悲しいハッピーエンド

「先輩ありがとうございます。今日もとても楽しかったです」


 あれからしばらく会話をした後、喫茶店を出て彼女の家へと帰りついた。

 時刻は既に17時を回っていた。


 リビングのソファーに腰かけた彼女は、腕を大きく伸ばしながら言った。


「久しぶりに外の空気を吸えてよかったです。

 室内にこもっていると、どうしても精神的にも落ち込んでしまいそうで」

「そんな風には見えなかったけど」


 今朝彼女に会った時には落ち込んでいるようには見えなかった。

 彼女が弱音を吐いている姿は昨夜のお風呂場での一回のみ、その時ですら取り繕う余裕をみせていた。



 ありきたりな表現だがいつだって太陽のように明るかった。

 それは病人であり、彼女の過酷な人生では考えられない程には。


「そうでもないんですよ。

 先輩と居る時は明るく振舞っていますけど、一人でいる時はこれでも憂鬱な気持ちなんですよ。

 一人世界に取り残されているみたいで。

 社会から見放されているみたいで。眠りにつく時なんかは特に」


 彼女の言葉は実際に自分が体験したわけでないにも関わらず想像することが容易だった。

 元々家族3人で暮らしていたこの家を、一人不自由な身で過ごすのはさぞ心に来ることだろう。


 ポタリと台所から滴る水の音が侘しさを加速させる。

 そして彼女にはそれを止める術を持たないのだから。


「先輩、この家に住んでもいいんですよ。

 お父さんも帰ってきませんから、あんなことも、こんなこともしても問題ないですから」


 彼女はいつものように不敵にからかうような笑みを浮かべた。

 その言葉にほんの一滴でも本心は混じっているのだろうか?


 台所の蛇口を強く締める。


「そうだね、そうするよ」

「えっ!??」


 僕の反応に彼女はいつになく顔を赤らめ、動揺した。

 足が動かないのにも関わらず、ソファーの上で器用に後ずさりしてみせた。


「まって、ください。マジすか!?

 乙女には心の準備が必要でして…、シャワー浴びます。

 あっ、けど先輩に裸を見られて…」

「いや、そっちじゃないよ。

 泊まる方。僕はしばらくこの家に泊まらせてもらうよ」


 僕の返答に彼女はいくらか落ち着いたように「なんだ、泊まるほうですか…」と深く息を吐き、胸をなでおろし―――


「泊まるんですか!?」


 っと、身体に悪そうなアップダウンの激しいツッコミを入れた。

 嫌だな、死因がツッコミの所為とかになったら。


「うん、これからはここに泊まろうと思う」

「マジですか。本気ですか?」

「マジで本気。昨日から考えていたんだ。

 君のお父さんが帰っていないなら、無理にでも泊まろうって。

 君の身体に異変が起きた時にすぐに対応できるように」


 彼女は今も病に蝕まれている。

 たまたま体調が良い時はあれど、決して回復することないことを知っていた。

 そして突然何かの拍子に致命的に悪化することも。

 足湯に入った時がいい例だ。


 もし彼女が一人の時に発作が起きたらどうだろうか。

 誰にも気づかれずに死んでしまう想像が容易に出来る。

 朝、僕が扉を開けた先で倒れている姿など―――。


「ご飯とお風呂の面倒ぐらいは宿泊費としてやらせてもらうよ。

 それともしものことを考えて泊まる部屋は一緒だけどいいよね?」

「マジですか!?えらく積極的ですね!!」


 彼女はあからさまに動揺した様子を浮かべた。

 先程まで不敵な笑みを浮かべていた人間とは思えない。

 推しに弱いことは何となく察していたが、ここまでとは……。


 どこか人間離れした彼女の人間らしい一面が見れて誇らしく思える。


「信用できない?」

「…信用していないわけじゃないですよ。

 むしろ信用できなければ、先輩を家になんて呼んでませんよ」

「それは確かに」

「先輩は草食系男子日本代表選手ですから」

「東京オリンピックに出られるなら目指してみるね」

「その時まで生きていればいいですけどね」

「……」


彼女の言葉に僕は答えることは出来ないでいた。

そんな冗談を言わせてしまうことこそ僕の罪であり、それを聞くことこそ僕への罰なのだろう。


今まではそれでよかった。それでいいと思っていた。

だけど今は―――。


「もうこんなこと辞めにしよう」


窓の外ではひぐらしが哀愁を誘うように鳴いているのに、部屋の中は異様なほど静まり返っていた。

クーラーの室外機の音が一定のリズムで唸り、その低い響きだけが僕と彼女の世界の時間が進んでいることを知らせていた。


そして室外機の音が止んだ――――同時に彼女が口を開いた。


「えっと…何をですか?」


 彼女は先程までの動揺した表情とは打って変わり、笑顔だった。

 それもとびっきりの引きつった笑みを浮かべていた。

 本当は聞こえているのだろう。だが聞き返さずにはいられない。


 それは正しいのかもしれない。

 僕らの関係は口に出さなければ成立しない関係。

 あの時、教室で神に誓ったように。


 冗談だったでは済まされない。誤解だったでは許されない。

 辞めるのであれば、確かにハッキリと宣言しなければならない。

 それが僕らの馬鹿げた関係なのだから。


「こんな冒涜的な小説を書くことをさ」


 僕はずっと悩んでいた。

 このままでいいのかと。

 彼女が死ぬことで成立するような小説を書いてもいいのかと。

 彼女の死を望んでいいのかと。


 それは初めの問と変わらない。

 小説家になり人を辞めるか。人として生きて小説家になることを辞めるのか。

 ただ答えが変わった。彼女と出会い関わることで、気持ちが変わった。


 だから今、この小説から手を引くべきなのだ。取返しがつく内に。

 彼女の命の灯が完全に消えてしまわないうちに。


 たとえ小説家という夢を諦めても。

 僕のこれまで書いていた小説が無意味に石を積み上げるだけの作業に変わっても。


「だから―――」

「辞めるだなんて……言わないでくださいよ……」


 彼女は弱々しい声をだした。

 マッチの火のように吹けば消え、力を入れれば芯から折れてしまいそうに。

 本当に本物の病人であるかのように―――。


「先輩が小説を書くことを辞めたら……。

 私は何のために生きればいいんですか……」

「これから一緒に探そう。君が生きている意味を。

 何があっても、僕は隣にいるから」


 全て間違っていたのだ。

 彼女が小説のヒロインになることが生きる意味なのは先程の話で知った。

 ならば別の生きる意味を探せばいい。


 自分を犠牲にしない生きる意味を。

 本当にやりたいことを。誰もが救われる未来。

 現実なのだからハッピーエンドを目指さないといけない。

 それが生者の義務だ。そしてまだ生きている彼女の義務でもある。


 これで全て終わる。

 いや今から始まる。


 それは物語のハッピーエンドのように思えた。

 大団円で終わり、あとがきでその後の生活が垣間見えるような。

 そんな幸せな物語に―――――――――


 ゴンっと、何かが叩きつけられる音がした。

 それが何か理解するより先に―――それは聞こえた。


「今日付き合わせたことを怒っていますか?今まで迷惑を掛けたことを怒っているのですか?すみませんでした、調子に乗っていたんです。病人風情が健康な人の迷惑を掛けていいはずはなかったですね。

 もう我儘なんていいませんから、どうか辞めるなんて言わないでください」

「!?」


 それは懇願だった。彼女はペタリと頭を床につけて泣きながら謝った。

 その姿に寒気がした。どうして、という疑問が脳裏を駆け巡る。何か勘違いしているのか。僕が勘違いをするようなことを言ったのか。


 只事ではないことが見てわかった。


「違うんだ。怒っていないし、君は悪くなんかない。

 顔を上げて、話を聞いてくれ」


 僕は彼女に近づき、両肩を掴み身体を起こした。

 彼女の顔は泣き腫らして赤く、そして額には床の模様の痕が額ついていた。

 どれだけの力で自分の頭を床に付けていたのかと思うと、余計に悪寒がする。


「小説を書くことを辞めるだけなんだ。

 君の傍から離れたりしない。

 今までと同じように傍にいるし、君の願いは何でも叶えるつもりだ」


 なにも変わらない。ただ彼女の傍にいる理由が変わるだけ。

 それだけなのにどうして彼女は―――


「なんのために?」


 自分を卑下している彼女には明確な理由が必要だったのだろう。

 小説を書くという利害関係のような理由が。僕の言葉を信じる為の根拠が。


「君のことが好きだから。

 君のことをずっと愛していたい」


 決して許されるはずの無かった愛の言葉。

 彼女の死を望む人間が口にしてはならない禁句だった。


 だが小説を書くことを辞めた今なら言ってもいいはずだ。


「君のことを愛している。死ぬまで隣に居させて欲しい」


 都合が良いと言われるかもしれない。

 だけど僕の本心だった。今までのことが許されるとは思わない。

 だから許してくれるまで隣に居たかった。彼女の役に立ちたかった。


 だから彼女にもきっと届いてくれる。そう思っ―――


「先輩まで愛を語るんですか……」


 彼女の表情は絶望だった。

 裏切りを受けた表情、何も期待なんてしていない顔。

 決して愛の言葉を告げられた者がする表情ではない。


 僕には理由がわからなかった。

 理解できなかった。だから問おうと思った。

 だけど許してはくれなかった。きっとこれは罰なのだ。


「たすけて……」


 彼女が小さく言葉を漏らすと同時だった。

 彼女は当然咳き込み、そしてソファーに伏した。

 自身の喉を掻く姿は、まるでそこに死神が用意した不可視のロープがあるようだ。


 彼女の口元からは激しい呼吸音と言葉にならないかすれた声、口元からは涎がとめどなくソファーへと流れ落ちる。


 どうすればいいかわからなかった。頭の中が真っ白になった。

 持病などないはずなのに、僕も彼女と同様に過呼吸で上手く脳に酸素を取り込むことが出来ないでいた。


 1、1、9。

 スマホを操作し三回だけ数字を押せばいいだけなのに、僕の思考はそれをしない為の言い訳ばかりを考え続けた。

 治るかもしれない。迷惑かもしれない。本当に受け答えが出来るのか。

 言うべき内容を整理してから掛けた方がいい、などと。


 躊躇すれば僕は救急車を呼ぶことを辞めると知っていた。

 だから考えをまとめるよりも先に動くしかなかった。


『……はい。こちら―――』


 消防署との会話の内容は覚えてはいない。

 多分必死に言葉にならない単語の羅列を言っていたのだと思う。


 幸いなことに、その様子を見てイタズラではないと判断してくれたのだろう。

 懸命に僕の言った単語の羅列を繋ぎ合わせて意味を持たせてくれた。

 その結果、彼女の心臓が動いている内に救急車は到着した。


 救急隊員たちは僕にいくつかの質問をしたようだけど、その言葉の意味を理解することは出来ず、曖昧に頷くことしかできなかった。


 頷きを質問への肯定と捉えたのか、それとも状況から判断したのかはわからないが、僕は彼女と一緒に救急車に乗り込み病院へと向かった。


 死にそうな彼女の顔を見ながら何を考えていたのか今の僕には思い出せない。

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