椿と僕


 決意を新たにした僕は再び病院へと戻ってきた。


 病室に入ると椿は呆然と窓の外を静かに眺めていた。

 僕に気づくとハッと嬉しそうにこちらを見た。


「戻ってきてくださったのですね」

「ごめんね、すぐに戻ってこれなくて。

 君の方が大変な状態なのに……」


記憶を失った状態で取り残された椿がどれほど心細かったのか、想像に難くない。

もしかすれば“戻ってこない”と疑ったかもしれない。あの父親と同様に。


けれど椿は優しく微笑みを浮かべた。


「日記を読んで、貴方がそんな人でないと知っていましたから。」

「……」


日記に書かれていた僕は、優しく頼りがいのある男性だった。


教室に呼び出して僕から告白をした。

不治の病であることを知ってなお、死ぬまで共にいることを神に誓った。

手足が不自由に成りながらも、無償の愛を注ぎ介護し続けた。


それが椿の考える僕だった。

そして僕が演じるべき僕だ。


「なら何かやって欲しいことはある?

 僕に出来ることなら何でもやるよ」

「大丈夫です。貴方が傍にいるだけで」


 彼女が一生言うことの出来なかったセリフ。

 椿になったからこそ言ってもらえたセリフ。


 最愛の人からの言葉であるにも関わらず、自分の中で違和感があった。

 もちろん椿が嘘を言っているとは思えない―――つまり僕の問題だ。


「今からお散歩にいかない?

 昨日の水やりが出来ていないんだ」

「……何か育てられているのですか?」

「……そうだね」


曖昧に返事をする。

椿は日記に書かれていないことを知らない。

吐くしの記憶は、日記の余白のように抜け落ちている。


「お庭にいくなら着替えてもいいですか?」

「いいけど、どうしたの?」

「こういう時のためにって、服を買っていたんです」


ミカさんを呼び、着替えを手伝ってもらうと、そこには見覚えのある服を着た椿がいた。

それはかつて僕が選んだ―――彼女から言わせれば2回戦目で敗退した僕の選んだ服だった。


「貴方が選んでくれた服です」


彼女の中では僕が贈った大切な服になっていた。


「似合いますか?」

「……うん、とっても」


脳裏に過る“普通”という言葉。

似合っていないわけではない。

だけどどうしても昔のことを思い出してしまう。


椿を車いすに乗せる。

重さは前より少しだけ軽くなったように思えた。


人は死んだとき、二十一グラム体重が減ると言う。それは魂の重さだとか。

ならば記憶が抜け落ちたら何グラム軽くなるというのだろうか。


意味の無い思考実験だ。

そもそも軽くなったのは病が悪化して体重が減ったからに他ならない。


いつもの足取りで病院内を車イスを走らせる。

見慣れた看護師や医師とすれ違う。簡単に挨拶を交わした。


一体どれだけの人が彼女が椿と入れ替わっていることに気づいているだろうか。

担当医は記憶のことを知っているのかもしれない。

だがその記憶が捏造されたものとまでは知りはしないだろう。


この悪魔の計画を見抜けた人などいるはずがない。。


病院に来て僕は初めから恋人として彼女に紹介されていた。

それはきっとこの時の為だったのだろう。


 車椅子のハンドルを強く握りしめた。今は椿のことに集中しよう。


「運転は怖くない?」

「大丈夫です、とても上手です。

 速い乗り物は苦手なのですが……これなら大丈夫です」

「そっか……」


 かつて彼女がジェットコースターを好きだと言った。

 だがそれも嘘だったようだ。


 一体どれだけの嘘を僕に並べていたのだろう。

 もしかしたら偽りの記憶で構成された椿ではなく、僕と過ごした彼女ではないだろうか。


 小説家になりたい僕の隣にいる都合の良い少女。

 元気で明るく、病気に負けない、そんな理想的なヒロイン。


 そんな作り物を提供していたのだろうか。

 交換条件と言わんばかりに。



 中庭に向かう前に医院内に備え付けられたコンビニが目に入った。


 かつて何度も彼女と訪れた場所だ。

 何度も彼女の我儘に付き合わされ身体に悪そうな物を購入した。


「外は暑いから、庭に行く前にコンビニでアイスでも買おうか」

「私もコンビニで買いたいものがあったので助かります」

「買いたいもの?」

「旅行雑誌です。一緒に旅行に行った記憶もすっぽり抜けていて。

 出来れば雑誌を見ながら、どんな旅行だったか教えて貰ってもいいですか?」


 彼女の書いた日記では四国へ旅行に行ったことになっていた。

 だが実際は彼女の身体は旅行に行くよりも先に壊れてしまった。


「とても楽しい旅行だったよ。

 後で詳しく教えてあげるよ」


 嘘を吐くのは苦手だが、フィクションを考えるのは得意だった。

 中庭に行くまでに恋人たちが旅行する小説を考えればいいのだから。


 そして草案は提供されていた。

 あとは適当に肉付けすればいいだけ。


 雑誌コーナーから最短距離でアイスコーナーへと向かった。


「食べたいアイスはある?

 ほら、新商品のアイスとかもあるよ」


 僕はいくつかのアイスを手に持つと、それを椿の視線の先まで持っていく。

 だが椿は首を横に振る。


「それも大変美味しそうですが……ちょっと食べたいものがあって」

「そうなの?どんなのかわかれば取るけど?」

「入院してから一緒に食べたアイスなんですけど、覚えていますか?

 日記に書いてあって、美味しそうだなって」

「これのことだよね」


 僕はチョココーヒー味の二本入りアイスを椿の前まで持っていく。

 あの時彼女が一人で食べきったアイスだ。

 だがそれも日記では書き換えられ、僕と二人で分け合って食べたことに。


「僕も半分貰ってもいいのかな?」

「もちろんですよ。

 このアイスを1人で食べる人いないと思いますよ」

「……そうだよね」


 それはそうだ、と僕らは笑い合う。 

 普通はそうだ。彼女がわざわざあんな行動をしただけで。


 それから病院の中庭まで向かった。


「今日も天気が良くていいですね」


 真夏とは言え、木陰のベンチは少しだけ涼しかった。


 それでも三十分もいれば汗はかくが、病室から一人で出ることの出来ない椿達には代えがたいご褒美なのだろう。


 車イスを花壇の近くまで持っていく。

 3つの鉢に2つだけ花が咲いていた。

 彼女が選んだアサガオはもういない。


「この花、覚えているかな?」

「……すみません、覚えていないです。

 もしかして私とも関係がありますか?」

「うん、一緒に植えたんだ」


 あの時は1人で植えた気になっていた。

 けれど今は違う。彼女との大切な思い出の一つだった。

 

「ペチュニアとニチニチソウって言うんだ。

 君はどっちの花が好きかな?」


意地悪な質問だと思う。

僕の求める答えの存在しない質問。


「私はこっちの紫の花が好きですね」


 ペチュニアを指先でなぞった。

 花粉が戯れのように彼女の爪に付く。


「深い紫色が―――なんだか誰かを思っているみたいで好きです」

「詩的な表現だね」

「恥ずかしいですね……」

「ううん、僕は好きだよ」


風邪に揺れる紫が、胸をざわつかせた。

言わなくてがいいことを、思わず吐き出させる。


「君は今の自分と記憶を無くす前の自分は同じ人だと思う?」

「…どうしたんですか?」


 僕の突然の問いかけに椿は動揺していた。だけど僕は言葉を続けた。


「ただの思考実験だよ。

 僕らは何度もこんな会話を繰り返していたんだ」


 思えば彼女とは哲学的な話ばかりしていた気がする。

 命の価値だとか。死ぬものの価値観だとか。そして魂のありかとか。


 それが椿の為だったのか、それとも彼女の趣味嗜好だったのかは今となってはわからない。

 だけどもし、椿が彼女の中にいるのなら―――


「私には小難しいことはわかりませんが……」

 そう言いつつも椿は嬉しそうに、そして少し悩んだ末に答えた。


「やっぱり同一人物だと思います。記憶を失っても私は私です。

 でないと今の私の隣に貴方が居てくれる理由がないですから」


椿の言葉にこれが脅迫めいた問だったことに気づく。

はじめから答えの決められたような、そんな問い。


決して間違えるように操作された―――。


「…そろそろ戻ろうか」


 後ろめたい気持ちもあり、僕はそう提案した。

 既に外に出て三十分ほどたっていた。

 気分転換にも良いかもしれないが、猛暑は椿の身体にあまりに毒だ。


 椿から飲み切れなかったアイスの容器を受け取る。

 半分程満たされた液体は、白でも黒でもないどっちつかず僕を表しているようで嫌気がした。


 今は椿の顔を見ることが出来ない。

 車椅子を押すのは丁度いい口実になりそうだった。


「一つお願いを聞いて貰ってもいいですか?」


 僕が車椅子の後ろに回り込もうとした時、椿は少し恥ずかしそうに言った。

 それはまるで教室で彼女に告白された時のように。

 次の言葉を告げるまで少しの時間を有した。

 それが心の準備であることを僕は知っている。


「手を繋ぎたいです」

「…いいよ」


 椿の手を優しく握った。

 皮と骨しか残っていない小さな手。

 僅かに震えているのは、病気の所為なのだろうか。


「貴方の手は温かいですね」

「手が温かい人は心が冷たい人らしいよ」

「科学的な根拠のなさそうな話ですね」


 椿はクスッと手を握りながら笑った。

 椿の言う通り科学的には何の根拠もない冗談だ。


 だが今だけは本当だと思えた。僕は冷たい人間だ。

 

 自覚を持った僕はそのまま車イスを走らせた。




 病室に戻ると彼女の身体を抱きかかえ、ベッドへと寝せた。

 もうすぐ夕ご飯の時刻へとなる。僕が椿の傍に入られるのはそれまでの時間だ。

 僕の言葉に椿は顔をこわばらせた。怯えているようだった。


「明日には今日のことを忘れているんでしょうか…」

「…そうかもしれないね」


 椿の記憶は日々抜け落ちる。

 それは新しく増えた思い出だって同じだろう。


 明日の椿は今日の椿ではないかもしれない。

 思い出を失うということはそういうことなのだろう。


「私は夜が怖いです。眠ることが怖いです。

 思い出が消えて、自分が何者なのかわからず目を覚ますのが堪らなく怖いです」


 きっと彼女もそう思って過ごしていたのだろう。

 明日になれば自分の体が更に悪くなる。

 次はどこが動かなくなるのか。想像しただけで恐ろしい。


 だけど彼女はそのことを僕には伝えなかった。

 明日のことを楽しみにし、後悔が残らないように生きているように見えた。


「目を覚ましたら今までの出来事が全て夢で……

 本当の私は誰にも見て貰えない化け物なんじゃないかなって……」

「……」


 椿は身体を細かく震わせながら、消えかかりそうな声で呟いた。

 彼女は今までそんな辛い現実を平然とした顔をして歩んでいたのだろう。

 そして未来の自分にはこんな思いをして欲しくないと。


 死ぬ前ぐらいは全てを忘れて、夢の中で死にたいと。


「また忘れたなら僕が教えてあげるよ。

 明日の朝も、明後日の朝も、その先も。僕はずっと君の傍にいるから」

「本当ですか?」

「うん。それが君たちの願いなら」


 椿と彼女の願いなら。それを叶えるのが僕の役目だ。


 その言葉に椿は安堵し、次に何か悩んでいるようだった。その様子に僕は思わず聞いてしまう。


「どうしたの?」

「キス…してもいいですか?」


 椿は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 肌の白さと相まって、それは顕著に表れた。

 椿がどんな思いで言ったのかわかっていた。


 愛の証明であり、契約書にサインをするような行為。

 つまり椿は僕の言葉を信用する為に口づけを求めた。それはわかっていた―――。


「ごめん」


 僕は小さくそう言った。

 それは条件反射にも似た感情であり、今日初めて彼女の頼みを断った。

 何でも叶えてあげようと思っていたのに、そういう約束だったのに。


 それでも僕の心は、考えるよりも前に口に出してしまっていた。


「そうですか、そうですよね。変なこと言ってすみません」


 椿は謝る。拒絶されたと思ったのだろう。

 もしかしたら恋人であることを疑ったかもしれない。


 だけど僕には咄嗟に良い言い訳が思いつかなかった。


「それじゃあ、また明日」


 僕は逃げるようにその言葉を告げた。


「はい、また明日」


 椿は祈るようにその言葉に縋っていた。

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