灯台通りのカフェ

アンティス

第1話 灯台通りの朝

海からの風が、ほんのり潮の匂いを含んで吹き抜ける。

朝日が灯台の白い壁を照らし、細長い影を港の石畳に落としていた。


「——おはようございます」

私は古びた引き戸を引き、海辺のカフェ「マリンノート」に入った。

カウンターの奥でマスターが、磨き上げたカップを静かに棚に戻している。

年齢は五十代くらい、背筋がすっと伸びた細身の男性だ。髪には白が混じっているけれど、その動きには無駄がない。


はるかちゃん、今日からだっけね」

「はい。よろしくお願いします」

差し出した手を、マスターは少し迷ったように見てから握った。温かいけれど、ほんの一瞬の逡巡しゅんじゅんがあったような気がする。


カウンターの後ろ、壁に掛けられた丸い時計が目に入る。

針は5時45分を指したまま、ぴくりとも動かない。

「壊れてるんですか?」

「はい、もう変えないとですね」

そう言ってマスターは微笑んだが、その目は時計ではなく窓の外を見ていた。


店内は木のはりがむき出しで、ところどころ潮風で色が褪せている。窓からは港と青い海が見えた。

この町に来てまだ一週間。海辺で暮らすのは初めてで、何もかもが新鮮だった。


午前の客は少なかった。

漁から戻ったばかりらしい男が二人、奥のテーブルで静かにコーヒーを飲んでいる。

カウンターの端には、新聞を広げた年配の女性。顔は柔らかいが、目は紙面から一度も離れない。


「今日は静かですね」

私が声をかけると、厨房から先輩バイトの美咲さんが顔を出した。

二十代前半くらい、日焼けした肌と明るい茶色の髪が健康的だ。

「この時間はね、港でみんな忙しいのよ。昼になると観光客がどっと来るから、今は休憩タイムって感じ」

「なるほど……」

カウンター越しに、私は美咲さんからコーヒーの淹れ方を教わった。

豆を計る音、湯が落ちる音、潮風に混じる香ばしい匂い。

都会の喫茶店では感じられなかった、ゆったりとした時間が流れていた。


昼近く、港からの人々がぞろぞろと入ってきた。

魚の匂いと笑い声が店を満たす。椅子が引かれ、カウンターが次々と埋まっていく。

その中に、小柄な老人が混じっていた。笑顔は柔らかいが、片方の手には深い傷跡が走っている。


「今日はどうだった?」

「まあまあだな。潮が強くてな」

老人はそう言ってカウンターに腰を下ろし、私に視線を向ける。

「新しい子かい?」

「はい、遥です」

「遥ちゃんか。……いい名前だ」

その言い方が、少し遠くを見るようで、不思議に思った。


昼のピークが過ぎたころ、私は思い切ってマスターに尋ねた。

「このお店、ずっとここにあるんですか?」

マスターはカウンター越しにコーヒーを注ぎながら、窓の外に目を向けた。

「……まあ、そうだな。十年以上にはなる」

「じゃあ昔からの常連さんも多いんですね」

「ああ。——あまり、昔の話はしないけどな」


その一言に、隣で片付けをしていた美咲さんも、新聞を読んでいた年配女性も、

なぜか同時に動きを止めた。

重くもない、でも妙な沈黙が、店内をすっと通り過ぎた。


午後、客足が落ち着き、私と美咲さんでテーブルを拭く。

「ねえ、美咲さん。あの時計……」

「ああ、あれ? 直そうと思えば直せるんだけど、誰も触らないんだよ」

「どうしてですか?」

「さあね。ただ——止まってる方が落ち着くんだってさ」

美咲さんは笑ったが、その笑みは少しだけ硬かった。


閉店後、外に出ると海はオレンジ色に染まっていた。

灯台がゆっくりと明かりを灯し、港を見下ろしている。

海風が頬を撫で、波音が寄せては返す。

私は深く息を吸い込み、潮の香りを胸いっぱいに満たした。

この町での生活が、何か大切なものを私にくれるような気がしていた。

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