父親との邂逅

 僕の意識がハッキリとしたのは病院のベンチの上だった。

 まるで夢から覚めたかのように、ハッと意識を取り戻した。


 そして―――先ほどまで起きた現実を思い出していった。

 彼女が倒れたこと。そして……彼女の絶望の表情を。


「お身体は大丈夫ですか?」


ずっと待っていたのだろうか、隣にいた看護師さんが丁寧に話しかけた。


「……彼女は……大丈夫なんですか?」

「大丈夫ですよ。命には別状はありません」


 その言葉がどれほどの救いか。

 懺悔を受け入れられたかのように僕の心は安堵の気持ちで一杯になった。

 だから表情や言い回しに不穏さがあったことに気づけなかった。 


 案内された病室は白色の清潔感のある室内。

 消毒液の匂いで歯医者を思い出してしまうのは、それほどまでに僕が病院というものと縁遠いからだろう


 真っ白なシーツに包み込まれた、真っ白な肌をした彼女。

 生きているよりも死んでいる方が似合いの姿をしていた。


 それでも生きていると判断したのは、彼女の体から伸びる無数の管に繋がれた機械が、一定のリズムで動いていたからに他ならない。


 呆然と彼女を見つめながら、倒れる直前のことを考えていた。

 どうしてあれほどまでに彼女は動揺し、感情を露わにしたのか。


 どうして愛に絶望したのか。

 どうしてそこまで小説を書くことにこだわったのか。


 起きたら一度話し合わなければならない。

 ボタンを掛け間違えたように、きっと話し合えば―――。


 そんなことを考えていると背後から扉が開かれる音がした。

 次の瞬間、革靴の硬い音が床を鳴らす。振り返る。男性だった。

 

 高そうなブラウンのスーツに整えられた毛髪。

 香水の香りが鼻孔をくすぐった。


 一目見ただけで、この人が彼女の父親なのだと理解した。

 写真で見た時よりも老けてみえる。

 年齢のせいなのか。別の理由なのか。


 僕と彼女の小説、最後の登場人物。

 この小説の謎に迫る最後のピース。

 僕からすれば元凶という言葉で表したい相手だった。


 男は呆然と立っている僕の肩を強引に横へと押し、彼女のベッドの前へ立ち、彼女を見下ろした。


「あなたは――」

「君は娘の友達なのかな?」


 僕の声は虫の羽音のようにかき消され、代わりに帰ってきたのは落ち着いた声色だった。


「……えっと」


 考えた。僕は彼女の“何”なのかを。


 加害者と被害者。ヒロインと筆者。運命の共同体。

 いくらでも彼女との関係を表す言葉は見つけることが出来る。

 

 だが今はそれらの言葉を使いたくはなかった。

 親の前だからではなく、彼女の倒れている目の前だから。

 そして―――


「もしかして恋人なのかい?」

「………」


 表向きはそうなっていた。そういう設定だった。

 だがその言葉も今は使いたくはない。


 僕が別の言葉を見つけるよりも前に、男は沈黙を肯定だと判断して言葉を続けた。


「やめておきなさい」


 冷たいと思った。

 そして鋭利だった。

 氷柱の杭を心臓に突き刺したかのような言葉。

 藁人形に打ち付けるような、僕と彼女に対する呪い縛る言葉だった。


「娘はもうすぐ死ぬ。それは変えることの出来ない未来だ。

 君は恋人として彼女の死を見送るより“昔の知り合い”として記憶の片隅にしまったほうが有意義だ」


 何も知らなければ優しい忠告に思えたかもしれない。

 大人が子供に諭すような……一度体験したからこその忠告したような。


 だけど僕は彼女の家の惨状を知っている。

 この男がどういう人間かを。


「それは…自分の子供に対しても同じですか?」


 震える声で、一矢報いようとした。


「あぁ、なんだ知っているのか。この子から聞いたのかな」


 男は勝手に納得すると彼女を見下ろした。

 その視線には愛情どころか侮蔑が滲んでいた。


「貴方は一体いつから家に…いや彼女に会っていないんですか」

「さぁ、もう忘れたよ。二年は経っていないと思うんだけどな」

「どうして―――」


 聞く他なかった。理由があるのでは。

 彼女に隠れて何かやっているのではないか。

 万に一つの可能性に縋るしかなかった。きっと深い理由があるのではと―――


「そんなの時間の無駄だからに決まっているじゃないか」


 彼は頭を掻き、吐き捨てるように続けた。


「君にさっき言った通りだよ。娘はもうすぐ死ぬ。治療のしようもない。

 なら今更娘に時間を掛けて何になる?

 君は壊れたテレビを不自由な思いをしながら使うタイプなのかい?」

「そんな言い方…」

「これでも治療費と生活費は払っている。

 最低限の責任は果たしているつもりなんだがね」


 会って話して確信した。

 この男は同情のしようもないクズだ。殴ってやりたかった。殺してやりたかった。そうすれば全て救われる。それが物語の悪役ならば。


 けれど現実はそうはいかない。

 そんなことをしても彼女を悲しませるだけだから。

 ……いやそんなの言い訳で、本当は僕に覚悟も勇気もないだけだ。


「医師から電話があったからわざわざ来たが……時間の無駄だった。

 まぁもうすぐ死ぬことがわかっただけ収穫とするか」


 男は独り言を呟くと病室を後にした。

 僕はやるせない気持ちで一杯になり、目からは涙が出てきた。

 何もできずに悔しかった。


 どうやら彼女に絡みついている鎖は、思っていたよりもずっと厚く、複雑に絡み合っている。

 僕ごときでは解くことが出来ないほどに。

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