第2話 潮風と写真

朝いちばんの風は、昨日よりも塩気を強く運んできた。カフェ「マリンノート」の前を、氷の入った木箱を抱えた人たちが行き過ぎるたび、路地にちいさな水の道ができる。軒先で丸くなっていた店猫のシロが伸びをして、私の足もとを八の字にすり抜けた。


「おはようございます!」

暖簾をくぐると、カウンターにはもう湯気が立っている。マスターは豆を挽きながら軽く会釈し、美咲さんはエプロンの紐を結び直していた。

「遥ちゃん、今日は手書きの黒板、お願いできる?」

「はい!」

チョークで書く。本日のおすすめ——塩レモンソーダ、港町サンド。文字の横に、下手な灯台の絵も添えた。美咲さんが覗き込んで笑う。

「上手いじゃん。灯台がやけに足長いけど」

「風で伸びたんですよ」

「なるほど」


開店と同時に、港帰りの人たちがぱらぱらと入ってくる。氷の音、長靴の底で水を切る音、笑い声。カウンターの端には、昨日の小柄な老人——佐吉さんがいつのまにか座っていた。肩口に海藻の切れ端がついている。

「おはよう、遥ちゃん。よく眠れたかい」

「はい。潮の音が子守唄でした」

「そりゃあいい」

忙しさが来る前の柔らかい時間。私はミルクピッチャーを温め、泡を巻く手の角度に集中する。マスターが隣でさりげなく角度を直してくれる。視線の先、壁の丸い時計は今日も5時45分のまま穏やかに止まっていた。


昼近く、観光客のカップルや自転車の大学生グループが重なり、店は一気ににぎやかになった。黒板の塩レモンソーダがよく出る。炭酸のはじける音が重なるたび、店内が明るくなる気がした。

「ねえ、灯台って近いの?」と、カップルの女の子。

「歩いて十五分くらいですよ。夕方がおすすめです。でも、夜は行かないほうがいいですよ」

「どうして?」

美咲さんは少し笑って、「暗いから危ないの」とだけ答えた。


テーブル片付けの合間、私はスマホを取り出して黒板の写真を撮った。今日の記録にするためだ。カメラを横に振ると、カウンター席で笑う人たちがフレームに入る。シャッターを切った。

——画面に映ったのは、黒板と空席と私の腕。賑やかさは音だけになって、写真は少し広い空気を抱えこんでいるみたいに見えた。

「うわ、ブレた」

苦笑して撮り直す。今度はピントも合って、炭酸の泡までくっきり写っている。それでも、カウンターの端に座っているはずの佐吉さんの席だけ、光が強く反射して中身が掴めなかった。

「何見てるの?」

のぞき込んだ美咲さんに画面を見せると、彼女は首を傾げた。

「反射だね。午後は日が入るから」

「そうか」

言われればそのとおりで、私は納得したことにした。休日の昼下がりみたいな軽さで、疑問はすぐに泡のように弾けた。


午後の波が引くと、店はゆるやかに呼吸を取り戻した。マスターが豆袋を抱え、私は棚のグラスを磨く。入口のベルが鳴り、地元の中学生が三人で入ってきた。部活帰りなのか、肩にかけたリュックが濡れている。

「塩レモン三つください!」

「はーい」

彼らは窓際の席に座ると、スマホを並べて何やら盛り上がっている。聞くともなく耳を傾けると、町のスタンプラリーの話だった。**“灯台通り七景”**と名付けられた、観光協会の遊びだという。

「七景って、どこ?」と私が訊くと、彼らは勢いよく指折り数えた。

「灯台、防波堤、アーチ橋、古本屋、港の市場、観音崎、そして……」

「そして?」

三人は顔を見合わせ、少し笑って声を揃えた。

「カフェ・マリンノート!」

「うちが景色?」

「名物の氷コーヒーが“映える”んだって」

美咲さんが肩をすくめ、マスターが照れくさそうに咳払いをした。中学生たちは「店員さんも一緒に撮っていいですか」と無邪気に頼んできた。

「もちろん」

私と美咲さんは黒板の前に立ち、彼らのスマホに向かってピースをする。シャッター音が重なって、賑やかな笑い声がはじけた。

——写真をチェックした彼らが、一瞬だけ顔を曇らせるのが横目に見えた。

「どうかした?」

「いえ、ちょっと手ブレして……もう一枚!」

二度目のシャッターはさっきよりも元気に鳴った。今度は満足したらしく、三人は「ありがとうございました!」と頭を下げ、スタンプラリーのカードを振りながら出ていった。

氷の解ける音だけが残る。私は胸元に少しだけ残った違和感を指で押し込んだ。


夕方、佐吉さんが「散歩はどうだ」と声をかけてくれた。マスターは「閉店前には戻ってこいよ」と言って、鍵束をカウンターに置いた。

港の堤防は潮の匂いが濃い。ロープは湿り、金属の輪が風に鳴る。ゆっくり歩きながら、佐吉さんは昔話をした。

「この町は、十年前に大きな嵐が来たんだ」

「昨日も聞きました」

「おお、そうだったか」

彼は笑って頭を掻く。

「同じ話ばかりして悪いな。年寄りはね、良かった時の話と、忘れたい日の話を、同じ声色で話しちまう」

防波堤の先、灯台が近い。白い壁は風で削られ、ところどころ塗料が薄い。私はスマホを取り出した。


「一緒に撮りませんか」

「おう」

並んでシャッターを押す。潮風が強くて、髪が額に貼りついた。画面を確認する。

——灯台と海、風に煽られた私の髪。隣にいたはずの佐吉さんの場所だけ、陽炎のように揺れていた。

「……変ですね」

「どうした」

「いや、逆光で……」

私はスマホを胸ポケットにしまった。佐吉さんは、何も聞かなかったふうに灯台の根もとを指差す。

「この辺り、春になると小さな花が咲くんだ。潮に強い、色の濃い花でな」

「見てみたいです」

「来年も咲くさ」

来年、という言葉が、海の上を滑っていった。

店に戻る道すがら、私はスタンプラリーの看板を見つけた。七つの丸い枠のうち、六つには可愛いイラストが印刷されている。残る一つ、灯台の枠だけが、なぜか薄く色が抜けて見えた。夕陽のせいかもしれない。


夜のカフェは、昼とは別の店みたいに落ち着いていた。常連たちはカウンターで穏やかに笑い、マスターはゆっくりと湯を落とす。私は明日の仕込みのためにシロップを測り、グラスを磨いた。

「遥ちゃん、店のアルバム知ってる?」

美咲さんが、棚から分厚いフォトアルバムを取り出した。表紙には金色の文字でMARINE NOTEとある。

ページをめくると、季節ごとの写真がぎっしりだった。春の桜、夏の花火、秋祭り、冬のランタン。笑顔が重なり合って、ページが少し重たく感じる。

「すごい……」

「町の人たちが撮ったやつを、気まぐれに集めてんの。はい、これは去年の花火」

ページの真ん中に貼られた一枚。黒い空に大輪の花。ページの隅には小さなメモが添えられている。‘‘灯台通り花火大会 17:45

「花火って、夜じゃないんですか?」

「うん? あ、これ撮った子が時間を間違えたんだよ。花火はたしか、八時」

「そうですよね」

笑い合ってページをめくる。けれど、日付と時間を書いたメモは、ほかのページでもふしぎと5:45を多く含んでいた。朝か夕か、判断できない中途半端な時間。

閉店後、私は黒板の写真をプリントして、レジ横の掲示板に貼ることにした。家庭用の小さなプリンターが、ゆっくりと紙を吐き出す。色は鮮やか、泡もくっきり。だけど——

カウンターの端、佐吉さんが座っているはずの場所は、まっさらな光の塊になっていた。白でもなく、透明でもなく、そこだけが写真という記録からするりと抜け落ちたみたいに。

「インク、飛んだ?」

独り言を言いながら、私はそのまま掲示板に貼った。空白の席が、今日の賑やかさの証拠みたいに見えたから。


帰り際、マスターが戸締まりをしながら言う。

「明日、港でちょっとしたイベントがあるよ。地引き網。手が空いてたら顔出しておいで」

「行きます!」

「無理はしないように。潮が早いかもしれない」

外に出ると、灯台が一度だけ明滅した。波の向こうで、小さな光がいくつも瞬く。漁船の帰る目印だ。通りには夏の夜の匂いが降りてきて、シロが足もとをもう一度往復した。

私はポケットのスマホを取り出し、堤防で撮った写真をもう一度だけ開く。灯台と海。風に押される私の影。そこにいないはずの空間に、視線が自然と吸い寄せられていく。

明日も、きっと楽しい。明後日も。——そう思うのは簡単だ。

画面を閉じると、遠くで時報が一度、遅れて鳴った。耳が拾い間違えたのかもしれない。通りの端、掲示板の前で、私が貼った写真が夜風にかすかに揺れていた。


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