第10話 呑まれる者
港の霧は濃く、雨粒が窓に叩きつける音が鼓動のように響く。最上階の狭い空間には、鉄と油の匂いが漂い、壁の濡れた模様が光に反射して揺れていた。天井は低く、足元の床板は湿って軋む。まるで時間そのものが停滞しているようで、息をするたびに重みが増していく。
マスターは中央に立ち、古びた日誌を手に指先でそっと撫でていた。沈黙の中、背中には歳月を背負った影が張りついている。声をかけることもできず、私はただ雨音に紛れてその沈黙を見つめた。胸の奥で、どうしても逃げられない思いが渦巻く。
──聞かなければならない。
あの町に漂う影の正体を、「一名消」の意味を、海から戻る者たちのことを知るためには、恐怖を押しのけて向き合うしかなかった。昨日から続く違和感が、鈴の音が、佐吉さんや白いワンピースの女性の幻影が、私の中で問いを突き刺して離れない。
マスターが日誌を開き、指でページの角を押さえた。波打つ紙と滲む墨の文字に触れながら、ぽつりと口を開く。
「この町は、潮が満ちる日に“戻ってくる”場所だ。消えた者たちが、海からね」
日誌のページをめくるたび、具体的な事例が目に入る。「昭和三十九年 八月十五日 一名消」「昭和五十年 三月二日 一名消」──漁に出た若者、観光客の親子、船乗り。名前は違えど、消えた者は必ずひとりだけで、潮に攫われる。
「戻った者は完全にはこちらにいない。半ばこちら、半ば向こうにある。だから探すんだ」とマスターは指先で文字をなぞりながら説明する。
鈴の音が最初の合図で、霧の晩には港に響く。次に影が現れ、壁や窓に浮かぶ。最後に呼ぶ声が聞こえたとき、その者は間近に迫っている。白いワンピースの女性の幻影が、私の前にふっと現れ、手を伸ばす。目の奥には空虚と焦燥が混ざり、探す誰かを求めているのが伝わる。
恐怖で足がすくむ。逃げたくても、身体は思うように動かない。潮と幻影、鈴の音、呼ぶ声が重なり合い、灯台の空間は歪むように感じられた。
マスターは静かに袖をまくり、古い火傷のような痕を見せた。深く刻まれた線は、まるで縄で縛られたかのようだ。
「……わしも、一度“見つけられた”ことがある」と平板に語る声に、奥の痛みが滲む。若いころ、灯台の見回り中に霧の中で鈴の音が背後で鳴り、白い影に腕をつかまれたという。冷たさと焼けるような感覚が同時に押し寄せ、必死に逃げた。
「それ以来、この灯台は、消えた者たちが帰ってくる場所だと確信したのだ」とマスターは言った。恐怖の経験が、彼の知識と重みを増幅させている。
雨と霧が窓を打つ。灯台の光が霧を裂き、室内に影を落とすたび、マスターの横顔が硬く浮かぶ。
「――次は、お前かもしれん」
低く抑えた声は冗談ではなく、事実だけを告げる重みだった。潮は順番を選ばず、名も年も理由も関係ない。まだこちらに残る者を探し続ける。私の背筋に冷たいものが這い上がり、喉が渇き、声を出すこともできない。
マスターが日誌を閉じ、机に置く。重い音が灯台全体に響き、波が岩を打ち砕く轟音が重なる。恐怖の問いは私の中で静かに膨らみ、頭から離れない。
──本当に、次は私なのか。
その瞬間、遠くから鈴の音が響いた。微かに、でも確かに、私の耳の奥で反響している。振り返る暇もなく、白い影が視界の端に現れ、手を伸ばしてくる。思わず後ずさる私の足元を、湿った床板が滑らせた。心臓は怒涛のように打ち、息が詰まる。
潮の匂い、湿った空気、そして幻影の手。灯台の空間が一瞬で歪み、時間も重力も失われたかのように感じられた。振り返ると、マスターの姿はすでに遠く、日誌も静かに閉じられている。その視線の先に、私を待ち受ける何かがあるのが分かる。
──逃げても無駄なのかもしれない。
冷たい恐怖と絶望が全身を覆う。鈴の音は近づき、白いワンピースの影は徐々に形を帯び、私の目の前に立つ。胸の奥で、直感が鋭く告げる。もう、後戻りはできない──。
波が岩を打ち砕く轟音と、窓を叩く雨の音、そして鈴の音が重なり合い、灯台全体を揺らした。恐怖は極限に達し、私は必死に足を動かすが、手が触れるのは冷たい空気だけ。振り返ると、影はもう私のすぐ後ろに迫っていた。
そして、潮のような力に引き寄せられるように、私はその影に包まれ、光の間に吸い込まれていった。
日誌のページには、また一行が追記される。
「令和七年 八月二十二日 一名消」
灯台の光は霧を裂き、港を照らし続ける。消えた者は戻らず、また誰かを探すために潮が満ちるのを待つ。
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