厄喰みのヒカリ

白菊

メルクーリ邸

窮屈な誕生日

 彼は、後ろでジョヴァンニが髪を編んでいくのを感じていた。ふたりきりの部屋は互いの呼吸が聞こえるほど静かで、重々しい鼓動の音に混じって、髪が赤いベルベットのリボンと編み進められるくしゅくしゅした音がはっきりと聞こえた。それに対して、屋敷はどこか浮ついた様子で賑やかだった。ぼんやりと、ひとの話し声や、笑う声が聞こえてくる。


 外の世界では、音のない涼やかな風が夏のみずみずしい熱気をすっかり鎮め、歩道に赤い葉を落としている。窓の外、すぐそこに広がる庭では、そのすっと心をなでるような涼しさにふれて、ばらのつぼみがふわりと開いた。

 カーテンが揺れる。この三階にまで、甘やかなばらの匂いが届いた。見栄を張るような広い庭を美化するために咲かされる、憐れな花の匂い。ポースは髪を整えられながら、宝石のような淡い青の目を憂鬱に細めた。また、秋がきた。宴が開かれる季節——この社会の嫌なところを煮詰める場が用意される季節。


「さあ、ポースさま。素敵ですよ」鏡の中でジョヴァンニがそっと微笑んだ。首のあたりまで伸びた黒い髪の先が小さく揺れた。

 ポースも表情をやわらげた。「ありがとう」

 ジョヴァンニはポースが立ちあがるのを察して、その髪にふれた。ポースはそれに気づいて、肘かけから手を離した。華奢でありながらも、大きく、力強さを感じさせる手が離れる様子は、ジョヴァンニをどこか満足した心地にさせた。

 それでいて、胸に熱い炭を押しつけられたようでもあった。ちりちりと焼けるように衝動が湧いてくる。

 ジョヴァンニはたまらなくなった。少しかがんで、ポースの死角で彼の髪をのせた指先を持ちあげた。そこへわずかにくちびるを近づけて、ますます苦しくなった。

 愛している——。

 わかりきっている、いけないことだ。ポースに仕える身だ。相手は王の次子で、自分とおなじ男性だ。

 ジョヴァンニは姿勢をなおして、赤いリボンの映えるブロンドの髪からそっと手を離した。小さく吐き出した息は炎が揺れるようにふるえた。「……お美しい」

 ジョヴァンニの胸中など見えないポースは冷静に笑った。「おかげさまで」


 ジョヴァンニは立ちあがったポースの細くも筋肉のついて引き締まった体に、髪に編み込んだリボンとおなじ生地の、赤いコートをのせた。ポースが腕を通す。

 金の糸で繊細な模様の描かれたコートのふちを、白いファーが飾っている。それは首元ではボリュームを増して、防寒の役も担っている。

 ジョヴァンニは半歩引いて、ポースの服から靴の先までを見た。主人の目元へ戻そうとした視線が、一瞬、そのくちびるで止まった。

 ジョヴァンニは微熱を帯びた息をついて目をそらし、微笑んでからようやくポースの目を見た。「完璧です、ポースさま。きょうの宴の主役にふさわしい出来でございます」

 彼の髪を編んだ、彼にこの服を着せた。自分の手で——この自分こそが、このポース・メルクーリを完成させた。その事実は胸の中で甘い興奮と満足となってうごめき、ぞくぞくと全身に広がった。


 お美しい——。


 ふと、ジョヴァンニはポースの表情が明るくないのに気がついた。「ご気分がすぐれませんか」

 ポースは口角を持ちあげた。「いいや、そんなことはないよ」

「体調がすぐれないようでしたら、すぐにお申しつけください」

「ありがとう」

 ジョヴァンニはポースの前でそっと膝をついた。「本日はポースさまの十七回目のお誕生日。謹んでお祝い申しあげます」

「ありがとう、ジョヴァンニ。きみも、再来月に誕生日だね。二十五歳になるんだ」

 ジョヴァンニはぞくりとするような喜びに目を見開いた。見あげた主人は優しく微笑んでいた。「まさか、わたくしのことがポースさまの記憶に残っていたとは!……」

「忘れるものか。ぼくはきみとの時間を、外の世界にふれるかのように楽しんでるんだ。きみが聞かせてくれる話は、どれも大切にしているよ」

 肩にポースの指先がふれた。火がついたような熱は、そこからジョヴァンニの全身へ広がった。

「さあ、いこうか」

 やわらかなささやきにうっとりとした。「はい、……ポースさま」


 ポースが大広間へ出ていくと、「ポースさまのおいでだ!」とだれかが声をあげた。大きなシャンデリアの光と、無数に重なる音と声が、もうすっかり秋だというのに会場にむっとした熱気を感じさせた。

 彼は大勢集まっていた貴族からあいさつと祝福の言葉を受けた。笑顔を見せていくつかの言葉と握手と抱擁を交わして、兄のレイモンドの立っているところへ向かった。

 兄はポースが隣につくと「遅かったな」とささやいた。「おまえのためのパーティなんだぞ」

「すみません」

 ぼくのため、ね——。ポースは内心で苦笑した。いいや、そうじゃない。これは幸せな祝宴なんかじゃない。貴族が寄せ集められて、それぞれ自分がいかに素晴らしいかを誇示するための場だ。そして、その合間合間に、一服でもするつもりで、愛国心を持ったふりでひとを批判するための場だ。

 ジョヴァンニがポースにグラスを渡して、ドリンクを注いだ。レイモンドが自身のグラスを向けてきたので、ポースは自身のグラスをあてて軽く音を立てた。それから一緒に一口飲んだ。

 少し離れたところで、両親が謙遜するふうに、しかしはっきりと誇らしげに笑っているのが見えた。


 いよいよ宴もたけなわ。レイモンドとポースの父である王がグラスを片手に声を張りあげた。「せっかくお集まりいただいたのです、存分に、自由にお楽しみいただきたい!」

 どっと歓声が沸いた。


 音楽の演奏がはじまった。気のあう者同士、親しい者同士、軽蔑せずに済む者同士、手を重ねて旋律にのる。無数の階級が浮き彫りになって揺れている。男と女、互いにささやきあって、関係の発展を目論んでいる。自由にとはいっても、手をとりあうのは普段から近くにいる者同士なのだ。

「ポースさま」と女性から声がかかった。ポースはぴくりと肩をふるわせた。小柄で色白で、目がぱっちりと大きな女性だった。淡いピンクのドレスに、白い厚手のショールをかけている。顔立ちこそ華やかだけれども、服の質は、この会場ではそれほどいいものではなかった。彼女は控えめにしながら手を差し出した。「あなたと踊りたいと願う、わたくしの無礼をお許しいただけませんか?」

 ジョヴァンニがそっとポースのグラスをとった。ポースが振り返ると、彼は静かに微笑んだ。

 ジョヴァンニはポースが女性に連れていかれるとき、自分の編んだ美しい髪の先を指先ですくった。ポースはそれに気づかずに進んでいった。黄金の絹のようなやわらかく繊細な髪は、彼に対してある種の拘束を願うジョヴァンニの指をするりと抜けていった。


 ポースを会場の端から連れ出した少女は嬉しそうだった。「お祝いの言葉が遅れました」少女は丁寧にお辞儀した。「ポース王子殿下、十七回目の誕生日を迎えられましたこと、心よりお祝い申しあげます」

「ありがとう、ミス……」

 少女は無邪気な笑顔でポースを見あげて、名前を告げた。


 ジョヴァンニの視線の先で、ポースは少女と手を重ね、慣れたふうにステップを踏んだ。彼の髪の先が揺れる。コートの裾が揺れる。その手が、少女の腰にふれる。

 ジョヴァンニは顔をしかめて目をそらした。なにか強い酒でもあおりたくなった。

「ポースが気になるのか?」

 レイモンドの声がした。グラスの中身が、ジョヴァンニの動揺をいいふらすように揺れた。

 ジョヴァンニは冷静を装って目を細めた。「それはもちろん。私は、ポースさまにお仕えしておりますから」

 レイモンドは意地悪く笑った。「そうだな。付き人ヴァレットとして、主人の様子は気になるものだ。……しかし、おまえの目はそういう目じゃない」レイモンドはグラスの中身を口に含んで、もったいぶるようにじっくりと味わった。やっと飲みこんで、ポースと踊る少女を見た。「まるで……彼女のような目だ。恋する、乙女のね」

 ジョヴァンニは音楽の賑やかさに隠れて深呼吸した。「ご冗談を。私は男でございます。ポースさまもまた、男性でいらっしゃいます……ありえないことです」

「へえ」レイモンドは探るようにジョヴァンニの目を見た。それからにやりと笑った。「まあ、それもそうだよな。男同士なんて……」レイモンドは考えたくもないとばかりに苦々しく笑って首を振った。「冗談じゃない」

「ええ」とジョヴァンニは返した。ポースの様子をうかがって、すぐにまた目を逸らした。「冗談じゃない」

 それからすぐに、レイモンドも女性のさそいに応じた。自身の身分に対する誇りが滲んだ女性で、会場内でも特に上質で華やかなドレスを着ていた。


 ポースには少女の青い目の無邪気さが不思議だった。笑みに細められながら、ただ純粋に、楽しそうにきらめいている。

 どうして、どうして彼女は、こんなふうに笑えるのだろう。窓の外に見える景色に、空を飛ぶ鳥に、夜空に散りばめられた星々に、憧れることはないのだろうか。こんな世界は窮屈だと、思うことはないのだろうか。

「ねえ、ポース殿下」

 声がして、はっとした。「うん」

「あたし、これがはじめての社交の場なんですの。この記念すべき日に殿下と踊っているなんて、あたし、とっても幸せですわ」

 ポースはしつこくこびりついたように感じるほど深く、納得した。彼女はより窮屈な世界から、こちらの窮屈な世界へ、きょう、はじめて出てきたのだ。屋敷から飛び出してすぐのところにある庭を、世界のすべてのように感じてわくわくしているのだ。彼女はまだ、庭に咲く花の名前も知らないような状態。だから、その庭に開放感と、目新しさを感じているのだ。


 納得すると、途端に同情するような気持ちが湧いてきた。この少女はこれから、この自慢と欺瞞に満ちた窮屈な世界に苦しむことになるだろう——。


 ポースは少女の目のかがやきに憧れ、また同情しながら、改めて外の世界への憧れを抱いた。本で読んだような、ジョヴァンニから聞いたような、周囲のひとと対等な暮らしがしたい。空を読んで時間の移ろいを知り、季節の変わるごとに、雨の、日光の恵みを祈る暮らしがしたい。この屋敷の中の暮らしでは、カーテンを開け、窓を開けることでしか、季節の変わったのを知ることができない。この暮らしには、こちらに視線を向けるひとがあまりに多すぎる。


 少女は踊りが終わると、かわいらしくお辞儀をした。「殿下の貴重なお時間をあたくしに分けてくださったこと、お礼申しあげます」


 華やかな音楽がやむと、自然と自由な時間が戻ってきた。

 先に端へ戻っていたレイモンドがジョヴァンニからポースのグラスをとった。ポースは「お疲れさま、ポース殿下」といって差し出されたのを、さらりと礼をいって受けとった。

「おまえは父上の自慢の息子だろうな」

 ポースは一口飲んで、乾いた口と喉を濡らした。「それはどうも」

「おれだったら彼女とは踊らない」

 ポースはすっと目を細めて兄を見た。彼は言葉を選ぶそぶりを見せて、すぐにあきらめたように肩をすくめた。「彼女の服は質素だった。おれには王子としてのプライドがある」

 ポースは顔をしかめた。くだらない、と心の中でつぶやいた。「相手から声をかけられたなら、ありがたく応じるべきです」

 ジョヴァンニはまたちらりとポースを見た。引き剥がそうとした視線はやはり、くちびるに惹きつけられた。視線に気づいたポースがジョヴァンニを見た。ジョヴァンニのほうもまたポースの視線に気づいて、その目を見た。「きみもそう思うだろう?」との主人の声にあいまいに微笑んだ。

「〝差〟というのは、」とレイモンドがいった。「どこにでも存在するものなんだよ。おれとおまえとの、考えの間にもあるように」

 レイモンドはポースが不愉快そうな顔をしているのに気づいて、「いや、そう」と首を振った。「せっかくのおまえの誕生日だ」

 ポースもこれ以上その話をするつもりはないと伝えるために、グラスの中身を口に含んで、ゆっくりと転がした。


 ポースとレイモンドはそれぞれ、好意的に接してくる相手に笑顔を見せた。ジョヴァンニはポースのそばからレイモンドの様子をうかがっては、ふたりの笑顔にもまた〝差〟があるのを見た。ポースの笑みはレイモンドのものより、苦しげだった。ジョヴァンニはこれまでにも彼のそうした表情を見るたび、ポースのその頬にふれて癒やしてやりたいと願った。日常の手伝いではなく、もっと深い、もっと個人的なふれあいを望んできた。


 男がポースに、丁寧なふうに笑っていった。「ポース王子殿下、我々はあなたに期待しているんですよ。あなたはきっと、父君の立派な後継者となれる! 国民を対等に愛する立派な王に!」

 ポースはあいまいに微笑んだ。

 ぼくは、王になんかなりたくない——。

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