第9話 記録と代償
最上階へと続く最後の階段を登り切ったとき、胸の奥に張りつめた糸が震えるのを感じた。そこは思っていた以上に狭く、天井の低い部屋だった。
円形の壁には小さな窓がいくつもはめ込まれていて、外の雨粒が次々と打ちつけ、にぶい音を響かせている。硝子越しに差し込む光はどれも濁っていて、壁の白さを歪ませ、油に濡れたような模様を浮かび上がらせていた。灯台の機械からは、鉄と油の入り交じった匂いが漂い、足元の床板はしっとりと湿っていた。
まるで時間そのものがここで止まり、重く澱んでいるかのようだった。
その中央に、マスターは立っていた。
手には古びた航海日誌。指先でその表紙を撫で、目を落としたまま、長い沈黙を守っている。普段の穏やかな笑みはなく、背中には歳月を背負った影のような疲れが張りついていた。
私は声をかけることもできず、ただ雨音に紛れて彼の沈黙を見守っていた。けれど胸の内には、どうしても逃げられない思いが渦巻いていた。
──聞かなければならない。
この町に漂う影の正体を、あの「一名消」の意味を、そして海から戻ってくる者たちのことを。
恐怖はあった。聞いてしまえば、もう後戻りできないという直感もあった。けれどそれ以上に、知りたいという思いが私を突き動かしていた。昨日から続く違和感が、鈴の音が、そして佐吉さんや白いワンピースの女性の姿が、私の中に問いを突き刺したまま抜けないでいる。
マスターの唇が、ようやくわずかに動いた。
私は息をのむ。
マスターは日誌を開き、指でページの角をそっと押さえた。
紙は黄ばんで波打ち、墨の文字はところどころ滲んでいる。彼は何度かめくりながら、ぽつりと口を開いた。
「この町はな……潮が満ちる日に“戻ってくる”場所だ。消えた者たちが、海からね」
めくられた一頁には、灯台の絵とともに「昭和三十九年 八月十五日 一名消」と書かれていた。次の頁にも「一名消」。さらに別の年の日付が続き、その度に「一名消」の文字が記されている。
「漁に出た若者、観光客の親子、船乗り……名は違えど、記録は同じだ。必ずひとりだけ、潮に攫われる。そして……戻ってくる」
マスターの声は低く、硬い。
彼は別の頁を指先でなぞった。そこには「深夜、鈴の音」「影が二階に立つ」と震えるような文字が書き込まれている。
「戻った者は完全には消えとらん。半ばこちらに、半ば向こうにある。だから“探す”んだ。自分を見てくれる誰かを、代わりにここへ引きずり込むためにな」
私の背筋に冷たいものが走る。
マスターはさらに続けた。
「鈴の音は、その始まりだ。霧の晩、港に響く。次に影が現れる。壁や窓に、ありもしない人影が浮かぶ。そして最後は声だ。呼ぶ声が聞こえたとき、そいつはもうすぐ近くにおる」
彼の眼差しが暗がりを見据える。日誌の紙が、雨風に煽られたようにふるりと揺れた。
マスターはしばらく口を閉ざし、指先で日誌の端を撫で続けていた。やがて決意したようにゆっくり袖をまくる。
そこには古い火傷のような痕が腕一面に残っていた。皮膚は波打ち、深く刻まれた線はまるで縄で縛られたかのようだった。
「……わしも、一度“見つけられた”ことがある」
声は驚くほど平板だった。感情を抑え込んだように、しかし奥に沈殿した痛みが滲んでいる。
「若いころ、灯台の見回りをしていた晩だった。霧が濃くて、鈴の音がすぐ背後で鳴った。振り返った瞬間、白い影が腕をつかんで……冷たいのに焼けるようだった」
マスターは言葉を区切り、傷跡を見下ろした。
私は息を詰め、声をかけることができない。
「必死に逃げて助かった。だが、それ以来だ。この灯台は、消えた者たちが帰ってくる場所だと確信したのは」
語り終えたとき、灯台の窓を雨が強く叩いた。音が妙に遠く聞こえ、心臓の鼓動だけが鮮明に響いていた。
マスターは袖を下ろし、深く息を吐いた。窓の外では灯台の光が霧を裂き、一定の間隔で室内に影を落としていた。その明滅のたび、彼の横顔が硬く浮かび上がる。
「――次は、お前かもしれん」
低く抑えた声が胸を突き刺す。軽い冗談の響きなど一切なく、ただ事実を告げるような重みだけがあった。
「潮は順番を選ばん。名も、年も、理由も関係ない。ただ……まだこちらに残っている者を、探し続けるのだ」
私は喉が渇き、言葉を返せなかった。背筋を冷たいものが這い上がり、視界の端で壁の落書きがゆらゆら揺れて見える。
マスターは日誌を閉じ、重々しい音を立てて机に置いた。
その音が合図のように、灯台全体が軋み、波が岩を打ち砕く轟音が響いた。
――本当に、次は私なのか。
恐怖の問いが、頭から離れなかった。
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