第9話 偽解除の夜
午後10時07分。
〈雨路センター〉のモニターに赤い通知が灯った。
「港の夜警:第10図(印刷室)」。
早瀬綾芽は封筒の方眼紙を手で押さえ、画面のサムネイルを開く。古い印刷機の側面、金属のプレート、剥げた番号。矢羽は一つだけ、印刷室の非常扉に向かっている。脇に鉛筆で「紙の匂いを辿れ」と書き添えがある。
「印刷室……やっぱり」
霧島蓮がうなずきかけ、別の通知に顔をしかめた。
「すみません、偽の解除図、爆発的に回ってます。三者ロゴ入り、配色も似せてあります」
綾芽はタブレットを受け取る。見慣れたレイアウト。けれど、矢羽の間隔が機械的に等間だ。文言も「エレベーター優先」「速やかに通常動線」——お願いではなく命令、しかも今夜だけは使ってはいけない言い方だ。
「怒らない。正すだけ」
綾芽は息を整え、ローカルFMの神代砂羽に発信した。
午後10時10分。
天心地下街。御堂夏海は、踊り場で人の列の顔つきが変わるのを見た。スマホの画面を覗き込んでいた若い男性が、「解除だって」と口にする。その一言で、列の末尾がエレベーターへ向きを変えかける。
御堂は掲示の束を胸に抱え、最前にすっと出た。
「一段上がって、周りを見る——そのまま、ゆっくり」
声は低く、やわらかい。掲示の端の蓄光テープが、薄い光を返す。
少し間を置き、彼女は笑って付け足した。
「お願いします」
命令ではない言葉が、列の角度を戻す。エレベーターの前に向きかけた人々が、顔だけ上げ、矢羽の方向へ半歩で戻る。その動きが、次の人の呼吸を整えた。
機械室では、リンがポンプの脇で耳を澄ます。
「5号、安定。——でも2号のベアリング、さっきより微妙に外れてる」
宇多川仁が眉を寄せ、メーターにライトを当てる。「電流値は合ってる……音はズレてる、か」
リンは頷いた。
「別系統の唸り。外で何か、空気が逆に吸ってる感じ」
彼女の言い方はいつも通り小さいのに、室内の金属にはっきり届いた。
午後10時12分。
ローカルFMのスタジオ。神代砂羽は、原稿用紙の端を片手で押さえ、マイクに近づく。
「『解除』という言葉が見えても、雨はその言葉を知りません。本物の案内は——三者ロゴ、階段優先、そしてお願い口調。この三つが揃っていない図は、見ない・広げないでいきましょう」
隣で手嶋ミキが、手で「見ない」「広げない」を描く。掌がふわりと閉じて、空に消える。
コメント欄に「了解」「矢羽見えた」の文字が並ぶ。怒りの言葉もあるが、神代は拾わない。怒らず、正すだけを繰り返す。
午後10時14分。
名香川の堤。松永茂は傘の骨を指で弾き、音の返りを確かめた。川の重さは安定している。だが、奥の風の層が一段増えている。
「三段目の前の前だな」
古い携帯に《顔を上げろ。矢は短く》と打って送る。
返事は要らない。同じ方向に顔が向くことが、もう返事だ。
午後10時16分。
羽鳩こども病院の裏口。多々良美波は、保育器の角を握りながら短く息を整える。
若い看護師がスマホを見て眉をしかめた。「解除って——」
「矢を見て」多々良は即答した。短く、やわらかく。「ふつうに、早くいくよ」
その声に、看護師の肩がゆるむ。配達ライダーの吉永駿が段差にしゃがみ込み、手の甲で水を払う。矢は濡れた床に細く光る。
遠くで救急車の音が一音欠けて止む。すぐに別の音が繋ぐ。夜はまだ、長さを測っている。
午後10時18分。
——どこかの小さなワンルーム。
中洲玲は、ノートPCの画面に映る自分の「まとめ記事」をスクロールしながら、唇の内側を噛んでいた。
“公式風解除マップまとめ(保存版)”
サムネイルに三者ロゴを貼ったのは午前中。今はトレンドの上位。広告の時給換算を計算するたび、胸の中の何かが少し苦くなる。
新しいコメントが入る。
《母が戻りかけた。エレベーターに並びそうになって、ラジオで助かった。ありがとう》
「ありがとう」の言葉は記事に向いているが、玲のほうには向いていないのを、彼女は知っている。
画面の隅のライブ配信に神代の番組が映る。怒らない声。お願い口調。
玲はPCの蓋を一度閉め、すぐ開けた。
もう一稿書ける。「偽情報見分け方まとめ」。同じ手で、逆のものを書く。
指が、キーボードの上で止まる。
同じ手。
モニターの隅に、蓄光の矢の写真が映った。
「——ねえ」
玲は誰にともなく呟き、記事のタイトルバーを消した。
午後10時21分。
〈雨路センター〉に電話が鳴る。
「はい、雨路センター」
『花井です。持っていきます。間に合ううちに』
短い言葉。受話器越しに、紙のこすれる音が乗る。
「こちらも向かいます。印刷室の鍵は?」
『古いカードが効くかもしれない——試す』
通話が切れると同時に、センターの照明が一瞬だけ落ち、すぐ戻った。
霧島が顔をしかめる。「停電、局所的に増えてます」
「大丈夫。矢は暗いほど見える」
綾芽は古い蛍光テープの巻きをポケットに入れ、方眼紙を丸めた。
午後10時24分。
地下街のエレベーターホールに、小さな人だかり。
御堂は、エレベーターに向きかけた列の先頭に歩み寄り、掲示を胸の前に掲げて一礼した。
「お願いです。階段をお使いください。矢印のところで、顔を上げて」
命令ではない言葉に、罪悪感を伴わない方向転換が起きる。
若い男性が言い訳の顔でスマホを見せる。「友だちがこれ……」
御堂は画面を見て、微笑む。
「間違いでも、大丈夫。今から正せます」
その一言で、彼の頬がゆるむ。
列の先頭で半歩の間が戻り、流れが細く強くなる。
見ていたリンが小さく呟く。「怒らず、正す……効く」
午後10時27分。
堤。松永の耳に、低い吸う音が乗る。港側の空気の逆相。
老人は首を傾げる。「どこかが裏返ってる」
その言葉は電話に乗り、雨路センターへ届く。
「リンの言ってた別系統……」綾芽は頷く。「印刷室で空気系の図面が見つかれば、どこが裏返ってるかがわかる」
霧島がコートを掴む。「行きます?」
「行く。怒らず、正すと同じ。裏返ったものは、表に返すだけ」
午後10時30分。
病院の裏口。
多々良が最後のカーブを曲がり、軒の蓄光の矢に視線を合わせる。
若い看護師が小さく笑う。「矢、綺麗ですね」
「人が綺麗なんだよ」多々良も笑った。「矢は、人の目が作る」
その時、家族連れが解除図を手に近づき、反対方向へ行きかけた。
吉永がさっと前に出る。「矢を見てください。階段です」
父親が戸惑って顔を上げる。矢の光が視線に入る。足が自然に向きを変える。
謝罪も言い訳もない。顔が合うだけで、十分だった。
午後10時34分。
どこかの室内。
中洲玲は、編集画面を空白のままにして、指を止めていた。
新しい通知が届く。
《まとめ助かった、って言われるけど、ラジオの言い方が一番効く。ごめん、正しいのどれ?》
玲はPCを閉じ、スマホを取った。
検索窓に**「怒らず 正す 矢印 3つ」と打つ。
出てきたのは、神代の番組の書き起こし**。
玲はしばらく画面を見て、ゆっくり立ち上がった。
クローゼットから、使いかけの蓄光テープが出てくる。撮影用の小道具として買って、ほとんど使っていない。
「——どっちに貼ればいい?」
答える人はいない。
彼女は玄関のドアを開け、夜の匂いに顔を出した。
午後10時38分。
〈雨路センター〉の出入り口。
花井進が濡れた上着のまま駆け込んだ。胸ポケットからメモ束を取り出し、綾芽に差し出す。
最上の一枚。丸い、見覚えのある字。
『潮の時計は人で回す。∴ は息の印。名より線。——しおり』
綾芽は文字を追い、目を閉じた。
胸の中で何かが同じ高さで鳴る。
「——お母さん」
花井は頷く。
「印刷室の鍵は?」
花井は緑の古いカードを掲げた。「試す」
午後10時41分。
地下街の一角。
解除図を掲げた数人が、再びエレベーターホールへ向かう。
御堂は彼らの前に立ち、深く頭を下げた。
「お願いです。階段で。——助けてください」
「助けてください」という言葉は、命令より重い。命令よりやさしい。
エレベーターに向かっていた足が、一斉に揺り戻る。
彼らの後ろで、別の人がためらい、顔を上げる。
怒らず、正すは、自分の体を通るたびに強くなる。
午後10時45分。
センターを出た綾芽・霧島・花井は、印刷室のある旧庁舎棟へ小走りで向かう。
廊下の蛍光灯が、時々一灯ずつ抜ける。暗いほど、矢は見える。
曲がり角の壁に、小さな∴。粉の匂い。
花井が緑のカードを差し込む。喉を鳴らすような小さな音——開いた。
午後10時48分。
旧印刷室。
金属の匂いと、紙の粉。
壁に、古い矢羽の原型。切り出し前のテンプレート。
綾芽は指でなぞり、鼻の奥が熱くなる。
「ここで、矢は作られた」
花井が頷く。「言葉も」
霧島が棚の奥から筒形のケースを見つけた。中には色の外れた蓄光テープの未使用ロールが幾つか。
そして、細い紐だけ残った綴じ紐。紙の束は、抜かれている。
「雨路の手帖」
綾芽は紐を指で持ち上げ、ほんの少し震えた指先を見た。
午後10時51分。
その時、非常電話の赤い小さな目が点いた。
誰も触っていないのに、受話器が呼吸するように温かい。
綾芽はそっと耳に当てる。
ノイズの奥から、短い声。
『——矢は短く。顔を上げて』
訓練音声の断片。けれど、時刻に合っている。今、必要な言葉だけが、今届く。
花井は目を閉じ、肩を落とした。
「——あの夜、切れた回線の先に、これがあったのか」
誰のせいでもない断線。
名より線。
言葉は、矢のように短いほうが遠くまで届く。
午後10時54分。
ローカルFM。
神代は、ひと呼吸置いてから言った。
「解除の図が回っています。悪意ばかりではありません。焦りがつくる図もあります。だから、怒らず、正す。三者ロゴ/階段優先/お願い口調。——この三つが、わたしたちの合言葉です」
ミキが手で「合言葉」を描く。輪になって、ほどける。
コメント欄に「合言葉」の文字が溢れ、誰かがそれを手書きで撮って上げる。
矢羽の写真と並んで、言葉が流れ始めた。
午後10時57分。
中洲玲は、交差点の軒下でスマホを掲げた。
雨に滲む画面に、矢羽が映る。
彼女は胸ポケットから蓄光テープを出し、店先の許可を一言で取り、靴のつま先で位置を測って短い矢を貼った。
「お願いします。——階段は、こちら」
声が震えた。けれど、通りがかった人の目が合った。
怒りも正しさも、彼女の手を抜けて、街のほうへ流れていく。
玲は小さく息を吐いた。
同じ手で、逆のものを書き換える。
それは、今日できる小さな訂正だった。
午後11時00分。
〈雨路センター〉。印刷室から戻った綾芽の端末に、赤い通知が落ちる。
「港の夜警:第11図(空気)」
添付には、配管図の手描きコピーに細い矢。
『吸っている口を、元に』とだけ書いてある。
リンに転送すると、すぐに返信が来た。
《逆相、やっぱりある。——音、合う》
宇多川からも短い返信。《現場で返す。合図、ください》
綾芽は、印刷室の棚から見つけた鉄製のハンマーを握った。
壁のパイプに、右・右・左のリズムで小さく打つ。
印刷室に残っていた古い合図。
音で曲がれ。
音で返せ。
午後11時03分。
堤。松永の耳に、滑らかが短く戻る。
間。
その間を縫うように、街のあちこちで合図が連鎖した。
FMの音、手の形、足音、金属の軽い打音。
雨は相変わらず白い。
けれど、街の肺は、もうきしんでいない。
午後11時06分。
神代の声が少しだけ明るくなる。
「いま、街は持っています。ありがとうございます。顔を上げて、矢を見て、お願いの声に耳を貸してください」
ミキが手で「ありがとう」を描く。広がって、戻る。
画面に、矢羽と「ありがとう」が並び始める。
誰も、名を名乗らない。
名より線が、夜を渡っていく。
午後11時10分。
綾芽は、古い蛍光テープをポケットから出し、指に巻いた。
指の熱で、少し柔らかくなる。
印刷室の扉の縁に、小さな∴を一つ、指でなぞる。
花井が隣で静かに笑った。
「——間に合った」
霧島が頷く。
そのとき、非常電話が一度だけ鳴った。
受話器を取る。
『綾芽』
一言だけ。
切れた。
ノイズの代わりに、紙の匂いが耳の奥に残った。
雨は、まだ続く。
それでも、偽解除の夜は、静かに書き換えられていった。
怒りの代わりにお願いが、疑いの代わりに見上げる目が、街の壁に薄く残像になって貼りついていく。
港の夜警が誰であってもかまわない。
同じ手で、同じ方向を指している。
そのことだけが、今夜は確かだった。
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