美味しいって、絶対に思い出せるくらい、世界で一番のクッキーを作るからね!」


涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえる。

今、私が泣いてしまったら、本当に全てが終わってしまう気がした。


私の必死の言葉に、零お姉ちゃんは、ただ静かに頷いた。

その表情からは、やはり何も読み取れない。

悲しんでいるのか、申し訳なく思っているのか。それすらも、今の彼女には分からないのかもしれない。


「そうか。期待している」


彼女は静かにそう言って、そして。

味のしないはずのクッキーの、残り半分を、そっと口に運んだ。

その仕草が、まるで私を労わるための、彼女なりの優しさのように思えて、私はもう、ダメだった。


空を見上げる。

零お姉ちゃんに涙を見られないように。

春の夜空には、頼りない月が浮かんでいた。

チームが産声を上げた日。

私たちの本当の戦いは、ここから始まるのだ。

空っぽの心に、もう一度「美味しい」を届けるための、長い長い戦いが。


私は、ポケットの中で固く拳を握りしめた。

絶対に、諦めない。

アンカーは、錨だ。

どんな嵐の中でも、船を繋ぎとめるための。

たとえ彼女が、自分の味を忘れてしまっても。

私が、彼女の心の味を、ずっと覚えていればいい。

そして、いつかきっと。


静かな決意が、私の胸の中で、熱い灯りのように灯り始めていた。


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