第5話 夜の訪問者と、二人の物語の予感

 自宅の玄関をくぐり、自分の部屋に戻った佐久馬丈瑠は、ベッドに倒れ込むように身を投げ出した。一日中立ちっぱなしだった身体は鉛のように重い。しかし、その疲労感とは裏腹に、頭は妙に冴え渡っていた。瞼を閉じると、今日の出来事が走馬灯のように蘇る。

 屋台の熱気、たい焼きの甘い匂い、そして、すぐ隣で働いていた彼女の姿。

 七瀬結愛。

 学校では、遠くから見つめることしかできなかった、手の届かない存在。その彼女が、アルバイト仲間としてすぐ隣にいた。最初は、心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張した。案の定、大きなミスをして、彼女に助けてもらった時の情けなさは、思い出すだけで顔が熱くなる。

 けれど、時間は二人の間の壁を少しずつ溶かしていった。彼女が見せた、はにかむような笑顔。たい焼きを焼く自分の手つきを褒めてくれた時の、少し照れたような声。それらは、コートの上で見せていたクールなエースの表情とは全く違う、一人の女の子としての、ありのままの姿だった。

 極めつけは、帰り道のことだ。彼女を送っていき、思いがけずご両親に会ってしまった時の、あの心臓が凍りつくような瞬間。しどろもどろになりながら、必死で自己紹介をした自分。今思えば、恥ずかしさで身悶えするほどだが、不思議と後悔はなかった。むしろ、彼女の日常に、ほんの少しでも触れることができたという、奇妙な達成感があった。

 憧れだった。それは、ただひたすらに、眩しい光を見つめるような感情。しかし、今日一日で、その感情は確かに形を変え始めていた。彼女の不器用な優しさに触れ、意外な一面を知り、そして、彼女の家族というプライベートな領域にまで足を踏み入れてしまった。憧れは、より個人的で、温かい、確かな手触りのある感情へと変化していた。

 明日も、彼女に会える。

 その事実が、空っぽだったはずの丈瑠の心を、確かな期待で満たしていく。彼は、疲れているはずなのに、なかなか寝付けそうになかった。


 一方、七瀬結愛もまた、自室のベッドの上で、今日の出来事を反芻していた。

 シャワーを浴びて、祭りの喧騒と汗を洗い流しても、心のざわめきは収まらない。まさか、あの佐久馬君と、あんな場所で一日を共に過ごすことになるなんて。

 佐久馬丈瑠。クラスでは物静かで、目立たない存在。それが、結愛の彼に対する全ての印象だった。バレー部だったことは知っていたが、補欠だった彼のことを、正直に言えばほとんど意識したことはなかった。

 そんな彼が、屋台では別人のように見えた。

 慣れない作業に戸惑いながらも、必死に頑張る真剣な横顔。たい焼きをきれいに焼くことに集中する、どこか職人気質な一面。そして、夜遅い時間にもかかわらず、自分を自宅まで送ってくれた、不器用だけれど誠実な優しさ。

 特に、両親と対面した時の彼の姿は、結愛の脳裏に強く焼き付いていた。緊張で顔を真っ赤にしながら、それでも懸命に、礼儀正しく振る舞おうとする姿。厳格な父が、最後に少しだけ表情を和らげたのを、彼女は見逃さなかった。

 彼のあの真っ直ぐさは、どこか、バレーボールに打ち込んでいた頃の自分と重なる部分があるのかもしれない。

 引退してから、心にぽっかりと穴が空いたようだった。最後のミスの後悔が、常に心のどこかに重くのしかかっている。しかし今日、彼の隣で働いている間、ほんの少しだけ、その重荷を忘れることができた。何かに夢中になることで、過去から目をそらすことができた。

 彼の優しさに触れたとき、彼女の心に空いた穴が、少しだけ温かい光で満たされたような、そんな不思議な感覚があった。

 「また、明日」

 別れ際に彼が言った言葉を、結愛は静かに反芻していた。それは、明日もまた彼に会えるという、小さな喜びの予感。

 バレーを失い、止まっていたはずの自分の時間が、再び動き出すかもしれない。その予感は、彼女の心を、わずかながらも前向きにさせていた。彼女は、自分の胸にそっと手を当てた。そこでは、いつもより少しだけ速い、新しい鼓動が鳴り響いていた。

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