君を殺す本

 家に戻ると両親に顔を会わせることもなく、自分の部屋へと逃げ込んだ。

 鍵を閉め、布団にくるまり、外界からの干渉を遮断する。


 嫌なことがあると、僕はいつもこうしてきた。

 ここは僕だけしかいない世界。

 だから後ろめたいことを口にしても誰からも咎められない。

 そんな現実逃避のための空間だった。


 病院にいる時から―――椿と出会ってから、ずっと考えていたことがある。

 違和感。それは確かにあった。

 けれど彼女の為に前に進むべきだと自分に言い聞かせて誤魔化してきた。


 だが気づけば、僕は彼女と椿の違いを探すことばかりしていた。

 同じ顔、同じ声、同じ体温。だというのに、確かに違う。

 その違いを確かめようとする自分に、嫌気が差していた。


 あの時、椿に話した思考実験。

 記憶を失った少女は、それでも同じ人間と呼べるのか。

 机上の空論のように語っていたが、それは今や目の前に突きつけられた現実の問題だった。


 そして―――僕はその答えを知ってしまっていた。


「同じわけ……ないじゃないか……」


 震える声で、吐き捨てるように呟いた。


 堪らなく嫌だった。

 彼女が、僕との思い出を忘れてしまっていることが。

 そしてその思い出が塗りつぶされ、綺麗で美しい、不純物を取り除かれた人工塗料のような記憶に上書きされていることが。


 僕と彼女の関係は、そんな綺麗なものじゃなかった。

 世間から最低と罵られ、理不尽と屈辱を抱え込み、それでも一緒に居続けた日常だった。

 それこそが僕が―――愛した彼女だった。


 今だから言える。

 失った今だからこそ、彼女を愛していたと断言できる。


 病気も、小説のための取引も、不条理な現実も―――。

 そのすべてをひっくるめて、彼女という存在を構成していた。

 そして僕は、その全部を愛していた。


 だが今の椿は、彼女ではない。

 テセウスの船のように、記憶が完全に入れ替わり、構成する部品が全て新しく差し替えられ、ただ“彼女”だったというラベルだけが残された別人だ。


 気づいたところで、もう遅い。

 彼女はもう二度と戻ってこない。

 

 死んでしまったのだから。

 今更、彼女の記憶が戻ることはきっとない。


 このまま椿が死ぬまで、彼女の顔をした人間の彼氏を演じ続ける。

 それが僕に与えられた使命であり―――贖罪だ。


 あと何日、思い出をすり減らし続ければいいのだろうか。

 椿が死んだその時、僕は彼女との思い出を正確に思出せるだろうか?


 彼女との繋がりが欲しかった。

 彼女が生きた証が欲しかった。

 記憶ではない、実物が―――。


 引き出しから彼女の家の鍵を取り出した。

 猫の愛くるしいキーホルダーに心が強く痛んだ。


 彼女が僕に託した手紙を開いた。

 角の取れた綺麗な文字は一体いつ書かれたものだろうか。


 それでも足りなかった。あまりにも少なかった。

 まるで彼女は僕との思い出を残すことを拒んでいたかのように―――


 もっと、もっと生きた証を―――。


 布団を捲り、冷たい床を這うようにパソコンの前へと座る。

 縋るように、彼女との思い出を探して。

 息を詰めながら、あるファイルを立ち上げた。


 『君が死ぬ本』―――そうタイトルが付けられたテキストファイル。

 そこには僕と彼女の思い出が確かに存在していた。


「……彼女を取り戻せるかもしれない」


 画面に映し出されたその文字列を見た瞬間、胸の奥が軋んだ。

 彼女との繋がり。

 たった一つだけ、僕らの関係性を正確に記述している本。


 不治の病に冒された少女。

 父親に裏切られ、小説家を名乗る少年と利害関係を結ぶ。

 脚色も美談も存在しない、最低な小説。


 もしこれを椿に読ませれば―――彼女の記憶が蘇るかもしれない。

 日記で上書きされたとしても、違和感の欠片は残っているはずだ。

 それを糸口にできれば。日記の記憶よりも、この小説の方が真実だと信じてもらえれば。

 僕は彼女を取り戻せるかもしれない。


 ……だが。


 ―――それは最低な行為だ。


 僕のやろうとしていることは、彼女が人生を賭けて望んだ願いを踏みにじること。

 僕が演じればハッピーエンドになるはずだった椿の人生を、僕の欲望のためだけにバッドエンドへ叩き落すこと。


 そして何より、成功する保証はどこにもない。

 彼女の記憶を取り戻せず、椿に辛い現実だけを突きつけ、残りの余生を絶望の中で過ごさせるかもしれない。


 仮に成功したとしても、今の“椿”という人格は消える。

 そして記憶を取り戻した彼女は、僕を恨み、僕の行為を批難するだろう。


 だからこれは、考えただけでやってはいけない行いだ。

 道徳に反し、人間のやることではない。


 ―――そう思った瞬間、ふっと笑いがこぼれた。

 思えば、彼女に『小説を書け』と提案されたあの日にも、僕は同じように悩んだ。


 覚悟は、その時から決まっていたのだ。


 机に置かれた鍵と封筒を、乱暴にゴミ箱へと投げ入れた。

 金属が鈍い音を立て、紙がくしゃりと潰れる。


 一瞬だけ胸の奥が痛んだが、それすらも心地よい決別の痛みに変わっていった。

 これは儀式だ。彼女との契約を破棄する為……彼女の気持ちを踏みにじる為の。


 もう縋る理由は―――僕には必要ない。


 僕は小説家でありたいと望んだ。

 徹頭徹尾、初志貫徹。そうあるべきだ。

 彼女との契約もまた、そのためにあった。

 

 僕は小説家であるために、人間を辞めた。

 ならば、こう言い訳をすればいい。


 ―――椿を殺した方が、面白い小説になる。

 だから僕は君を殺す。


 僕は小説のタイトルを書き替えた。


 『君が死ぬ本』―――それではいけない。

 君は勝手に死ぬのではない。


 Deleteキーを三回だけ。強く、確かめるようにボタンを弾く。

 

 そして確かな意志を込めて、新たな文字を書き加えた。

 一文字一文字に殺意を刻むように。


 僕は今から“椿”を殺す。

 だから新しいタイトルは―――『椿を殺す本』だ。


 ページを捲る度に、彼女との記憶が蘇る。

 その度に、椿としての人格が消えていく。

 病は進行し、病のために椿は死ぬ。


 僕はまえがきを書き加えた。

 椿には先に、この小説の意味を説明しておかなくてはならない。


 ―――この小説は必ずバッドエンドで終わる。

 椿を僕が殺すのだから。


 君が読み進めれば、ヒロインは死んでしまう。

 この物語のヒロインは椿だ。

 君が読み進めることで、君自身を殺すことになる。


 それは椿への僕なりのメッセージ。

 警告はした。だが僕は責任を取るつもりはないらしい。

 椿の手で、自分自身を殺してもらう。


 未必の故意。

 意図的に死を誘発させる偶然。

 自殺志願者に毒を渡すように、目の見えない人を崖へと導くように。

 僕は椿が死ぬように、物語で誘導した。


 そして今―――小説は完成した。  』



 震える少女の手を握り、逃げられないように拘束する。

 名前のない少女は、何度も恨めしそうに僕を見つめ返した。

 何でこんなものを読ませたのかと……。


「これが僕と君とのことの顛末だ。

 わかって貰えただろうか?」


 僕は九十七ページの紙束を集めると、名前のない少女に尋ねた。

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