第4話 夕暮れの帰り道と、予期せぬ出会い

 夏祭りの初日が終わったのは、夜の帳がすっかり降りきった頃だった。あれほど賑わっていた人波も引き、屋台の片付けを終える頃には、祭りの喧騒は遠い夢のように感じられた。一日中立ちっぱなしだったせいで、佐久馬丈瑠の足はパンパンに張り、棒のようになっている。慣れない作業に集中し続けたせいか、心地よい疲労感が身体の節々を支配していた。

 「お疲れ様でした!」

 威勢の良かった店主に深々と頭を下げ、法被を畳む。その隣で、七瀬結愛も静かに片付けを終えていた。彼女もまた、疲れているはずなのに、その立ち姿はどこか凛としていて、丈瑠は思わず見とれてしまう。

 「七瀬さん、お疲れ様」

 丈瑠が声をかけると、結愛は小さく頷いた。「佐久馬君も、お疲れ様」

 二人の間には、初日を乗り越えた者同士にしかわからない、わずかな連帯感が生まれていた。ぎこちなさはまだ残っている。けれど、言葉を交わさずとも、互いの存在を意識する特別な空気がそこにはあった。

 「……じゃあ、俺、これで」

 名残惜しさを感じながらも、丈瑠が気まずそうに頭を下げると、結愛はどこか言いにくそうに、彼の顔を見つめた。その時、丈瑠は、彼女が一人でこの暗い夜道を帰ることに、ふと気づいた。

 「あ、あのさ。夜も遅いし、人通りも少ないから。もし、迷惑じゃなかったら……家まで、送っていくよ」

 自分でも驚くほど、その言葉は自然に出てきた。バレー部で、いつも彼女の背中を遠くから見つめていた自分からは、想像もつかないセリフだった。

 結愛は、一瞬驚いたように目を見開いた後、ふわりと、花が咲くように微笑んだ。

 「……ありがとう」

 その笑顔は、彼が体育館で遠くから見ていた、クールで完璧なエースのそれとは違っていた。ごく普通の、少しだけ照れた、一人の女の子の笑顔だった。


 二人は、提灯の明かりがまばらに灯る商店街を抜け、静まり返った住宅街へと入っていく。アスファルトに残る祭りの熱気と、夜風のひんやりとした空気が混じり合い、二人の間を通り過ぎていく。

 会話は、ほとんどなかった。しかし、隣を歩く彼女の存在を、丈瑠は心臓が痛いほど強く意識していた。時折、彼女の髪から漂う、甘いシャンプーの香り。自分の半歩後ろを歩く、彼女の控えめな気配。そのすべてが、彼の五感を刺激する。

 バレー部の補欠だった自分と、エースだった彼女。コートという舞台の上では、決して交わることのなかった二つの線が、今、こうして並んで歩いている。その事実が、彼の心の中で、劣等感を少しずつ溶かしていくようだった。


 やがて、明かりが灯る一軒の家の前で、結愛が足を止めた。

 「ありがとう、佐久馬君。ここまでで大丈夫だよ」

 結愛が礼を言うと、丈瑠は「うん。じゃあ、また明日」と、少し寂しさを感じながら返した。

 その時だった。ガチャリ、と玄関の扉が開き、中から明かりと共に二人の男女が顔を出した。

 「お帰り、結愛。……あら、お友達?」

 結愛によく似た、優しそうな顔立ちの母親――七瀬涼子(ななせ りょうこ)が、丈瑠を見て目を丸くした。その隣には、少し厳格そうな雰囲気の父親――七瀬啓介(ななせ けいすけ)が、訝しげな視線を丈瑠に向けている。

 結愛は、少し照れたように、しかしはっきりとした口調で丈瑠を紹介した。「お母さん、お父さん。バイトで一緒だった、同じクラスの佐久馬君」

 丈瑠は、まさか結愛の両親に会うとは思ってもみなかったため、緊張で背筋が伸び、声が上ずる。

 「は、はじめまして! 佐久馬丈瑠です! 今日は、その、七瀬さんにお世話になりました!」

 ほとんど叫ぶような自己紹介に、結愛がくすりと笑う気配がした。啓介の眉がピクリと動いたが、涼子は「あら、まあ! ご丁寧にありがとうね。丈瑠君、結愛がごめんなさいね、気難しいところがあるから」と、朗らかな笑顔で返してくれた。

 丈瑠は、必死に誠実な態度を見せようと、もう一度、深く頭を下げた。「い、いえ! そんなことありません! 七瀬さんは、すごく仕事ができて、優しくて……尊敬してます!」

 我ながら、しどろもどろで何を言っているか分からない。しかし、その必死さが伝わったのか、厳しい顔をしていた啓介の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。

 「また、明日ね」

 結愛にそう言われ、丈瑠はロボットのようにぎこちなく頷くと、逃げるようにその場を後にした。

 夜風が、火照った彼の頬を冷やしていく。

 七瀬の両親に会ったこと、そして、彼女の隣を歩いたこと。これらは、学校では決して起こりえなかった出来事だ。彼の不完全燃焼の夏は、まだ終わっていなかった。いや、むしろ、夏祭りの熱気と、たい焼きの甘い匂いに包まれた屋台の片隅で、二人の不器用な恋の物語が、今、始まったばかりなのかもしれない。

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